空鵞の巫女と羅殺の式機

藤咲悠多

序―修羅

 ある日の暮れ方の事である。一人の男が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 星の如く麗しく輝く銀の髪と、月の如く煌き他者を睨む鋭い瞳を持つ端正な顔立ちの男。普段ならばその容姿は老若男女問わずにあらゆる人間を魅了するだろう。だが今は雨に打たれ、そして誰のともわからぬ血に塗れ、濡れ鼠の如くみすぼらしい出で立ちをしていた。

 名を「大狼オオカミ」と呼ぶ。彼は遠いところからその身一つで逃げてきた。かつての同胞である【修羅シュラ】と呼ばれる悪鬼の群勢に反逆し、その最中で斬り落とされた左腕は捨ててきた。金目の物は腰に収めた愛刀くらいだろうが、しかしそれを手放すつもりは毛頭もない。

 ぼろぼろの身体に鞭打ちながら、彼は暗闇に包まれた羅生門の奥に足を踏み入れた。

 羅生門は、家や職、富を失い、生きる希望を持たぬ人々が集まるこの世の果て。一度足を踏み入れれば死霊によってあの世へと誘われると云われ、死を恐れる者が訪れることは無い。しかし、この男がここに来たのは決して命を捨てるためではない。己自身でもわかり得ぬが、ここに来るべきだ、と内に秘めた何かが語りかけていたのだ。

 ゆらりゆらりと覚束ない足取りで歩くその視線の先で、何もない空間にぽうっと灯が燈る。大狼は立ち止まり、黒く硬化した鬼の如き右腕を構えた。

 灯によってぼんやりと映し出された、白衣と緋袴で身を清くしたうら若き娘。その出で立ちはまさしく巫女と呼ばれる者であった。

 御神の力をその身に宿した巫女を始めとする神職は【修羅】を滅する使命を担う存在である。即ち【修羅】の宿敵。しかも目の前の娘は総本山である「空鵞くが」の巫女だ。

 構えたままの男は吐き捨てるように低く唸る。


「こんなところで巫女に出くわすとは、吾もつくづく運が無い」


 戦う余力は残っていない。男も相当の実力の持ち主だが、現在の状態で戦えば間違いなく敗北を喫することになるだろう。

 しかし、巫女が男に刃を向けることはなかった。


「お帰りなさい、大神(オオガミ)」


 むしろ、落ち着いた表情の巫女は彼の存在を歓迎していたのだ。

 彼女が近づくと、白粉(おしろい)をそっと刷いた幼い顔がはっきりと見えた。背丈は男の腹までしかない。男の背が高すぎるというのもあるが、それでも彼女の背は低すぎる。まるで幼子のようだ。


「まさか、吾がここに来るのを知っていたというのか?」


 訝しげに訊ねる男に、巫女はほのかに紅を塗った唇をにっと緩ませた。


「貴方ならきっと【修羅】の呪縛から逃れられると……そう信じていただけです。思い出したのでしょう? 貴方の真の姿を」


 それだけ言うと少女は男に背を向ける。男の反応など確認せずともわかる。なぜなら彼女はすべてを知っていたからだ。彼がどうしてここへ来たのか、今しがたの言葉に対してどのような反応を示すのか、そしてこれからどのような行動をするのか。

 大狼は黙って巫女の小さな背中に着いていった。木目の壁に立てかけられた燭台の蝋燭が彼らを導くように火を灯し、薄暗く陰鬱な空間はゆっくりとその素顔を晒していく。

 そうして案内された羅生門の最奥にて、巫女は立ち止った。

 彼女が仰ぎ見るのは、羅生門の天井にさえ届きそうなほどの大きさを誇る銅像だった。

 武者の如き鎧と鬼の如き面を纏った人型のそれは正座をして佇んでいる。立ち上がれば羅生門を優に超える巨大さとなろう。


「これは、吾か」


 それは大狼だった。正確には、【修羅】に堕ちる前の大狼が依り代としていた肉体だ。


「年を三つほど数えましたか。【式機シキ】として我々と供に【修羅】と戦っていた貴方は、敵の術中に嵌ってしまった。しかし、貴方は自分の意識を保てる間に【式機】としての肉体と、大神としての魂を別ちました」

「……そうだ。そして魂の吾――この身は、大狼として【修羅】に降った」


 すべてを思い出した大狼は己の犯した罪に業を煮やした。


 ――なんたる屈辱! なんたる無様! 羅殺(らせつ)の【式機】ともあろう者が、こうも容易く彼奴らにしてやられるとは!


 大狼は自分の右腕を乱暴に壁に叩きつけた。黒く硬化した右腕は【修羅】の邪気が根元にまで刻まれた【鬼ノ腕】と呼ばれる代物である。その力が解放された時、触れた者を地獄の劫火で灼き尽くすとされている。本来ならば片割れがあったのだが、それは【修羅】から脱走する際に斬り落とされた。

 この【鬼ノ腕】こそ、彼が【修羅】に堕ちた身であることの証明であった。

 人類に仇なす【修羅】を斬るための劔だった彼は、果たして【修羅】となったこの三年でどれほどの罪なき人々を殺めたのだろうか。


「空鵞の巫女よ、答えてくれ。吾は何を為せば良い。如何にしてこの業を祓えば良いのだ」


 大狼は巫女の無垢な瞳を真っ直ぐに見据えて問うた。その鋭い眼差しには己の宿命の悉くに向き合おうとする強い意志が宿っていた。それまでの世捨て人の如き風情は最早どこにもない。

 その想いを受け取った巫女はそっと目を閉じて頷いた。


「貴方がそれを臨むのであれば、今一度、この【式機】の肉体に還りなさい。そして【修羅】を絶滅させるその時まで、空鵞の劔となって供に戦い続けるのです」


 そう、【修羅】となり肉を持った魂が再び【式機】の許へと還る。大狼がここへ来たのはその為だったのだ。

 すべてを理解した大狼は頷き、巫女の御前にて頭を垂れた。


「その命、確かに賜った。すべては空鵞の血の為に、吾はいま一度の誓約を以て、再び【式機】の肉体に還り宿らん」


 それは契約だった。【修羅】を絶滅するか、或いは空鵞の血が絶えるその瞬間まで空鵞に己がすべてを捧げる血盟。


 その契約を結んだ巫女の神力かみちからが首元に提げた真紅の勾玉を輝かせる。その紅き光は大狼を包み込み、その体を浄化し、解かし、そして勾玉の中に吸収する。さらに勾玉は巫女の身体を離れて傍らにそびえる【式機】の肉体に宿った。

 生きる力を失った人々が集いしこの羅生門。絶望の地にて【式機】の瞳が紅に煌き、その封印から解き放たれた。

 そうして空鵞の巫女は【式機】と供に【修羅】を絶滅させるための戦いに身を投じるのだった。


 それから長きに渡る年月が経ち――。


 時は一九四五年。

 ごうごうと燃え盛る灼熱の炎が夕空を焼いていた。敵国からの襲撃ではない。腐臭と共に低い唸り声を上げ、村ごと大地を踏み潰し、爛れた肉から骸を曝すその巨大な体躯は弐〇メートルを優に超える。

 そのひとつだけでない。ニ、五、十、百。姿かたちも大きさも様々。この大日本帝国に古から伝わる妖魔の姿をした数々の怪物が蔓延る様はまさに百鬼夜行だ。

 後に「第二次世界大戦」と呼ばれることとなる戦争が終結して間もなき昭和の世。敗戦の屈辱を拭い切れないままの大日本帝国に追い打ちをかけるように黄泉返ったのは、古来より畏怖の象徴としてこの国に伝わる妖魔の姿をした悪鬼――【修羅】であった。

 逃げ惑う村人たちを嘲笑い、その圧倒的な力を以て蹂躙、貪り、凌辱し、虐殺する。救いを求める人々の悲鳴は、噎せ返るような血の臭いと、【修羅】の下劣な笑い声に掻き消されていく。

 大戦に敗れ、敵国の支配に脅かされている傷も癒えぬままの人々には、その運命を受け入れることしかできなかった。

 ああ、理不尽な話だ。その圧倒的な力の前にひれ伏すことしかできない。力なき者は屠られるしかないのだから。

 我々を救ってくれる者は敗戦と同時にその存在を否定された。だから諦めるしかない。滅びるしかない。それが力なき者の宿命なのならば――。

 村の衆の悲鳴が飛び交う中、その光景を少し離れた丘の上からじっと眺めている一人の少女がいた。バチバチとはじけ飛んでくる火の粉に臆することなく、少女は人々を踏みにじる修羅共を睨みつけていた。

 齢にして十五ほど。白衣と緋袴――巫女の装束に身を包み丈長で黒髪を結った清純な少女だ。しかし、この村に神の社はない。そのため、巫女がその場にいるのはあまりにも不自然であった。つまりこの娘は村の外の人間なのだろう。

 彼女はか細い首筋で赤く煌く勾玉の首飾りをそっと握りしめて、祈るように瞼を閉じた。

 小さな唇がぽつぽつと言の葉を紡ぐ。それは大地に宿る御神の力を勾玉の輝きに代える呪詛。真っ赤に燃える勾玉はその勢いを増し、そして瞬く間に巫女の姿を呑み込んだ。

 そして次の瞬間、大地を揺るがし、怒号が轟いた。

 空間を切り裂かんばかりの稲光を伴い、何もない空間からひとつの巨人が出現したのだ。

 ぼろぼろの外套で全身を包み込んだ黒鋼の肉体はおよそ弐〇メートルと、大型の修羅と大差がない。否、鬼の骸の如き黄金の仮面を見れば、それが悪鬼共と同等の存在であると否が応にも直感せざるを得ないだろう。

 その仮面の下から覗く真紅の眼光が、足元にいる村人に向けて巨大な棍棒を振り下ろそうとする悪鬼の姿を捉えた。

 巨人の纏う外套が紅の中で翻った。瞬間、目の前の悪鬼の両腕が棍棒を握りしめたまま吹き飛ぶ。

 肘から下。骨肉を露わにし、黒く澱んだ体液を溢す。本来あるべき感覚が一瞬のうちに消え去った。

 だが、悪鬼は戸惑うことさえできない。煌いた一太刀の刃がその首を切り落とし、壊れた蛇口の如く血をまき散らさせる。

 制御を失った胴体は力なく沈む。大地を揺るがす音だけが余韻となって夕闇の中に吸い込まれていった。


 ――彼奴だ! 羅殺らせつの【式機】だ!

 ――我等に弓引く裏切り者が、まだ立ちはだかるのか!

 ――殺せ! 今すぐに彼奴を殺せ!


 倒れ逝く同胞を呆気に取られて見ているしかできなかった残りの悪鬼共はいきり立ち、その仇を討とうと巨人に襲い掛かる。

 しかし、巨人がそれに臆することなどあり得なかった。足元の村人たちを逃がすと、名工が鍛えた愛刀を中段で構え、ただ静かに、動かない。

 外套だけがはためく静寂の空間に向かって、棍棒、剣、槍、拳、爪、炎……ありとあらゆる凶器が降り注ぐ。

 その瞬間、巨人の姿は消え、悪鬼の炎が斬り裂かれた。

 刹那――


 斬。


 斬。


 斬。


 悪鬼共の合間を幾千にも及ぶ弧の閃光が駆け巡る。

 腕が跳んだ。

 頭が跳んだ。

 胴体が跳んだ。

 臓物が跳んだ。

 防御することも逃げることも……そもそもその考えに至ることさえ儘ならず、ヘドロのような体液をまき散らしながらその生命は次々に抉り取られていく。

 しばらくして巨人が動きを止めた。静かに周囲を見渡す血塗れた深紅の眼にはもう、敵の姿は一つたりとも映っていない。巨人の手によって悪鬼は一つ残らず殺められたのだ。

 それは一方的な虐殺だった。村人たちの脅威となる絶対的な力を持つ【修羅】――それさえをも凌駕する巨人が披露した、文字通りの血祭り。

 刀身にこびりついた黒濁の血液を払う羅刹の如きその様は、村を屠った化物と何が違うというのだろうか。

 しかし其は、悪鬼の対極に位置する存在。遥か平安の世に陰陽道を志すモノたちが【修羅】に対抗するために造り上げた、【式機】と呼ばれる巨大人型戦闘兵器の一であった。

 【式機】は御神の力を解放した巫女が召喚し、一体化することで初めて始動する。それは彼の巨人も例外ではない。紅き瞳に映る光景を巨人の中で鏡越しに見ている者がそれだ。

 霊力の駆け巡る胎内にて堂々と直立するのは、紅色の勾玉を胸元で輝かせ、純白の巫女の装束に身を包んだ年端も行かぬ少女――丘の上にいた巫女だった。

 少女の小さな唇が動き、言葉を紡ぐ。


「ありがとう、力を貸してくれて」


 静かで優しい年相応の声。世が世なら、争いも知らずに友人と戯れて笑う姿が似合うだろう。

 刀を腰の鞘に納めた巨人は、頷くことなく重々しく答える。


『修羅ある限り、吾は空鵞と共に戦い続ける。時が移ろい往くとも、必ず』


 外套を翻した巨人は夜の帳が下りた空の中へと消えていった。

 鬼の骸の如き黄金の仮面を見れば、それが悪鬼共と同等の存在であると否が応にも直感せざるを得ない。

 その名は《羅生紋ラショウモン》――【修羅】として生きた紋(あや)を背負いし者。

 彼の振るう剣は、悪を断ち、力なき人々を守る正義の刃である!


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