壱―邂逅

壱の壱 いつもの日常

「よく聞いて奏恵かなえちゃん。この世には人ならざる悪意があるの。それは人の善き心を踏みにじり、貪り、最後には滅ぼしてしまう。それはとても恐ろしい事。でも、誰かを大切に思う優しい心を持ち続ければ、その悪意に負けることはない。だから忘れないで、あなたの優しさが愛する人たちを護るということを」


 それが空鵞くが奏恵の聞いた祖母の最期の言葉だった。その数時間後に祖母はこの世を去ったという。

 平成三十五年五月。金曜日の放課後は教室の窓の外で雨が降っていた。

 奏恵は窓際一番後ろの席で、祖母から言葉と一緒に受け取った紅色に輝く勾玉のネックレスを見て黄昏ていた。勾玉は何の石で作られているかはわからないが、ほんのりと暖かい。

 祖母が亡くなってから一ヶ月が経つ。それ以来、奏恵は時折勾玉を眺めては彼女の言葉をぼんやりと思い出していた。

 人ならざる悪意だとか、優しい心があれば負けないだとか、正直なところ言葉の意味はよくわかっていない。若い頃は巫女をやっていたらしい祖母は昔から妖怪や怪談にまつわる物語を聞かせてくれていたこともあり、言い方が回りくどい時があるのだ。


 ――でも、あの時はいつもとは違う気がした。


 その正体がわからずにモヤモヤとした気分をずっと抱えていて、気が付くとその時のことを思い返すのだ。

 はぁ……と、奏恵は深くため息をついた。


「お、空鵞さんまーたため息ついてる」


 クラスメイトの陽気な声が聞こえてきて、奏恵は慌てて我に還った。目の前のイスに腰掛けた声の主は奏恵の顔を見ると頬を緩ませてにへらと笑った。

 大槻おおつきあざみ。栗色のショートボブが特徴的な女子だ。老若男女問わず誰にでも気楽に声を掛け、気になる噂をかき集めては広めるというミーハーな気質を新聞部で遺憾無く発揮している。その新聞の内容はざっくばらんだが、中には内容とは無関係なあざみ本人の主観が入ることが多々ある。良くも悪くも自分の欲望に忠実な活動をしている彼女を知らない人間はこの学校には少ないだろう。


「ため息なんてついてたらせっかくの美人が台無しになっちゃうゾ」


 あざみは茶化すように笑った。

 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉があるが、奏恵にはそれがピタリと当てはまる。

 実際、奏恵は美人だ。黒く長い艶やかな髪を後ろに流している彼女はその物静かで和やかな雰囲気も相俟って「古風な佇まい」と方々からの評判だ。着物を着ようものなら立派な大和撫子の誕生である。今の彼女は学校指定のセーラー服であるが、それもまた薄暗い教室の中で風情がある。


「最近ため息多いけど、悩みでもあるん? あ、もしかして恋煩い?」

「そ、そういうのではないですけど……」


 さて、どう答えるべきか。

 奏恵のため息の原因は祖母の遺した言葉に他ならない。

 そこまで気にする必要はないのだろう。だが、どうしても頭から離れないのだ。

 しかし、祖母が亡くなったことはあざみには関係ないし、変に場の空気を重くしてしまうことも避けたい。


「ほう、恋ではないと……いやしかし、我らが二年A組が誇る大和撫子の悩み、とてもとっても気になりますな。その悩み、是非とも伺いたい!」

「えぇ……」

「さあ、遠慮なく仰ってください! 大丈夫、当方これでも口は堅いですから、困るようなことは決して言いふらしたりしません!」


 奏恵の心配など露も知らずにあざみのうざ絡みが始まった。新聞部としての活動をする中で熱が入ると発現する、通称「記者モード」。こうなってしまうと彼女は自分の目的を達成させるまで止まらなくなる。それから逃れるのは決して容易ではないし、奏恵の性格上無視することもできなかった。それに、適当に誤魔化すとしても言葉が思いつかない。

 そんな風に奏恵が頭を悩ませていると、教室の引き戸がガラガラと音を立てた。


「おまたせー……って、こらあざみ。カナに絡まないの」


 教室に入ってきた女子生徒の名前は新稲寺柚葉にいなじゆずは。赤みが強い茶色のポニーテールと勝気な鋭い目が特徴だ。バスケットボール部の活動から戻ってきた彼女は困っている奏恵の様子を見兼ねてあざみを引き離した。


「おお、これはこれは柚葉さん。いやぁ、空鵞さんが悩んでいるようだからその相談に乗ってあげようかと」

「相談に乗るにしてもやり方ってのがあるでしょうが。カナだって困ってるでしょう?」

「あ、あはは……」


 奏恵は苦笑いしかできなかった。困っていたことは事実だけれども、それを本人の前で直接言えるほど浅はかではない。


「むぅ、確かにそうだったかも。ごめんね空鵞さん」

「あ、いえ、気にしないでください」

「しかし、柚葉さんも空鵞さんに関しては相変わらずのガードの固さ。彼氏か、彼氏なのか?」

「はいはい、褒めてくれてありがとう、でもそういう関係ではないから。それより時間は大丈夫なの? いつも通りならそろそろ部室に集まるんでしょ?」

「おっと、確かにそろそろ行かねば。それでは二人とも、また今度正式に取材させてくださいね!」


 そう言ってあざみは二人の答えを待たずに教室を飛び出した。嵐が去った後のように教室の中には静けさが残る。


「……大丈夫だった、カナ? なんか変なこと聞かれなかった?」

「大丈夫ですよ、ゆずちゃん。それにあざみさんも何も悪くありませんし」

「カナは優しいなぁ。っと、少し休ませて」


 奏恵の隣の座席にドカッと腰掛けた柚葉は、まだ乾ききっていない汗を首に巻いたタオルで拭いながらペットボトルのスポーツドリンクを飲み始めた。着替えは済ませているが、普段から帰宅を共にする奏恵を待たせまいと急いできたのだ。


「部活、お疲れ様です。大会は来月でしたよね」

「うん、そう。良かったら試合見に来てよ、カナが応援してくれれば百人力だから」

「はい! ゆずちゃんや皆さんのことを精一杯応援します!」


 奏恵は満面の笑みで答えた。

 優しくお淑やかな奏恵と、活発で男勝りな柚葉では性格こそ違うものの、二人はそんな違いさえ些細なほどの親友である。元々は家の繋がりで知り合ったが、以降は幼稚園から高校生である今に至るまでずっと苦楽を共にしてきた仲だ。


「それで、何か悩んでたの?」

「あ、はい……ゆずちゃんには前に話したと思うけど、これの事で」


 奏恵は服の襟元に手を入れて中から真紅の勾玉を取り出した。相変わらず人肌並みに暖かくて、不気味である。


「あー、おばあちゃんのことか」


 その勾玉を近くで見ようと柚葉が身を乗り出した。すると吐息が感じられるほどに近づいた彼女の肌からライムの香りが漂ってくる。制汗剤だ。奏恵は柚葉の気配と一緒に感じられるその香りが好きだった。


「なんだっけ、『人ならざる悪意に打ち勝つために優しさを忘れないで』だっけ?」

「そんな感じです……ただ、色々と気になってしまって」

「うーん、前にも言ったけど考えすぎじゃない? おばあちゃんって怪談好きだったし、『人ならざる悪意』というのも、教訓めいた例えみたいなものだと思う。だから細かいところは今は気にする必要ない。大事なのは『どんな時でも優しさを忘れないで』ってことなんじゃないかな。勾玉もその御守りってことでさ」

「そ、そんなあっさりでいいんですか……」

「あたしだったらそう考えて今は置いておく。だって、この手の哲学を考えるのは苦手だもん」

「ゆずちゃんらしいですね。でも、答えが出ないなら確かにそれがいいかもしれません」


 それを聞いた柚葉は満足そうに頷いた。そして自分が座っていた椅子に左足を立てて右腕でガッツポーズをし、


「それにもちろん、その悪意とやらがカナを苦しめようとするなら、それから守るのがあたしの役目だからね!」


 自信に満ち溢れたドヤ顔でそう言ってのけた。その謎のポーズを目の当たりにした奏恵は彼女を心強く思いながらも、今度は他のところが気になっていた。


「ゆずちゃんゆずちゃん、そのイス、茂木さんのですよ」


 そう、今柚葉が踏み台にしているイスは茂木という男子生徒のものだったのだ。


「あ……すまん、茂木」


 軽く謝り、柚葉は茂木のイスから足を下ろして、今度は奏恵の机の上に飛び移るように腰掛けた。その際に空中でスカートが翻り、中の黒いスパッツが奏恵の目に飛び込んでくる。それに戸惑いながらも咳ばらいをひとつして、奏恵は改めて口を開いた。


「やっぱりゆずちゃんは強いですね。それなのに私はゆずちゃんに何もしてあげられなくて……」

「大会の応援に来てくれるじゃん。それにあたしは、カナがいつもそばにいてくれるから充分助かってるよ」


 雨が止み、雲の切れ間から射し込んでくる西日が柚葉の屈託のない笑顔を照らしていた。

 ポニーテールを留めている水色のヘアゴムや、キラキラと煌く琥珀色の瞳や、首筋にわずかに残る汗が輝いて、大層美しい。

 まるで映画のワンシーンのようだった。

 柚葉の言葉も嬉しかったが、それ以上に奏恵は彼女の姿に見惚れて、言葉を失っていた。

 しかし柚葉はそれに気付くこともなく、西日の眩しさを感じて窓の外に視線を向けた。


「おっと、雨も止んだみたいだしそろそろ帰ろうか」

「あ、は、はい、そうですね!」


 我に還った奏恵は慌てて手提げの学生鞄を手にして立ち上がった。

 柚葉には奏恵が慌てている理由などわからなかった。首を傾げて机から飛び降り、学生鞄を持って奏恵の後を追う。

 そして下駄箱にある傘を持つと、二人そろって学校を後にした。

 雨はすっかり止んで、空は茜色に染まっていた。

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