弐―覚悟

弐の壱 巫女の宿命

 空鵞奏恵の自宅はごくあり触れた一軒家だ。母親を早くに亡くし、祖母も一ヶ月前にこの世を去ったため、今は父親と二人暮らしである。しかし、二人で使うにはちょっと広すぎると奏恵は思っていた。

 《絡新婦》を退けた三人がそこに辿り着いたころにはすでに時計の針が十九時三十分を指し示していた。流石に一人娘の帰宅が遅いことを心配した奏恵の父・圭悟が自宅の前で忙しなくあたりを見回していたのだ。

 そして帰宅して来た奏恵の姿を見つけた彼はわき目も振らずに駆け寄った。


「奏恵! 良かった、遅いから心配したんだぞ!」

「ご、ごめんなさい、お父さん……その……」


 言い淀む奏恵の様子がいつもよりもおかしいと感じた圭悟は彼女に付き添っていた二人の人物を見た。

 一人は柚葉。奏恵のかけがえのない友人だが、今の彼女の来ている制服には血がこびり付いた跡があった。

 もう一人は銀髪の男。見知らぬ……と言いたいところだったが、圭悟はその姿に見覚えがあった。そしてその正体も知っていた彼は、男の姿によって奏恵や柚葉に降り掛かった事態を把握したのだった。


「……何かあったみたいだね、とりあえず家に入ろう。柚葉さんと大狼オオカミ様もどうぞ。特に柚葉さんのその格好は目に毒ですから、お風呂も使っていってください。家の方には僕から伝えておきますから」

「ありがとうございます……って、大狼って誰?」

「この姿での吾の名だ。やはり覚えていたか、圭悟よ」

「ええ、覚えていますとも。積もる話はまた後ほど」


 庇うように奏恵の背中を優しく押す圭悟は大狼に振り向くとそう微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


 夕飯の仕度はとっくに出来ていた。奏恵の父・圭悟はライター業で働いているため、普段は自宅にいる。そのため、家事全般は主に彼の仕事だ。

 だが、彼は奏恵と柚葉に先に風呂に入るよう促した。二人とも怪我は回復しているが、《絡新婦》から逃げる際に汚れた服はそのままだったので、その着替えも兼ねての提案だ。

 かなりの頻度で泊まりに来る柚葉の着替えは奏恵の部屋にある。だから二人が断る理由はなかった。

 それに、あの戦いの直後で食べ物が喉を通るとも思わなかった。


 脱衣所に来た二人はおもむろに着ている服を脱ぎ始める。女同士だし、今さら恥じらうものでもない。そうして生まれたままの姿になった二人は揃って浴室に入った。


「……本当に傷一つありませんね」


 湯気が立ち込める浴室内。自分の身体を洗いながら柚葉の身体を見た奏恵はホッとため息をついた。傷も痣も残っていないし、骨が折れている様子もなかった。彼女のバスケの活動に支障が出ないことに奏恵は安堵したのだ。


「不思議だよね。あれだけ血を流したはずなのに、貧血感まるでないし……ほら、血色いいでしょ?」


 柚葉は見せつけるように自分の左腕を突き出した。水に濡れた肌は瑞々しく赤みを帯びて、いつもの元気な柚葉の色をしていた。

 薙刀やバスケで鍛えられた柚葉の身体は適度に筋肉がついていて体幹がしっかりとしている。しかしガッシリとしているわけではなく、胸元や腰回りなどは第二次性徴を迎えた女の子らしい柔らかな丸みを帯びている。胸の大きさならクラス内でも上位に入るだろう。身長も高く、その抜群のスタイルは女子からの人気も高い。

 一方、スポーツとは無縁な奏恵は雪のように白い肌である。背の高さは平均的、胸も控えめな細身の身体と、柚葉と比較すれば目立つ要素が少ない。だが、奏恵が町の着物コンテストで優勝した経験を持つ程の美人であることには間違いない。本人は謙遜しがちだが、周りからの評判は著しく高かった。


「本当に、ゆずちゃんが無事で良かった」


 先に身体を洗い終わった奏恵が湯船に浸かりながら改めて言った。


「もう、さっきからそればかり。でも、あたしも言ってなかったね。助けてくれてありがとう」

「い、いえ、私なんて……むしろ、私がゆずちゃんに助けられていたんです」

「あたしはただ手を握っていただけ……っと、ちょっと詰めて」


 柚葉は奏恵に空けてもらった空間に、彼女と背中合わせになるように入った。二人の高校生が浸かると湯船に溜まっていた湯は溢れ出し、浴室の床へと流れ落ちた。


「あの巨人を動かして、化け物を倒したのは紛れもなくカナ。それでなければあたしはあの場で死んでいた。だから、あたしを助けたのはカナなんだよ」


 背中合わせで顔は見えない。けれど、柚葉がどんな表情をしているのかはなんとなくわかった。綺麗な白い歯をにぃっと露わにした、気の良いいつもの微笑み。奏恵が一番好きな柚葉の表情カオ。それを今の柚葉は浮かべている。

 助けてくれてありがとう。生きていて嬉しい。そんな声まで聞こえてきそうなのは、もしかしたら自惚れなのだろうか。


「ゆずちゃん……!」


 ああ、今日だけで何回涙を流したのだろう。でも、今流しているのは今までと違う気持ちから出てきていた。

 彼女の震える肩を背中に感じながら、柚葉は微笑み、でも今までのように抱きしめたりはしなかった。


「ねえ、カナ。きっといろんな大変なことがあると思うけどさ。あたしは何があっても、カナの味方だからね」


 その言葉は奏恵の胸に落ちて響き渡り、堪え切れなくなった奏恵は両手で顔を覆って泣き続けた。

 その優しい泣き声を柚葉はただ静かに聞いていた。


 ◇ ◇ ◇


 風呂から上がり、髪を乾かして、綺麗な服に着替えた二人がリビングルームに行くと、すでに食事が用意されていた。今日は豚の生姜焼き。添えられた千切りキャベツと白ご飯が彩りを与え、食欲をそそらせてくる。豆腐とわかめの味噌汁は塩分控えめで口直しにちょうどいい。


「ちょっとだけでもお腹に入れておきなさい。お二人も、良かったらお召し上がりください」


 奏恵は自分の席に座って、「いただきます」と一言呟いた後に手にした箸でご飯を恐る恐る口に運んだ。やはり喉を通りにくいが、ゆっくりと着実に箸を進めていく。

 味自体はごく普通に美味しいという感想が出る。プロ並みの腕でもなく、逆に下手すぎるわけでもない。しかし、その「いつもの味」は突然襲ってきた非日常によって心を痛めていた奏恵にとって安心できる清涼剤であった。

 隣に座った柚葉と、彼女の正面に座った大狼も食事を進めた。普段から体力を使うことが多い柚葉の食べっぷりは見ていて気持ちのいいもので、今日もそれは変わらなかった。一方の大狼は一口が少ないが背筋がピンと伸びていて姿勢が大変良く、年若い見た目に反して年季の入った相応の風格を感じさせた。

 食事中は誰一人として夕方の一件について口にしなかった。せめて食事中は安心してほしいという父親の気遣いが大きかったのだろう、話題は奏恵と柚葉の学校でのことが主だった。明日二人で出かけることを話すと彼は「楽しんできて」と微笑んだ。


「では、そろそろいいだろうか」


 それまで静かだった大狼が口を開いたのは、全員の食事が終わって一呼吸置いた後だった。

 奏恵はびくりと震えた後、不安な眼差しを大狼に向けた。


「そうですね。……夕方に何があったのかは、大狼様から聞きました。本当によく頑張ったね、二人とも」


 労いの言葉を掛けながら、圭悟は黒縁のメガネの奥で目を細めた。

 大狼はそれに構わずに話を続けた。


「改めて名乗ろう。吾は《羅生紋》、この姿では大狼と名乗っている。代々より空鵞に仕えている【式機シキ】だ」

「【式機】って、あの巨人のこと?」

「然り。【式機】にも様々な容があるが、そのほとんどが【修羅】に対抗するために巨人の姿を象っている」

「【修羅】は、あの蜘蛛のことですよね」

「それもまた然り。奴は《絡新婦》と呼ばれる【修羅】の一。吾等【式機】の使命は、巫女と供に彼の悪鬼【修羅】のことごとくを滅却することである」

「空鵞家が元々は神社を運営していたことは知っているよね?」


 圭悟に問われた奏恵は頷く。

 祖母の代に至るまで、空鵞家は空鵞神社の運営をしていたと聞かされている。だが、奏恵の両親の結婚を機に祖母は神社の権利を他の人に譲り、以降空鵞家は神事から離れた生活をしてきた。そのため、奏恵には自らが神社の出であるという実感はなかった。

 大狼は続ける。


 そもそも【式機】は陰陽師が扱う【式神シキガミ】と呼ばれる使い魔を基に空鵞の手によって生み出された。即ち空鵞は日本で初めて【式機】を開発・起動した家柄なのである。

【式神】は陰陽師の支援を目的としているため狐や蛇、龍などの生物の容をしている。そこに必要とされる神力は程度の差はあれど微々たるもの。

 対して【式機】は人間では到底敵わない巨大な【修羅】を相手取ることを目的としており、その平均を取った大きさを誇る巨人の姿が前提となっている。その巨体を維持・操作するために必要な神力は生半可なものではなく、生まれながらにして御神の寵愛を受けた者にしか扱えない。それこそが神主や巫女を始めとする神職だ。

 その総本山たる空鵞は、産まれ持って最高位の神力をその身に宿す御神の遣いとされていた。


「神力は血筋で受け継がれていく。代を追うごとに一般の血が交わるため力は弱まるが、それでも【式機】を扱うには充分だ」


 そこまで言うと大狼は「最低限の説明は終えた」と言わんばかりに口を閉ざした。


「じゃあ、極端な話、【式機】に乗って【修羅】と戦うことが空鵞の……カナの宿命だって言うの?」


 柚葉の問いに大狼はただ頷いた。柚葉は唇を噛み締めて、先ほどから気になっていた別の質問を投げた。


「……あのさ、あんたのその包帯で巻かれている右腕は何か意味があるの?」


 それは、大狼の右腕を覆っている包帯のことだ。


「これは封印である」

「封印? まさかそれが解けたら破滅の力が解放されるー……とか言わないよね」

「まさにその通りであるが、よくわかったな」


 感心する大狼に対し、柚葉は苦笑いした。ただからかっただけなのだが、まさか本当にそうだとは思わなかったのだ。


「吾が右腕は【鬼ノ腕】と呼ばれる代物である。邪気が集い、触れた物のことごとくを灰燼と化す。故に解放してはならない。それは《羅生紋》の姿でも同じことだ」


 確かに、《羅生紋》の右腕も重装甲に覆われていた。他の装備とは似つかわしくないものであったが、あれが【鬼ノ腕】に封印を施すためのものであるとなれば納得がいく。

 そして一連の説明を表情一つ変えずに聞いていた圭悟の様子に、奏恵がおずおずと声を掛けた。


「お父さんは、知っていたんですか」

「……うん」

「どうして言ってくれなかったんですか」

「奏恵には家の宿命とか、そういうこととは無縁でいて欲しかった。おばあちゃん……僕のお母さんも、そのために神社を手放したから。それでも、神力を持つ空鵞の人間である以上は【修羅】との戦いからは逃れられない。だからせめてもの保険として、おばあちゃんは奏恵に《羅生紋》を封印しているその勾玉……【神霊勾玉シンレイマガタマ】を預けたんだ」


 それを聞いた時、奏恵はふと亡き祖母の姿を思い出していた。

 いつも私のことを気にかけてくれたおばあちゃん。普段は優しいけど、嫌なことや理不尽なことに対してははっきりと怒る、ちょっと頑固なところがある人だった。ゆずちゃんのおじいちゃんとはお互いに頑固だから仲が悪かった。

 おばあちゃんは突然姿を消すことがあった。徘徊癖があるわけではないし、本人は散歩をしているだけだと言っていたから、私も特に気にも留めていなかった。でも、おばあちゃんが昔に巫女をやっていたことを考えると、その「散歩」の意味もなんとなくわかってくる気がした。

 私が産まれてからもおばあちゃんは、《羅生紋》で【修羅】と戦い続けていたんだ。

 次代の巫女である私が戦わなくてもいいように。


「……私は守られていたんですね」


 おばあちゃんの「散歩」は奏恵が小学校に入るころには無くなっていた。その時に【修羅】との戦いが落ち着いたのだろう。

 それからもおばあちゃんは学校に通う奏恵の帰りを自宅で待ち続けていた。自分がそこに居ることで、彼女の心安らぐ場所を守っていた。

 おばあちゃんだけではない。父・圭悟も、奏恵に余計な心配を掛けさせまいと何も語らずにいた。彼もまた、奏恵の日常を守っていたのだ。

 もしかしたら、奏恵が幼稚園のころにこの世を去った母も……。

 そう、奏恵は常に誰かに守られていた。そうして平和に生きてきた。

 その裏で様々な苦悩があったことも知らずに。


「……ッ」


 自分の不甲斐なさを思い知った気がして、奏恵はスカートの裾をギュッと握りしめた。

 自分が何をするべきなのか、何を答えるべきなのか。それを頭では理解している。だが、口が開かない。言葉にするのが怖ろしかった。

 そんな奏恵の表情を読み取ったのか、柚葉は大きな音を立てながら立ち上がると、ズイッと大狼に詰め寄った。


「でも、そんなのはそっちの勝手な都合じゃないか。カナが戦う理由にはならない! それに戦いならあたしがやる、あたしだって寺の娘なんだから似たようなものでしょ!」

「寺では無理だ」

「どうして!」

「寺は御神ではなく、仏だろう。現に汝の身から神力は一切感じられない」

「ぐっ……」

「さらに、喩え汝に神力があろうとも、空鵞の血を引く者でなければ吾を扱うことはできない。つまり、汝が奏恵に代わって【修羅】と戦うことは不可能だ」


 正論。柚葉には返す言葉がなかった。

 冷たく重い空気が部屋を包み込んだ。奏恵と柚葉はその空気に呑み込まれたかのような暗い表情のまま、何も言うことができなかった。

 そんな様子を見兼ねた圭悟はゆっくりと立ち上がり、食卓の上に残っていた食器を集め始めた。


「まあまあ、突然いろいろと言っちゃって気持ちの整理が追いついていないだろうし、今後に関わる大事な話です。今すぐに答えを出すのは無理でしょう」

「そうだな。幸いにも【修羅】の情勢は弱まっている故、考える時間は優にある。奏恵よ、よく考えて答えを出すといい」

「はい……あの、私、今日はもう、部屋に戻りますね……」


 重々しく頷いた奏恵は覚束ない足取りでリビングを後にしようとする。それを止める者は誰もいないが、


「ああ、ゆっくり休め。だが、これだけは言わせてもらおう。吾らが戦わなければ、多くの犠牲が出るぞ」


 大狼の言葉が背中に重くのしかかり、奏恵の胸中で幾度も木霊した。

 そうして奏恵は二階にある自分の部屋へと戻っていった。彼女の部屋の扉が閉まる音が聞こえた瞬間、柚葉は食卓を思い切り叩き付けた。


「あんな言い方は卑怯でしょうが!」

「だが、事実だ。【式機】を扱える人間がこの町にどれほどいるかは判らぬが、先の《絡新婦》が野放しにされていたことを鑑みると期待はできない。故に、戦えるのは吾らのみなのだぞ」

「だからってあんたは、あの子の気持ちを無視してまで戦わせたいの!?」

「汝……柚葉と言ったな。吾はただ、奏恵に悔いのない選択をしてもらいたいだけだ。最後に選ぶのは彼女の意思である。汝こそ、奏恵のためと謳っているが、本当に彼女の想いを理解しているのか。汝が彼女に理想を押し付けているだけなのではないか?」

「なんだって……!」

「はいはいそこまで。これ以上言い合っていても仕方ないし、このままケンカにでもなったらそれこそ奏恵につらい思いをさせるだけですよ」


 今にも殴り合いに発展しそうな一触即発の空気を正したのは圭悟だった。

 確かにここで言い争って、あるいは実力で相手を黙らせたところで何の解決にもならない。そもそも殴り合いで大狼に勝てるはずがないだろう。柚葉は不満をぐっと抑えながらも押し黙った。


「柚葉さん。もしよろしければ、今夜は泊まっていってください。あの子の側に……お願いできますか?」

「ええ、それはもちろん。今夜はお邪魔になります」

「ん、気にしないで。いつも通りでいいですから」

「……あのさ、大狼」

「む」


 柚葉は大狼の方に向き直ると、照れくさそうに頭をかいた。


「その、さっきは怒鳴ったりしてごめん。あんたがあたしたちを守ってくれたのは事実だし、使命に忠実なのもわかるよ。でも、あたしはやっぱり、カナを戦わせるのには反対。それだけはちゃんと伝えておきたかった」

「うむ、こちらこそ厳しく当たってしまい申し訳なかった。彼女を空鵞の……否、吾の使命に巻き込ませたくないという汝の想いも吾は理解した。吾は奏恵に強制せず、その選択を見守るとしよう」


 それを聞いた柚葉は頷くと、奏恵を追って二階へと上がっていった。

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