壱の弐 巨影

 雨上がりの夕空の下を人々は傘をささずに歩き往く。スーパーで買った食材をエコバッグに詰めた奥さんはこれから帰宅して夕飯の準備だ。一方、学校帰りの中学生二人がわいわいとじゃれ合いながら駆け抜けていく。横を通りすがった二人を気にも留めず足早に進む眼鏡を掛けたサラリーマンの男は営業回りを終えてこれから部署に戻るのだろう。

 そんなごくありふれた道を影が覆い、男の右肩を一滴の水滴が濡らした。また雨が降り始めたかと懸念して上空を見上げるが、それ以上の降水はなかった。しかし、彼は立ち止ったまま動かない。視線の先に映る光景に呆気に取られていた。

 上空で雨粒が静止していたのだ。男の肩を濡らした水滴もそこから落ちてきたもの。そして目を凝らせば、雨粒を空中に繋ぎ止めているのは円網に紡がれた糸――蜘蛛の巣――であることが判明する。

 雨露に濡れた蜘蛛の巣は煌いていて見惚れるほどに美しい。だが同時に、建物群の隙間に縫われたそれは普段目にする一般的な蜘蛛の巣とはかけ離れて巨大であり、あまりにも不気味だった。それに――


「うわ、でっけえ蜘蛛だ!」


 同じく蜘蛛の巣を見上げた中学生の一人が声を上げた。

 彼が指差す先には、娘の機織りのように繊細に紡がれた糸の上をゆっくりと移動する巨大な影があった。異様な程に膨れ上がった腹部と、放射線状に伸びた八つの肢。さらには頭部から覗く八つの深紅の眼光。そのシルエットは紛れもなく世間一般に知られた節足動物の《蜘蛛》だ。

 少年はそれを「でっけえ蜘蛛」と形容した。だが、それが正しい表現とは言い難い。世界最大とされる蜘蛛、ルブロンオオツチグモでさえ全長は十センチメートル前後、すべての肢を広げても弐〇センチメートル――広げた両手の平と同程度――だ。

 しかし、今彼らの頭上にいるそれは夕空を呑み込まんばかりに全身を広げ、地上に影を落としている。九メートル、肢も含めればその倍には及ぶだろう。もはや「でっけえ」どころではない、特撮映画の巨大モンスターに匹敵するレベルである。

 あまりにも巨大で歪な存在を前にしてもなお、人々はじっとその動向を窺っていた。あまりのスケールに現実味を感じられないのだ。それゆえに呆気に取られるしかない。悲鳴を上げる、電話で助けを求める、ネットに拡散する……そういった手段さえ考え及ばない。


 ――嗚呼、獲物が自らその肉を晒しておるわ。


 人々を捉えた八つの眼は真っ赤に嗤った。

 鋭利な爪先が楽器の弦を弾くように糸を揺らす。その度にふるい落とされた雫が地面を濡らす。

 そして蜘蛛は、

 西日に照らされて黒く陰っているものの、そのシルエットはまさしく見眼麗しい女性の肉体だ。すらりとした曲線を描く腰から下は蜘蛛の腹の中へと繋がっており、ありきたりな言葉で表現してしまえばそれはまさしく、人間の女性の上半身に蜘蛛の肉体を繋ぎ合わせた異形の怪物であろう。

 その変貌を目の当たりにしてようやく、彼らは理解した。

 目の前の光景が異常である、と。

 しかしそれはあまりにも遅かった。

 蜘蛛の腹で花びらのようにばっくりと開いた口から放たれた無数の糸が、あっという間に胴体に絡みついて身体を空中に持ち上げた。一般的な蜘蛛のそれをはるかに凌ぐ強靭な糸は、人の力で引き千切ることができない。

 糸が手繰り寄せられる。人々の視線の先に映るのは、真っ暗な闇の中で煌く無数の鋏状の牙。

 このままではその中へと引きずり込まれてしまう。それからどうなるのか、想像は容易にできる。

 逃げなければいけない。逃げなければ死んでしまう。でも、逃げられない。

 近づく。己の意に反して闇に近づいていく。そこから漂ってくる腐臭が鼻を劈く。

 そして気づけば、彼らは闇の中に閉じ込められていた。

 生暖かい温度が全身を撫でる。

 闇が蠢き、鋏が肉体を串刺しにした。

 鋏と壁に挟まれた骨肉が砕かれた。

 粉々になった肉を酸の液体が溶かした。

 そこはすでに蜘蛛の口の中であり、腹の中。

 そう、彼らは糸に捕まった時点で死んでいた。

 為す術もなく蜘蛛に喰われて死んだのだ。

 弱き人の子を喰らったその巨体は西日を背に受けて黒く煌く。


 ――まだ喰い足りない。

 

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