第4章 虐殺

[4-1] あやつならば

 その日はいつもと変わらずに始まった。

 と、個々人にはそうとしか思えないかもしれない。


〈アグリゲート〉には、様々な意志を持つ者がひしめきうごめいている。

 その中で起きる変化は、いってみれば地下水脈のようなものだ。静かに流れながら、周りの土を徐々に削り取っていく。崩落が生じて初めて、人々は足の下に水が通っていたのだと気づくのだ。


 早朝のランニングと熱いシャワーを済ませたイナミは、二階のリビングでルセリアと鉢合わせになった。


「おはよ」

「ああ、おはよう」


 ふと思い立って観察すると、妹のラジエットは本当に姉とよく似ていたことを思い出す。


 弓なりの眉、琥珀色の瞳、通った鼻筋、柔らかそうな唇、白い肌――


 イナミがじっと見つめていると、


「な、何?」


 ルセリアはフリースの袖口をつまんで、身体を隠すように腕を組んだ。下にはまだ寝間着を着ていて、今の彼女は無防備な印象を受ける。


 イナミは気まずさを覚え、「すまん」と後頭部を撫でる。


「少し考え事をしていた」


 ソファにどっさりと座り込み、卓上デバイスをオンにする。

 ニュースに軽く目を通していると、背もたれに力がかけられるのを感じた。ルセリアが上半身を乗せるように寄りかかったのである。


「悩みがあるなら相談に乗るけど?」

「俺が悩んでいる、というワケじゃないんだ」

「へえ? もしかして、あんたが乗ったって感じ?」

「どうかな」


 イナミは肩越しに苦笑いを向けた。


「俺じゃなくて誰でもよかったんだろう、とは思うが」

「何それ。昨日はやけに遠くまで出歩いてたみたいだけど、誰かと会ってたの?」


 そう尋ねてから、彼女はなぜか思い直したように背もたれから離れた。


「……プライベートなことよね。突っ込んでごめん」


 お前のことだよ、とイナミは内心呟く。

 しかし、ラジエットと約束したとおり、曖昧な態度ではぐらかした。

 イナミが勝手に動いていい問題ではない。


 ましてや、ルセリアのほうこそ『ラジエットのことで悩んでいる』と相談してくるわけでもない。

 自分は単なる同僚であり、他人なのだから、頼られなくても当然ではあるが――


 彼女は殻を纏っている。

 自分のように物理的な外骨格ではなく。


 胸の奥に釈然としない感情を抱きながら、イナミは身体ごと振り返った。


「こじれそうなら、お前にも話すさ。俺は、こういう役回りは勝手が分からないからな」


 ルセリアは、こちらの心情を知るよしもなく、肩を竦めて微笑んだ。


「まあ、あたしだって得意じゃないけど」

「なんだか朝からイイ雰囲気ですねー」


 と、横槍を入れたのは、階下から上がってきたエメテルだった。

 彼女は部屋着の上にハンテン――昨日と同じ格好をしていた。髪はシニヨンを解いて、楽にしている。オフィスで眠っていたようだ。


 ルセリアはじっとりとエメテルを睨みつける。


「これが『イイ雰囲気』に見える? いつもどおりじゃない。あんた、もうちょっと人とコミュニケーションってもんを取りなさいよ」

「……う」


 エメテルは情けない顔で、子供のように、両手を使って知り合いを数え始める。


「ちゃんとお話ししてますってー。ルーシーさん、イナミさん、クオノさん。ケイシー、スピネ、ヘリオ――」

「あたしたち以外は、フェアリアンの家族じゃない。もっと友達作りなさいよね」

「……お友達が少ないのは、ルーシーさんだって同じでは?」

「んぎ」


 ルセリアは頬を引きつらせて固まった。


 察するに、とイナミは冷静に判断する。

 これは第九分室全員にとって避けるべき話題なのではなかろうか。

 リビングに漂う微妙な空気を断ち切らんと、イナミはソファから立ち上がった。


「それで、昨日の『あれ』についてはどうだった」


 エメテルは丸まっていた背筋をぱっと伸ばし、表情を引き締めた。


「犠牲者さんがいつミダス細胞に寄生されたかも、これだって、突き止めました」

「ホントに!?」


 驚くルセリアに、エメテルは達成感溢れる顔で「はい」と頷いた。

 だが、少女二人が手を取り合って喜んだのも束の間、すぐに表情を硬化させる。



 昨晩、ベルタとの戦闘を経て宿舎に戻ったイナミに、エメテルはこう訊いた。


『人を媒介とするのではなく、人ミダス細胞を運ぶことは、できると思いますか?』


 可能だ、とイナミは答えた。


 そもそも、イナミたち実験体は、ナノマシンを注入されて、肉体を再構築されたのだ。

 ミダス体から吸い出した血液に、異常増殖しない程度の栄養分を与えれば、試験管の中で生存し続けるだろう。


 しかし、彼女が提示した可能性はイナミにとって、そして地上の人々にとって、ありえないものだ。

 人間がミダス細胞を蔓延させているなど――



 イナミは信じられずにいたのだが、彼女が何かを突き止めたというのなら、話は別だ。

 後から起きてきたクオノも含め、四人はオフィスへと移動した。


 それぞれが持つカップには、ミネストローネに、麦や木の実などのシリアルフードを投入したものが入っている。冷蔵庫に入っていたあり合わせだ。


 それをスプーンですくいながら、壁面モニターに流れる映像を注視する。

 映像は、オフィスビルの通路に設置された防犯カメラで撮影されたものだ。


「犠牲者さんが変異する二週間前の映像です。彼が勤めていた内務局のオフィスです」


 通路の白い床は、繁華街や他地区のビルと違い、清掃員によって綺麗に磨かれていた。


 カメラはオフィスの出入り口とトイレ、エレベーターを映している。

 トイレ付近には背の高い観葉植物が置いてあった。葉は薄く、人が通るとゆらゆらと揺れるのが分かる。


 やがて、オフィスから犠牲者の男が出てきた。

 男は苛立たしげな顔で、リストデバイスを何度も見下ろす。


「確か、この男は女性問題を抱えていたんだったな」

「ですです。あんなことになっちゃったので悪く言えませんけど、百パーセント、この人が起こした問題です。イナミさんはこういう人になっちゃダメですよっ」


 思わぬ飛び火だった。イナミは即座に答える。


「そんな立ち回りができるほど、俺は器用じゃない」


 ルセリアが「ふふん」と意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「そういうこと言うヤツほど、こういうことになってたりするのよね」


 クオノまでもが、


「自覚がないタイプ」


 と、こくりと頷くものだから、イナミは思わず胡乱うろんげな眼差しを女性陣に向けた。


「……お前たちのその認識はどこから来ているんだ?」

「コミックですね」

「マガジンに体験談とか載ってるし」

「……内部監査の報告」


 最後に答えたクオノだけが妙に生々しく、全員が黙り込む。

 ルセリアがモニターを指差し、無理に話の軌道を戻した。


「さ、さっきから見てるけど、何も起きないわよ」

「あ、これからです」


 男はリストデバイスから顔を上げると、落ち着かない様子で通路を行ったり来たりする。やがて我慢を切らしたように、大股でトイレへと入っていった。


「中の映像はありません」


 これについては誰も、何も言わなかった。


 中から怒声がかすかに聞こえてくる。

 画面上のサブウィンドウには、通話記録も同時に表示されている。相手は女性だ。エメテルがボリュームを上げないので、これも重要ではないのだろう。


 四、五分後、男はトイレから出てくる。しきりに腰の辺りを手でさする。


 イナミは控えめに口を開く。


「変だな。そんな癖はなさそうだったのに、何をそんなに気にしている」


 エメテルは何か言いたげな目をしたが、じっと黙ったままだ。


 男がオフィスに戻っていっても、映像は続く。

 その後は誰一人として現れない通路。風に揺れる観葉植物の葉――


「ここです」


 突然、エメテルが映像を止めた。


「みなさん、気がつきましたか?」

「……全然」


 と、ルセリアが答える。クオノも首を横に振る。

 エメテルは映像が巻き戻し、指摘の箇所を再生した。


「植物に注目してください。ここまで葉っぱは揺れてません。でも――今! ほら! 不自然に揺れてます!」


 彼女が興奮する理由に思い当たらないのか、ルセリアはぼんやりと呟く。


「……空調、は違うわね。風の当たる場所に置いちゃダメって教わったことがあるわ」


 誰に教わったのか、イナミは推測することができた。恐らくあの老婆、〈アレクサンドリナ女子寮学校〉の学長だろう。


 エメテルは呟きに頷く。


「一応、シミュレートもしてみましたが、最大風力でも風は届かない場所です。どこかで窓を開けたとかで、室温が変化してもいません」

「要するに、目に見えない誰かが通った痕跡だって、言いたいワケね」


 エメテルは元気よく「はい!」と声を上げた。


「もちろんこれだけじゃないですよー。ででん!」


 と、効果音を口にし、もったいぶった口調を演じる。


「みなさんに出題です。透明人間さんでも隠せないものがあります。それは一体、なんでしょうか!」


 ルセリアは露骨に面倒くさそうな顔をしながらも、律義に付き合う。


「ちゃんとそこにいるのは確かよね。熱なら、こんなにエメが興奮しないわね」


 クオノが控えめに挙手をして、より具体的に続ける。


「質量、体重。感圧センサーには引っかかる」

「おっ、クオノさん、いい線ですねー。残念ながら、それはパスされてたんですよー」


 イナミは天井を見上げて考えていた。その視界に、宿舎の空調が入り込む。


 ――そうだ。


 空調はただの送風機ではない。は防災のために搭載されており、においては必要不可欠なセンサーだったものだ。


 それが検出するのは、


「酸素、二酸化炭素か」

「ぴんぽんぴんぽん、大正解です!」


 エメテルはぱちんと手を打って喜ぶ。


「この施設はO2とCO2、その他諸々の濃度に応じて、空気を循環させてまして――このシステム、フロア内にいる人間の数までちゃんと認識してるんですよ」


 さすがにルセリアも、何を言わんとしているのかを理解したようだ。


「……のね?」


 エメテルは大きく頷いた。


「この施設には、三十分間、姿の見えない人間が一人侵入してます。映像の十分後には外出する人にくっついて脱出してます」


 イナミは拳をぐっと握り締める。


「そいつが、注射器か何かを使って、ミダス細胞を犠牲者に寄生させたんだな」

「これまで経路の分かってなかった犠牲者さんたちを調べれば、もしかしたら類似する痕跡を見つけられるかもです。ただ……」


 エメテルは困り顔でぼやく。


「バスケトはこういう作業苦手なんですよね。環境データを読み込まないと『異常』って見つけてくれなくて。だから、人が確かめてかないといけません」


 ルセリアは「あー……」と声を漏らす。


「ホント、ご苦労様な話ね。でも、こんなことできるヤツなんて、そうそういないんじゃないの? 容疑者が絞れるなら、そいつを叩いて万事解決ね」


 イナミは厳しい顔で言う。


「俺たちはすでに知っている。エメもそのつもりで話していたんだろう?」

「はい。シンギュラリティ能力者のリストで、状況に該当する人間は存在しませんでした。でも、なんらかの装備による犯行なら――」


 ルセリアがはっとした顔で声を上げる。


「サシャ・メイ!」


 エメテルは慎重に頷いた。


「もちろん、現段階ではあくまで容疑者に過ぎませんけどね」


 ――思わぬところで結びついたものだ。


 しかし、イナミは今一つ信じられずにいた。

 結論は証拠から導き出される。

 この話は、『サシャが光学迷彩を使っている』ことから、証拠を見つけようとしている。すなわち、こじつけだ。


 第一、サシャの目的が分からない。

 ミダス体を利用し、〈デウカリオン機関〉を打ち倒そうとしているとして――


 無謀だ。ミダス体はヒトそのものを標的にした虐殺兵器である。その先に新しい社会なんてありえない。


 それもこれも、サシャを拘束できれば全て分かることではある。

 イナミはそのときを待ち望み、今は肩の力を緩めるのだった。


   〇


血龍シュエロン〉邸宅の稽古場で、空を切り裂く音が響く。


 ベルタ・メイが使う体術は、基本的に拳を握らない。

 手刀、掌底、指先での突きを中心とした技である。


 鍛錬用のウェアのみを身に着けた彼女は、鞭を思わせるしなやかな動きで、仮想上の敵に技を繰り出していく。


 この体術がなんという名なのか、ベルタは知らない。

 技の体系は〈大崩落〉時に失われてしまった。ヴァシリから習ったものも、様々な流派を混ぜ合わせたものだという。


 加えて、ベルタが習得した技と、ヴァシリが極めている技は、全くの別物だ。

 同じ動きをできる者は他にはいない。


 一呼吸の間に、至近距離での連撃。

 距離を取り、相手が伸ばす拳の外から、刈り取るような回し蹴り。


 ベルタが無心で鍛錬を行っていると――


「熱が入っておるな」


 不意に声をかけられ、飛び退くように振り返る。

 そこにいたのは、


「師父……」


 ヴァシリ・ヤンだった。

 存在に気づかなかったのは、稽古に熱中していたからではない。ヴァシリが気配を消していたのだ。


 すなわち、自分は未熟ということだ。これが兄のサシャであれば、背を向けていても接近を察していただろう。


 ベルタはヴァシリの前にひざまずく。激しい動きをしてなお、息は乱れていない。獣の耳から熱が逃げていくのが分かった。


 小柄な老人は、


「構わん、続けろ」


 と、朗らかに言った。

 顔つきは獰猛なオオカミのように険しいのだが、気性のほうは激しくないのである。

 オオカミはオオカミでも、雪原のぬしとでもいうような印象を、ベルタは共に暮らすにつれていだくようになっていた。


 ベルタはすっと立ち上がり、鍛錬を再開する。


 しばらく肉体が躍動するさまを眺めていたヴァシリは、顎髭を撫でながら笑う。


「イナミ・ミカナギと立ち合うて、よい刺激になったようだな。あやつはお前の目にどう映った」

「……ヒトではないかと」

「ほう?」


「師父もご存知だったのでは? あの男が簡単には死なない、殺せない身体だと」

「さて、どうか」

「生命力だけではありません。戦闘力も尋常ではない。私の結界がああも容易く破られるとは思いませんでした」


「して、あやつならばサシャにも届くだろうか」

「それは――」


 ベルタは手刀を振り下ろした。


 思い描いた敵。その人物がこんな打撃を黙って受けてくれるとは到底思えなかった。二人の稽古、ベルタはいつも手加減されていることを感じていた。それでも不満はなかった。満たされていた。屑の父親も虐げられる母親もそこにはいなかった。搾取される自分たちも。


「分かりません」


 ヴァシリは「そうか」と目を細めた。


「先方からの報せだ。サシャがミダス体の増殖に一枚噛んでおるかもしれぬ、とのこと」


 それを告げた師父は、こちらの反応を見届けることなく稽古場を出ていった。


 今度はその気配を隠さなかったので、ベルタは振り返り、ひざまずいてこうべを垂れる。


 そう、確かにイナミ・ミカナギの能力はヒトからかけ離れている。

 だが、それだけだ。

 それだけでは、兄、サシャ・メイには――

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