[3-5] 胡弦鳴動
イナミは身構えることなく、そして前置きもなく口を開く。
「試験の結果は?」
ベルタもまたシンプルに返す。
「上々。もっと早くにこうしてくれたらよかったと思うわ」
「もし気づかなかったら?」
「別に。兄さんと戦っても無駄に命を散らすだけで、私には何も関係がない」
涼しげな顔で、辛辣な物言いである。
イナミは肩を竦め、軽く笑みを浮かべてみせた。
「試験の合格祝いはあるのか?」
「それも、別に。次の確認に入るだけよ」
ベルタが腕を軽く動かしたように見え、イナミも体の向きを微妙に変える。
彼女に対して斜めに向くことで、初動の第一歩を踏みやすくしたのだ。
「これ以上、何を確かめるつもりだ?」
「本当に、兄さんと渡り合える武人かどうかを」
言うや否や、ベルタのコートが肌を滑るようにするりと落ちた。
それまでは、たとえるならそよ風に揺れる柳のような、希薄な存在感だった。
一変して、存在感そのものが突風となって押し寄せてくるようなプレッシャーだ。
この会話をイナミ経由で傍受していたエメテルが、ちゃんと聞こえているのに叫ぶ。
《イナミさん、ダメです!》
同時に、リストデバイスが着信音を鳴らした。
イナミは相手に示すように腕を持ち上げ、その着信に応じる。
通話が始まると同時にホログラムディスプレイが開き、エメテルの姿が飛び出す。
《私は特務部第九分室所属、エメテル・アルファです! ベルタさん、もしあなたが私闘を行おうとしてるのであれば、〈
ベルタは恐ろしく冷たい目でエメテルを見る。
「許可なら師父から頂いている」
《ま、まさかの承認済みですかっ!?》
「やるなら殺すつもりで、とも承ったわ」
《物騒すぎですよ、それ! イナミさんからも何か言っちゃってください!》
イナミは頷き、腕に抱えていたマーケットの紙袋を床に置いた。
「手合わせに付き合おう」
《……イナミさぁん!?》
エメテルがカメラの前で頭を抱える。
申し訳ないとは思うが、イナミにも考えがあった。
「これは組織同士の話じゃない。俺個人に仕掛けてきたことだ。だから、この場合は、俺が相手を納得させなければならないんだと思う」
《……イナミさんが言ってる、納得させなきゃいけない『相手』って、ベルタさんのことじゃないでしょう?》
「ああ。あんな問答じゃ、ヴァシリは俺を認められない、ということだろう」
単なるナノマシン体への疑念ではない。
クオノという力を、守ることができる存在なのか。
エメテルはたっぷりの間を置いて、諦めの吐息をついた。
《分かりました。……でも、気をつけてください。絶対、手合わせじゃ済まないですよ》
「了解した。面倒をかけるな、エメ」
《私に謝ってもダメでーす。後でルーシーさんにたっぷり怒られてください》
「実はポテトチップスを買ったんだ」
《この状況は不可抗力と見て、事情は私からルーシーさんにお伝えします、はい》
話を聞いていたベルタが、少しだけ気の抜けた目で、一言。
「人、それを賄賂と言う」
「買収したワケじゃない。エメの気がたまたま変わっただけさ」
そう答えながら、イナミは脱いだダウンジャケットを近くに放り投げた。
ベルタはこちらの引き締まった身体をしげしげと眺めてから、自らのウェイトベルトに指を伸ばす。
引き抜かれたのは、鉛の芯ではない。
二十センチほどの長さもある鉄針だった。
「あらかじめ見せておくわ。私のシンギュラリティ、〈
《え》
エメテルが洩らした戸惑いの声は、その後に響いた音に掻き消された。
しなやかな腕の振りから投擲された針が、太い柱を易々と貫いたのだ。
まるでレーザーのような貫通力を持った針は、さらにその奥の柱に突き刺さって止まる。それでもまだ小刻みに震えているらしく、太い弦を弾いたような音色が空間に浸透する。
ベルタは力を誇る様子もなく、淡々と告げる。
「触れた物に振動を与える能力よ」
「手近な武器を超振動ブレードに変えられる、と」
イナミが口にしたのは、現代ですでに復元されている技術だ。
刃に超音波などで振動を与え、ただ切る以上の運動でもって物を加工する道具である。いうなれば、目に見えない速さで前後するノコギリのようなものだ。
その技術は、恐らくヴァシリを通じて彼女に説明されているだろう。ベルタは「ふん」と鼻を鳴らした。
「物分かりはいいようね」
《ちょ、ちょっと待ってください!》
エメテルの、すう、と深呼吸する音をマイクが拾う。
《まさかシンギュラリティを使うつもりですか!?》
「無論」
《重犯罪ですよ!》
「殺すつもりでやると言った。それ即ち、持てる力の全てを振るうということ」
「そのとおりだ、エメ。実戦形式なら当然シンギュラリティもありだ」
《ああ、もう、この人たちは!》
なおも続く抗議を無視して、ベルタは左手をそっと持ち上げる。琴爪のような超小型機械を五本の指に
「この力を使えば、こんなことも可能」
そう言うと、空を薙ぐように手を払う。
瞬間、機械から煌めく『何か』が放たれた。
先に見た針のイメージから、イナミは咄嗟に避ける。
と、同時にナノマシン体の超感覚が、空を切る『何か』を近くした。
背中と肩に、薄刃が食い込む感触。
思わず息を止め、制動をかける。
ベルタが放った『何か』。それは
一瞬で柱から柱へと張り巡らされたクモの巣に、イナミは捕まったというわけだ。
慌てて動かなければ、肉を裂かれることはない。慎重にナノファイバーから離れ、止めていた呼吸を再開する。
とはいえ、先ほどの針を思い返すに、これはただの網ではなさそうだ。
現に、ベルタは手を構えている。まるで指が弦を叩くハンマーと化したかのように、力の解放を待っている。
「今、力をかければ、『胡弦』があなたに殺到する」
超振動ブレードと化したナノファイバーが、巻きついている柱を切断し、包囲の中心に立っているイナミを輪切りにするというのだ。
人が身に着けたものとは思えない、恐ろしい戦闘技術である。
何より恐ろしいのは、ベルタの目に躊躇がないことだった。〈
「打つ手なしなら、ここで屍を晒すがよろしい」
シンギュラリティ能力者でなければ、この場に膝をついて命乞いをするしかないだろう。
だが、イナミは能力者ではないにしろ、力を持っていた。
「この手のは対処済みだ」
「……なに?」
眉をひそめるベルタの前で、イナミは〈
身体を構築するナノマシンが一斉に活発化し、黒い液体金属へと変異する。
体外に溢れ出た液体が、渦巻くようにイナミを衣服の上から包み込んだ。
全身を絞り上げるようにフィットした液体は、連結構造を固定、外骨格を形成する。
イナミの姿は一瞬にして、機械生物という単語を思わせる異形へと変貌した。
クローズヘルム型頭部の後ろから、シロヘビ柄のケーブルがずるりと生え伸びる。
体表面に灯った青白いパルス光の紋様が、薄暗闇を明るく照らした。
この変異を、ベルタは映像で見知っていたらしい。
「それが液体金属の鎧……!」
イナミはその一言を聞き洩らさなかった。ベルタは、ヴァシリからイナミの正体を知らされていない。ならばよし。
彼女は空いている右手を示してみせた。そちらの指にもナノファイバー発射装置がはめられている。
「無駄よ。あなたがどんな鎧を纏おうとも、私の胡弦はあなたを切り裂く」
「だから、いいんだ」
イナミは、背中にある排気孔から白煙を吹き上げた。
「あらかじめ見せておこう。と言っても、大体は知っているだろうがな」
「ええ。鎧と縮地のことなら」
意趣返しをしてやろうと大きな態度を見せていたイナミは、一瞬沈黙する。
エメテルが、イナミにだけ聞こえるように、
《〈
《ああ……》
のんびりと理解するが、間抜け面はフェイスマスクに出ない。
そうと気づかずに、ベルタは淡々と告げる。
「胡弦のコントロールは完全。空間を越えて私の目前に現れようものなら、浅慮の報いを受けることになるわよ」
「果たして、そうかな」
イナミは話を全く聞いていなかったように、足を前へと踏み出した。
ナノファイバーが足に、手に、身体に絡みつく。
「……死にたがりめ!」
ベルタがシンギュラリティ〈
指先からナノファイバーへと振動が伝達され、イナミの外骨格深くに食い込む。摩擦の火花が激しく散った。
しかしながら、出血はない。
手術用のメスならそれを抑える効果もあろうが、ベルタが使っているのは繊維だ。細胞をずたずたに断つ武器だ。
様子がおかしいことにベルタは気づき、ただでさえ無の表情をさらに硬化させる。
「影……否、実体はある。胡弦からあなたを感じているはず。なのに……!」
無論、イナミは不死ではない。
心臓や脳への損傷を避けるように、ナノファイバーを受け止めている。
この状態で〈
胸の奥で生じた亜空間が、イナミの肉体を内側から喰らい尽くしていく。その断裂に巻き込まれ、ナノファイバーがぶつんと千切れ飛んだ。
イナミ自身は『引き波』を立てて消失。
〈
出現座標の空間を捻じ曲げながら、イナミの手足、頭、胴体が現れる。
このときも肉体の質量が通常空間に干渉し、精密機械でなければ観測できないほどのかすかな『押し波』が発生するのだった。
第三者、ベルタの目には、肉体が破裂と膨張をしたように映っただろう。己の武器の手応えが変わったことにも気づいたはずだ。
この瞬間、二人の戦いは本格的に始まった。
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