[4-5] 大丈夫

 ラジエットは、スタッフ専用通路から店舗に出るドアをそっと開けた。


 試合で怪我をしたときとは比べ物にならない、濃い血の臭い。

 むせそうになるのをぐっと堪え、注意深く外の様子を窺う。


 ミダス体は……見当たらない。


 ラジエットは、自失茫然としている男の子を引きずり、カウンターの下に潜り込んだ。こんな場所をわざわざミダス体が探すとは思えない。


「大丈夫。じっとしてたら、きっと助けが来るから」


 かすれ声に、返事はない。

 ラジエットは震える男の子の頭を抱えてやりながら、脳に焼きついた三年前の記憶を蘇らせていた。


 ――あのときは、私がパパに抱き締められてたんだ。


 その腕が徐々に高熱を帯びてきたのに気づいて見上げると、パパは笑って、一人で外へと出ていったのだ。隠れているように強く言いつけて。


 今にして思えば、あれは変異の前兆だったのだ。

 やがて、パパの絶叫が木霊した。


 じっとしていられなくなったラジエットは、言いつけに背いて、外に這い出た。

 そして、もつれ合うように倒れているパパとママを見つけた。


 二人を見下ろすミダス体が、そこにいた。ママと、変異する前のパパをまとめて攻撃したのだろう。鋭い鉤爪かぎづめを持つ手は鮮血に染まっていた。

 ギョロ目がこちらに向く。


『ひっ……』


 自分も同じように殺される。

 そう悟ったラジエットは、泣き喚いてしまった。


 だけど、あの人はその声を聞いて駆けつけてくれたのだ。


『ラジエ!』


 ……今、姉はこの場にいない。

 自分がしっかりして、この男の子とともに生き延びてみせる。

 きっと大丈夫。このままでいれば、見つかることは――


 、と。


 足音が聞こえた。

 まるでゴムマットを地面に叩きつけるような音だった。


 一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。

 それが店舗ブースの前で止まった。


 気づかれたのだろうか。


「……――」


 いや、そんなことはなかった。また、べたんべたんと、どこかへ去ってくれた。


 ラジエットはほっと安堵の吐息をついた。

 ほら、大丈夫だ。


 そのときだった。

 カウンターの中で、音楽が大ボリュームで流れ出した。


 ラジエットは心臓が破裂するかと思うほど驚いて、身体をびくんと跳ねさせる。一瞬、頭が真っ白になりかけたが、音の出所が男の子の腕だと分かると、慌てて引き寄せる。


 子供用のリストデバイスだ。

 盤面のディスプレイには『ママ』と表示されている。はぐれた母親が通話をかけてきたのだろう。


 あまりにも間が悪すぎる。

 ラジエットは通話を拒絶し、リストデバイスの電源を落とした。

 それから自分の端末も同様に落とす。遅かれ早かれ、ティオが男の子の母親と同じ行動を取っていたに違いなかった。


 静寂が戻ってくると、ばくばくと鼓動する心臓がどうにも気になってしまう。

 今の音、あのミダス体に聞かれただろうか。


 いや、大丈夫だ。

 ほんの一瞬。聞こえていない。聞こえるわけがない。

 だから大丈夫だ。そう、


 ラジエットは冷静ではなかった。この状況に陥ってすぐ、精神は悲鳴を上げていた。ずっと天に祈っていた。大丈夫ですよね、神様、と。信仰心なんて持ってもいないのに。


 そんな根拠も保証もない祈りは、ミダス体に踏み潰された。

 と戻ってきた足音が、店舗の前で止まった。


「ゴアァアァッ!」


 咆哮を上げれば、獲物が驚いて出てくるとでも思ったのだろうか。


 ラジエットはこの威嚇を必死に堪えた。

 頬が熱い。涙が溢れていた。

 もうここからは逃げ出せない。走っても追いつかれる。


 物を粉砕する激しい音が轟いた。ミダス体が身体を隠せそうな場所を薙ぎ払い始めたのだ。

 店舗そのものが揺れているようだった。


 男の子は歯をかたかたと鳴らしている。異臭。失禁だ。


 破壊音が近づいてくる。もうすぐそこまで。

 それが、突然、ぱったりと静かになって。


 自分たちを覆い隠していた暗がりが消えた。


 ラジエットは恐る恐る振り返る。琥珀色の瞳に、照明の光が突き刺さった。

 くらむ視界に、異形が黒い影となって浮かんでいた。


「あ、あ……」


 ミダス体だった。


 頭は平べったく潰れ、目玉は眼窩がんかからこぼれ落ちそうなほど膨らんでいる。


 手と足は大きく発達し、指と指の間が大きく開いている。そこに、てらてらとぬめる薄い皮膜が張られていた。


 手は赤黒い液体で濡れている。肉体の持ち主の血か、それとも――


 衣服の下で、筋肉と血管が不規則にうごめく。そのたびに皮膚に走る亀裂から、湯気の立つ黄色の体液が噴き出た。


 目の前に立つ化け物の姿に、


「うわあぁ!」


 叫んだのは少年だった。正気を失い、ラジエットの腕の中で暴れる。


 ラジエットは凍りついて身動きも取れなかった。


 死ぬのだ。どう殺されるのだろうか。痛いのだろうか。死んだ後はどうなるのか。何もないのか。無。永遠に。

 自分の身体はどうなるのだろう。跡形もなく変わり果てるのか。誰かを道連れにしようと徘徊しているのか。


 中途半端に変異していたら、もしも姉がそんな自分を見たら、


 ――ああ、だったんだ。


 ミダス体は口を横に広げ、『ぐげ』と音を洩らした。笑ったらしい。

 大きく振り上げられた手が――


 ラジエットの身体を叩き潰す。


 叩き潰される、と


 衝撃は訪れなかった。代わりにラジエットの身体を貫いたのは、またしても音だった。

 空から『物体』が落ちてきた。天幕を突き破り、吹き抜けを通って、通路の中央に衝突したのである。


 遅れて、割れた天幕のガラスが落下し、床に当たってきらきらと輝く。

 破片が反射する光の中で、その物体は床にめり込んで立っていた。


 黒い金属の塊に見えた。

 まるで公園の墓碑だ。

 両親や犠牲者たちの灰の上にそびえ立つオベリスクだ。

 しかし、黒い物体は、ラジエットたちの死を象徴する物ではなかった。


 続けざまに、青白い閃光が空から飛び込んでくる。

 何度も明滅しながら不自然に減速して降り立ったのは、


 頭から尻尾の生えた漆黒の人型生物。

 その腕に抱きかかえられた、一人の少女。


 少女は白いクロークを纏い、ブルネットの長髪をサイドテールに結っている。透明なメガネの奥から、琥珀色の瞳がこちらを睨んでいる。


 見間違えようがない。

 自分と同じ特徴を持った、それでいてずっと大人びた少女。


「お姉ちゃ――」


 ラジエットが歓喜の声を上げるよりも先に、ミダス体がと身体を震わせた。

 驚いて見上げると、平べったい頭から、氷のとげがいくつも突き出ていた。


 姉、ルセリア・イクタスのシンギュラリティ。

氷刃壊花アイシクル・ブロッサム〉だ。


 普通の『生物』とは異なり、ミダス体は頭部を破壊されても活動を止めない。脳というメインの演算装置が失われたことで神経信号の伝達は硬直するが、身体構造を記憶しているナノマシンはすぐに代替器官を生み出そうとする。

 裂けた頭部から、新たな顔が脱皮するように生えてきた。


 ミダス細胞の活動を間近で目撃してしまったラジエットは、生理的嫌悪感から少しでも距離を取ろうと床を這う。


 そのそばに、誰かが音もなく立った。


「もうだ」


 さっきまで姉の隣にいたはずの人型生物は、聞き覚えのある青年の声で喋ると、ミダス体の腹を無造作に蹴り飛ばした。


 ミダス体が自分で破壊したテーブルや服を着せたマネキンの上を滑る。


「ルーシー!」


 人型生物の合図に、


「〈斬り刻む〉!」


 姉が応えた。


 生まれたての四足動物のように起き上がろうとするミダス体の内側から、緑色に濁った氷の刃が無数に飛び出た。

 まるで開いた花だ。それでもミダス体は、再生を試みようと蠢く。


「しつこいわよ、ミダス体」


 姉は、初めて見る目をしていた。

 パパとママを氷漬けにした後の、暗く淀んだ目ではない。

 特務官の目だ。


 さらに刃が生える。何枚も、何枚も。

 ミダス体の原型を留めないほど、宣言どおりに斬り刻む。


 体内の水分全てが凍てついてようやく、破壊攻撃は停止された。そのオブジェを維持していた力が一瞬にして失われ、氷の花は呆気なく砕けて塵と化す。


 完璧なミダス体の『死』だ。


 だが、ラジエットは自分を追い詰めた化け物の末路を見損ねた。

 特務官の姉に、目を奪われていたのだ。


 三年前、ミダス体に変異しかけていたパパとママを、姉が殺した。


 ――そうじゃないんだ。


 元々、姉は自分のシンギュラリティを恐れていた。

 あのときも、ぎりぎりまでためらっていた。

 だから、パパとママは、姉の名前を呼んだのだ。


 いいんだ、と。やってくれ、と。


 そして、姉は決心した。を。


 どうして気づかなかったのだろう。お姉ちゃんだって誰かにすがりたくて、でもちゃんと選択の結果を受け止めようとしていて。

 自分だけが、何も理解できずにいたのだ。


 半ば放心状態にあったラジエットを、


「怪我はしていないか」


 人型生物が覗き込んだ。


「あ、ぅ……」


 大変申し訳ないが、あまり心臓によろしくない姿である。直感的印象として、機械と融合したミダス体に思えるのだ。

 しかし、身体を走る光の紋様が、穏やかに明滅している。

 そのフェイスマスクが溶けるように消え、中からアジア人の青年の顔が出てきた。


「俺だよ、ラジエット」

「……イナミさん!」


 思わず大きな声を上げたラジエットは、どっと息を吐き出した。

 新型のパワードアーマーだったのだ。フェイスマスクが皮下に沈んで消えたように見えたけれど、自分の見間違いだろう、多分。


 まだ怯えている男の子に、


「この人は私の知り合いだよ」


 と、声をかけてから、はっきりと頷いてみせる。


「はい。ケガはしてませんし、ミダス体にも接触されてません」

「求めていた以上の答えだな」


 イナミは苦笑いを浮かべ、こちらにそっと手を差し伸べた。

 彼が纏っているパワードアーマーは冷たいのかと思っていたが、いざ掴まってみると、人肌よりも少し温かい。


 起き上がらせてもらうも、まだ足が震えていて、うまく立っていられない。

 それを察した彼が横から支えてくれた。


 ミダス体の残骸を注意深く観察していた姉が、ようやくこちらに歩いてくる。

 厳しい表情を崩さない。


 ラジエットは肩をせばめて縮こまる。


 そんな気まずさを悟られたようだ。イナミが容赦なく背中を押し出した。


「わ……」


 踏ん張れなくてよろける――

 そこを、姉がしっかりと両手で抱き留めてくれた。


「よかった。ラジエ、無事で……」


 姉の息遣いから、緊張が解れるのを感じた。

 ラジエットも力を抜いて、身体を預ける。何か言おうとして、喉が震えた。

 出てきた言葉は、


「ごめんなさい、お姉ちゃん……私、ずっと……」


 それを聞いた姉は、顔を見合わせる形にして微笑んだ。謝罪が今までのこととは少しも思っていない様子だ。


「謝ることなんてないわ。上出来よ。特務官顔負けの度胸ね。どうやってこんなこと思いついたの?」


 今度は自分が戸惑う番だった。


「えっと、なんのこと?」

「人のいないところに逃げたことよ」

「あ、それは、ママが……あのとき教えてくれたから……」

「そうだったの。守ってくれたのね、きっと」


 姉は身体を離し、肩を軽く叩いた。


 気がつけば、足の震えは止まっていた。


 二人の横では、イナミが男の子を起こしていた。が、すぐ失禁に気づいたらしい。妙な間があった後に、こう言うのである。


「お前は強い男だ。よく恐怖と戦った」


 不慣れな励まし方に、姉がくすりと笑う。

 妹に向けるのとは全く異なる表情。ラジエットは密かに衝撃を受けて、イナミをまじまじと見つめてしまった。


 再び視線を戻したとき、姉は虚空に向かって話をしていた。透明なメガネに映像を表示させている。


「エメ。生存者を二名、確保したわ。脱出ルートをお願い」

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