壱の伍 必殺、羅殺月影斬!

『この《羅生紋ラショウモン》、空鵞奏恵の劔と為りて【修羅シュラ】を滅する!』


 奏恵の覚悟を受け取った巨人――《羅生紋》は宣告した。

 すると、奏恵の秘めた神力が《羅生紋》の全身を血流の如く駆け巡り、紅の輝きを解き放った。その瞬きを浴びた蜘蛛は光から逃げるように退いた。

 この瞬間、《羅生紋》は初めて奏恵の命令を受け付けるようになった。彼女を主として認めたのだ。

 その証拠に、《羅生紋》は蜘蛛に向かって飛び出し、握り締めた右の拳を突き出した。


「うあああああああああッ!」


 奏恵のがむしゃらな叫びが響き渡る。鋼鉄の塊となった拳は蜘蛛の顔面を真っ直ぐに捉えた。

 ぐしゃり、と音を立てて蜘蛛の顔面が悲痛に歪む。抉るように潰れた左の頬は陥没し、どす黒い粘液を噴出させた。

 その様を見た奏恵はすくみ上がった。文字通り虫一匹殺せない少女が、間接的にとは言え初めて誰かを傷つけ、血を流させた瞬間だった。

 それでも奏恵は《羅生紋》の右の拳で敵を殴り続けた。

 怖い。

 苦しい。

 痛い。

 拳を叩き付ける度に血を流す敵を見て、奏恵の心臓も締め付けられる。

 それでも、誰かを守るためには必要なことなのだと、自分に言い聞かせた。

 ――これまではゆずちゃんがそうしていたように。


「今度は私が、ゆずちゃんを守るんだッ!」


 なけなしの勇気を胸に、勢いに任せた左の拳が蜘蛛の上半身を撃つ。拘束具で固められている分の重さがある右腕に比べてその威力は小さい。だが、敵の巨体を吹き飛ばすほどの力はあった。

 蜘蛛は宙を舞い、地面の上に転がり落ちた。


「や、やったの……?」


 震える身体と激しい心臓の動悸を抑えながら奏恵は呟いた。「もう終わってほしい」という願いがそこにはあった。

 だが、


『まだだ、油断するな!』


 倒れた蜘蛛が素早く体勢を立て直す。すると全身の至る部位から銀色に煌く無数の糸を放出した。

 吐き出されたその糸は変幻自在に弧を描き、《羅生紋》の四肢に絡み付いた。


「な、なにこれ、動けない!」


 四肢を封じられた《羅生紋》は身動きが取れない。力尽くで引き千切ろうとしても、糸はそれを凌駕する強度を誇る。糸というよりはワイヤーに近い性質だろう。

 そうやって糸の対処に戸惑っていると、蜘蛛の節々が青白い閃光を迸らせた。バチバチと瞬きながら糸を駆け巡り《羅生紋》に届く。瞬間、超高圧の電撃がその全身に襲い掛かった。


「キャァァァーッ!」


 その衝撃は内側にも届いていた。奏恵は悲鳴を上げ、頭を抱えてうずくまってしまう。


『落ち着け、汝にとっては多少の揺れに過ぎない。痛みは全て吾が引き受けている』

「そ、そんなこと言われても」

『しかし、このまま雷を受け続ければ敗北は必至だ。故に今は、汝が神力を集中させ、糸そのものを弾き返す結界を展開させるのだ』


 神力を用いた術の基本中の基本である結界。それはあらゆる攻撃を遮断する光の壁を指定の位置に展開するというものだ。


「け、結界……出て、出てくださいッ!」


 奏恵は唇を噛み締めて嗚咽を堪えながら、必死に意識を集中させようとした。しかし電撃の余波で空間が揺らぐ度に恐怖心が脳裏をかき乱していく。


「だ、ダメ……結界なんて、どうやって……!」


 なけなしの勇気はとっくに砕け散っていた。

 集中なんてできるはずがなかった。

 神力は《羅生紋》の前で光り輝くが、呆気なく分散してしまい結界としての形を成さない。それを繰り返している間にも流れてくる電撃が《羅生紋》の耐久力を消耗させていく。


(不味いな、取り乱している。ここから立て直すのは不可能か)


 この様子からすると「空鵞の巫女」としての使命を何一つとして知らず、戦いとは無縁の世界で生きてきたのだろう。そんな少女が突然「戦え」と言われれば、混乱しない方が無理な話だ。緊急の事態とはいえ、無理を強いてしまったと《羅生紋》は反省する。

 だが、それはそれとしてこの状況はよろしくない。冷静さを欠いた状態で術が正常に機能するはずが無いのだ。初心者ならなおのことである。

 どうにかして落ち着かせなければならないが、その方法を《羅生紋》は知らない。彼に出来るのは巫女の劔として敵を斬ることだけだ。


「やっぱり、私には無理です……」


 奏恵の心はもはや折れていた。

 空間の揺れは次第に激しくなっている。《羅生紋》が抑えているダメージが直接襲い掛かってくるのも時間の問題だ。

 そんな時だった。


「落ち着いて、カナならやれる!」


 その言葉と同時に奏恵の左手が柔く包み込まれた。

 聞き慣れた声と手のひらに伝わってくる感触は、失意に陥っていた奏恵の意識を一瞬で呼び戻した。

 ハッとなって振り返るとそこには倒れていたはずの柚葉がいた。服に血がこびり付いているが、傷は完全にふさがっている。血色も良くなっていた。《羅生紋》の言う通り、この空間に満ちる神力が彼女の傷を癒したのだ。


「ゆずちゃん!」


 奏恵は親友の無事を喜んだ。

 それを受けた柚葉は奏恵の左手を握ったまま彼女に微笑みかける。


「ぶっちゃけ状況はよくわからないけど、あたしが側にいる。だから安心してカナは目の前のことに集中して!」

「はい!」


 鏡の向こう側では、蜘蛛の放った電撃が糸を介して迫り来ていた。徐々に上がっていた電撃の威力は今や計り知れないほどになっている。

 しかし、今回はこちらも一味違う。

 涙を右腕で拭った奏恵の目つきはさっきまでと打って変わって自信に満ち溢れていた。柚葉と手を繋いだまま、奏恵は右手を前に突き出して念じる。


 ――結界よ、どうか私たちをお守りください!


《羅生紋》の前で神力の粒子が集う。それは五芒星の紋様を描き、光の壁となって構築された。

 そして光の壁は、《羅生紋》を拘束する糸ごと敵の電撃を完全に掻き消したのだ。


「やったじゃん、カナ!」


 糸が切り離されたことに怯む蜘蛛を尻目に、柚葉は奏恵を称賛した。


「で、できた、私が……?」

『ああ、よくやった。ここから反撃だ!』

「は、はい!」


 敵が再び糸を使ってくる前に、奏恵は《羅生紋》を動かした。

 一歩を踏み出し、大地を蹴り上げて大空に跳ぶ。そして落下の勢いをつけたキックを蜘蛛の脳天に直撃させた。

 手応えを感じた《羅生紋》は着地する。蜘蛛の顔面は見るも無残に潰れていた。奏恵の胸中がチクリと痛むが、もはや敵を殴ることに躊躇いはなかった。

 蜘蛛が悲鳴を上げながら全身を震わせ、再び無数の糸を吐き出す。


「結界!」


 だが、奏恵は的確に結界を展開してそれを弾き返した。

 さっきまで怯えていたのが嘘のようだ。柚葉が隣で手を繋いでくれているだけで、恐怖の全部が取り除かれるようだった。


「ねえ、武器とか必殺技とかないの?」


 柚葉が《羅生紋》に問いかける。すると《羅生紋》は力強く答えた。


『ある。奏恵よ、今こそ我が草薙羅殺クサナギノラセツを抜刀する時だ!』


 《羅生紋》の左の腰には鞘に収められた日本刀がある。奏恵は言われるがまま《羅生紋》の右手でその刀を抜かせた。

 鞘から抜け出た白銀のヒヒイロカネの刀身が夕日を反射して鋭く煌く。

 それこそが、【修羅】を斬ることのみを目的として造られた《羅生紋》の愛刀・草薙羅殺。


「私、刀なんて子供の頃に玩具のを使ったことしかないですよ!」

『大丈夫だ、吾と同化している汝ならば如何様にも扱えよう』


 事実、《羅生紋》に刀を構えさせる奏恵には、まるで古くから慣れ親しんでいるかのように日本刀の扱い方がわかっていた。


「あたしも薙刀なら爺ちゃんに叩き込まれてるから、いざとなったら助けられるよ!」

「薙刀と一緒にするのは違う気がしますけど……ありがとうございます、ゆずちゃん!」


 蜘蛛が動く。糸が通用しないと判断したのだろう。両腕のかぎ爪を振りかざして《羅生紋》に飛び掛かってきた。


「くっ!」


 そのかぎ爪を刀で受け流す。この世のあらゆる鉱石を凌駕する強度を誇るヒヒイロカネの刀身にヒビが入ることはない。

 受け流したことで相手の体勢が大きく崩れる。《羅生紋》は無防備になった胴体を蹴り飛ばして距離を離した。


『神力を刀に集中させよ。必殺の剣を今ここに!』

「わかりました!」


 さっきのような失敗はもうしない。

 奏恵は落ち着いて神力を草薙羅殺の刀身に集中させた。するとその白銀の刀身は雷光の如き青白い光を纏って強く迸る。

 力は充分に集った。あとはこれを敵にぶつければいいだけ。

 そう考えた瞬間、奏恵の全身が緊張で強張った。


「大丈夫だよ、カナ」


 ぎゅっと、繋いだ手に力が入る。


「……ゆずちゃん」


 手を握り返す。伝わってくる優しい温もりがまるで全身を包み込んでくれているようだ。

 ずっと隣で寄り添ってくれた柚葉。今も彼女はいつも通りの微笑みで支えてくれている。

 だから、何も恐れることはない。

 奏恵はまっすぐに鏡の向こう側を見やった。蜘蛛はボロボロになりながら立ち上がろうとしている。しかし、もはや満身創痍といった具合だ。

 トドメを刺すならば、今を置いて他にない!


「行きます!」


 雷光迸る刀を構え、《羅生紋》が跳び出す。

 それに気づいた蜘蛛も応戦しようと腕を構えるが、その時点で《羅生紋》はすでに懐に飛び込んでいたのだ。


「はあああああああああッ!」

『《絡新婦ジョロウグモ》よ、この一閃にて滅せよ……羅殺月影斬!』


 横なぎに一閃、剣筋が鋭く煌く。

 聖なる光を最大限に集中させた必殺の剣をその身に受けた蜘蛛――《絡新婦》は一刀にて両断される。


『滅却!』


 すると《絡新婦》は聞くも悍ましい断末魔を上げながらヘドロの如き体液を噴出させ、神力の奔流に耐え切れなくなった肉体が光の粒子となって爆ぜた。

 その光は夕闇の中でキラキラと瞬いていた。

 上空に巣を張り、人々を喰らってきた《絡新婦》の最期だ。


「やった……勝ったよ! 出来たじゃん、カナ!」

「あ……は、はい……」


 撃破の余韻を背に刀を鞘に収め、《羅生紋》とその中にいる二人は一息つく。すると《羅生紋》の姿も紅の光に包まれて消えていった。

 残された奏恵と柚葉はそのまま地上に降り立つ。すると足がもつれた奏恵はそのまま柚葉の身体に倒れ込んでしまった。


「わっと、大丈夫?」

「あ、あはは、安心したら、腰が抜けちゃって……」


 奏恵はそうはにかむと、そのまま柚葉に抱き着いてその胸元に顔を埋めた。

 彼女の心臓の鼓動が直に感じられる。それは紛れもなく、柚葉が生きている証だった。


「良かった……ゆずちゃんが生きてて、本当に良かったです……」


 青い顔して震えながら、それでも必死に戦って、勝利を掴んで。

 今までの緊張がすべて解けた反動だろう。奏恵はそのまま静かに涙を流し続けた。

 柚葉は何も言わずにそれを受け入れ、彼女を優しく抱き留めた。

 どれだけの時間をそう過ごしただろうか。気づけば西日が完全に沈み、夜の帳が降りていた。

 声をかけるタイミングを見計らって二人の様子をじっと見守っていた一人の男がいた。


「そろそろよろしいだろうか?」


 二人はハッと顔を上げた。照れくささからか、頬が紅潮している。

 声の主のは鋭い眼差しの銀髪の男だった。ボロボロの外套で全身を覆いつくしているその姿は、夜の風景と合わせて暗殺者のようだ。


「もしかして、あなたは……」


 奏恵はその人物の正体が直感でわかっていた。先ほどまで自分が操縦していた巨人。


「如何にも。吾が《羅生紋》である」


 《羅生紋》、その者だった。


「え、さっきの巨人がこんな美男子だったの!?」


 柚葉は驚きの声を上げるが《羅生紋》は彼女には目もくれずに、奏恵に対して問いかけた。


「先ほど戦った敵、吾が目覚めた理由、そして空鵞の使命……それらすべてを話したい。どこか落ち着いて話が出来る場所はないか?」


 奏恵は少し考えた後に答えた。


「……では、家に行きましょう。きっとお父さんも何か知っていると思いますし……あと、ゆずちゃんも着いてきてくれますか?」


 そう言いながら、奏恵は柚葉の服の裾を摘まんでいた。しばらくは一緒にいたいのだろう、彼女の求めている意図を察した柚葉は頷いた。

 そうして三人は、奏恵の家に向かってその場を後にしたのだった。


 家に着くまでのその間、奏恵と柚葉は何も言わずに手を取り合ったまま歩き続けていた。

 手を放してしまえば、《絡新婦》に追いかけられていた時のように、また離れ離れになってしまいそうだったから――。

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