壱の参 逃走、そして

 雨が止んでジメジメとした空気だ。

 少し雲がかった夕空の下を奏恵と柚葉は並んで歩いていた。


「あの、明日の土曜日、一緒にお出かけしませんか?」

「もちろんいいよ! ちなみにどこ行きたいん?」

「駅前のデパートに新しくできた喫茶店なのですけど……」

「なるほど、あそこか。最近部でも話題になってるんだよね~。うん、行こう!」


 二人が交わす会話はごくありふれたものだ。後日遊ぶ予定についてだったり、授業や宿題に関してだったり、あるいはくだらない噂話だったり。いつもの日常を二人は楽しく歩いている。

 そんな二人の歩む道の先に何かが落ちていた。

 手提げ鞄だ。金具が壊れて中身が辺りにぶちまけられている。

 落とし物だろうか。そう思って鞄に駆け寄った奏恵はそれにべったりと粘りついている物を見つけてしまう。

 それは血だった。まだ乾ききっていない真っ赤な血液が黒革の手提げ鞄を塗らしていた。


「ひっ……!」


 驚いた奏恵は伸ばした手を引っ込めた。


「カナ、下がって」


 異変に気付いた柚葉は奏恵の肩を抱いてその場から離れさせようとした。

 血のついた鞄が落ちている、何か事件があったに違いない。警察に通報を入れるべきだろうか。

 警戒しながら鞄の様子を窺っていると、びちゃりと音を立てて空中から赤い液体が鞄に降ってきた。

 二人は恐る恐る空を見上げた。

 雨上がりで雲が微かに残る夕焼け空は、巨大な蜘蛛のようなシルエットとそれが紡いだのであろう蜘蛛の巣によって覆われていた。

 その蜘蛛は顎を蠢かせて何かを咀嚼しているようだった。顎の隙間から零れ落ちる真っ赤な血液が雨のように地面を濡らしていく。


「な、に……あれ……」


 異様な光景を前に二人は呆気に取られていた。

 するとそんな二人に気付いたのか、蜘蛛の八つの眼が赤く煌いて二人を睨み付けたのだ。

 そして蜘蛛の腹が怪しく蠢き、人間の女性のような上半身を露わにする。それはもはやただの蜘蛛ではない、形容し難い怪物であった。


「あ……あ……」

「逃げよッ、カナ!」


 狼狽している奏恵の手を取り、柚葉はその場から走り出した。我に還った奏恵もなんとか着いていく。だが、蜘蛛がそれを黙って見逃すはずがなかった。

 なんと、蜘蛛は上空の巣から地上へと飛び降りたのだ。細い肢で着地した瞬間、ズシンッと地面が重く揺れる。

 二人がそれを気にする余裕はない。とにかく走って、走って、この怪物から逃げることだけを考えて。

 そうして走り続けていく中で、奏恵はふと後ろを振り向いた。

 振り向いてしまった。

 例の怪物が八つの肢を駆使して凄まじい速度で二人を追いかけていたのだ。

 ぞくり。怖気が奏恵の全身を巡る。

 こちらがどんなに速く走ったところでこの赤い視線からは逃れられないのだと自覚してしまう。

 恐怖心が奏恵の身体機能を低下させていく。走る足がだんだんと空回りして、柚葉との距離が離れていって、

 アスファルトに足を取られた奏恵が柚葉と繋いでいた手は無情にも離されてしまった。


「あっ……」


 それがトドメだった。

 支えを失った奏恵はその場で転んでしまった。

 そして、頭上を覆いつくさんばかりの影が奏恵を見下した。

 例の怪物はすでに目と鼻の先。もはや逃れることなど不可能な距離だ。

 その蜘蛛が、かぎ爪のように鋭利な右腕を目下の獲物に向けて振り下ろした。


「カナ!」


 雨傘を手に柚葉が飛び出す。そして奏恵を庇うように立ちはだかると、その雨傘を構えてかぎ爪に挑んだ。

 無謀でもいい。せめて奏恵がまた走れるようになるまで時間を稼がないと。

 だが、そんな思惑はあっさりと打ち砕かれてしまう。

 蜘蛛の腕に薙ぎ払われた雨傘が真っ二つに叩き折られてしまったのだ。


「折れッ……!?」


 驚いている間にも蜘蛛は動いていた。

 折り返して戻ってきた蜘蛛の右腕が柚葉の胴体を抉ったのだ。

 ゴシャッ。骨が砕け、肉が潰れる音が奏恵の耳に届いた。さらに、柚葉の血が飛沫を上げて目の前を飛んでいくのも見えていた。

 柚葉はそのまま吹き飛ばされ、道路を取り囲む塀に叩きつけられた。レンガ状の塀は凹み、その代償として柚葉の全身の骨肉を潰してあらゆる箇所から血を流させた。


「ゆず、ちゃん……?」


 力なく崩れ落ちた柚葉は何も言わない。彼女から流れる血がアスファルトを伝ってじわじわと広がっている。素人目で見ても危険だとわかる。

 奏恵は柚葉の許に駆け寄ろうと立ち上がった。足がもつれてうまく動けないが、それでも一歩一歩、よろよろと、まるで光に吸い寄せられる夏の虫のように、柚葉の許へとたどり着く。


「ゆずちゃん、ゆずちゃん!」


 自分の手に血が付くのも構わずに奏恵は柚葉の身体を揺さぶって呼びかけるが、反応はなかった。心臓はまだ動いているから生きてはいる。良かった。でもそれも時間の問題だろう。一刻も早く病院に連れていかなければ。だがそのためにはあの怪物から逃げ切らないといけない。


 ――逃げ切ったら? ……そもそも逃げ切れないでしょう!?


 ゆずちゃんでさえ逃げ切れない相手に自分が太刀打ちできるはずがない。

 いつもそうだ。私はゆずちゃんに守ってもらってばかりだ。

 幼稚園の時、野良犬に襲われそうになった時も。

 小学生の時、遠足で迷子になった時も。

 中学生の時、「根暗だ」と言われて虐められていた時も。

 そして、今も。

 助けてくれていたのはいつも、ゆずちゃんの方だ。

 私は守られてばかり。


 ――私には、ゆずちゃんを守ることができない。


 蜘蛛の腕が迫る。このまま捕まって、喰われてしまうしかないのか。

 嫌だ。まだゆずちゃんと一緒に喫茶店に行っていない。試合の応援も出来ていない。それに、他にもやりたいことがたくさんあるんだ。

 最後の希望を諦めたくない。怪物を睨み付けながら、奏恵は柚葉の身体を力強く抱きしめた。

 だが、そんな希望は脆く儚いものであると主張するかのように、蜘蛛は腕を伸ばす。すぐにでも二人を捕まえることができる距離まで迫っていく。

 奏恵は目を閉じた。


 まだ諦めたくない。


 だから誰かお願い。


 私たちを助けて!


 奏恵の心の叫びに呼応して、首元の勾玉が紅の輝きを放った。その光は怪物を怯ませ、動きを止めさせる。

 さらに空間を切り裂かんばかりの稲光が二人の許に墜落した。激しい閃光が辺りを包み、二人の姿を消し去った。

 そして光の中でひとつのシルエットが出現した。それは蜘蛛の全長に匹敵するほどの巨人。

 光が晴れて露わになったその姿はまさしく、鬼の骸の仮面をつけた鎧武者であった。


「【式機シキ】……羅殺らせつの【式機】ィィィ……!」


 蜘蛛は恐怖と憎悪が入り混じった声で叫んだ。

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