[3-4] 俺は必要に迫られただけ
「お疲れ、エメ」
と、ルセリアはオペレーターデスクの上にマグカップを置いた。
眠っていたかのようだったエメテルが、ぱちりと目を開け、部屋に漂う香りを嗅ぐ。
「わあ、ココア! ありがとうございます!」
シートを起こした彼女は、両手を上げて背筋を伸ばす。
シャツの襟をリボンで締め、
両手で包むようにマグカップを持ったエメテルは、茶色い液体に口をつけ、にへら、と頬を緩ませる。
「あー、ほっと一息ですねー」
「いっぱいいっぱいになる前に休んどきなさい。はい、クオノも。熱いから気をつけてね」
「ありがとう、ルセリア」
ソファに座っていたクオノは、かすかに微笑んで頷く。
こちらは、元貨物管理ロボット、ギアーゴと仮想空間上のボードゲームで対戦しているようだった。
『ショーギ』というゲームだ。
駒と駒を戦わせ、討ち取った相手の駒を自分の駒にできる。大将を倒したほうが勝ち。
戦争をシミュレーションするために作られたとラボが見解を出しているが、だとしても、大量破壊兵器が存在しないほど古い時代の遺物だろう。
――さっさと敵陣に爆弾を落とせば片がつくのに。
しかし、侮ってはならない。恐ろしいのは、取った相手の駒を操れるというルールだ。
太古には死者を操る技術が存在していたのかもしれない。脳に電極を埋め込むなどして、リモコンでちょちょいのちょいなのだ、きっと。
ルセリアが『死者の戦争』を想像している間に、クオノがむすっと眉をひそめた。
「……また負けた」
《落ち込むことはございません、クオノ様。当然の結果でございます。何しろわたくしは貨物管理担当! あらゆる事故を防ぐため、一手二手先を読まねばなりません。安全第一、リスクは回避でございますよ》
「もう少しで崩せそう」
《はっはっは、クオノ様は負けず嫌いでいらっしゃる。受けて立ちましょうぞ》
仲がよろしくて何より、とルセリアは笑みをこぼしながら、エメテルの隣に立った。
「その調子だと、進展なし、かしら」
「そうなんですよねー……」
エメテルは落ち込み気味に答える。
「監視カメラや〈ハニービー〉に映ることなく、建物に侵入、逃亡が可能となると、思いつくのはハッキングによる無効化、もしくは光学迷彩か、それに準じたシンギュラリティといったところです」
「ハッキングだったら、足がつくはずよね。光学迷彩も確か、熱までは消せないんじゃなかった?」
「はい。光と熱の両方をコントロールできるシンギュラリティも、データバンクには登録されてません。そもそも、サシャさんは別の能力を持ってるみたいですし」
エメテルは「そこで……」と宙にホログラムディスプレイを投影した。
「過去の記録を漁ってみました。つまり、私たちの知ってる光学迷彩は、確かに熱まで隠すことはできません。でも、〈大気圏外戦争〉以前の技術なら――」
ルセリアはぱちんと指を鳴らす。
「協力者に、モーリスがいた!」
「そう、彼の発掘調査履歴に、熱遮断性能に優れた繊維帯が記録されてました。人体の熱程度なら完全に隠せるそうです。その一部が流出して、サシャさんの装備に使われてると推測します」
よくも、厄介な代物を厄介な人物に渡してくれたものだ。
ルセリアは思いつきを口にする。
「じゃ、モーリスのメールリストを調べれば、サシャのアドレスが分かるんじゃない?」
「実行済みです。アドレスも判明しました」
「ホントに!? もう一息じゃない!」
しかし、エメテルの表情は暗かった。
「ところがですね、そのアドレスを使用している端末の持ち主は、全然関係ない市民さんでした」
「そいつもサシャの協力者なの? 仲介役とか?」
「分かりません。その市民さんはとっくに死亡してますから」
「……え?」
「ミダス体に襲われたそうです」
二人は黙ってディスプレイ上を流れる記述を見つめる。
ルセリアは腕を組み、エメテルはココアを
「……〈アグリゲート〉の中にいるのは分かってるのに、たかだか一人、こうも尻尾を掴めないものなのかしら」
「監視が穴だらけってことですよ。しかも、その穴は意図的だったりして。厳しくすればするほど、反発も強くなりますからねー」
「まったく、面倒なんだから」
と、ルセリアは肩を竦める。
「ミダス体と言えば、この間の犠牲者についても調べてたわね」
「そっちも、ぜーんぜん、です」
エメテルはイヤーカフをやたらと指の腹で撫でる。まるで着け心地が気になっているかのような仕草だ。
苛立っているらしい、とルセリアは気づきながらも、そのまま耳を傾ける。
「あの男性は、ミダス体発生地域に近づいてませんし、潜伏体だった市民との接触もありません。ものは試しに行動分析をしてみましたが、変異数分前で、ようやく異常行動が見られたくらいです。どこでどう寄生されたのか、不明なままですねー」
まったくもって奇妙だ。
前提として、ミダス細胞は空気を介して移動しない。直接接触することが必要なのだ。だから、まだ〈アグリゲート〉は陥落していない。
ルセリアの頭は、先ほどの話題も引きずっていた。そこにふと閃いたアイデアを、精査せずに声に出す。
「ミダス体もサシャと同じ光学迷彩を着けてたり、なんてね」
「え?」
エメテルがぱっとこちらを見上げた。大げさなほど唖然としている。
次に、ショーギに熱中していたように思われたクオノが、
「……ん」
と、振り返った。碧眼は、顔が映り込むのではないかと思うほど、美しい。
二人に凝視され、ルセリアは
「分かってるわよ。ちゃんと話は聞いてた。人体の熱なら隠せる。でも、ミダス体の高熱は隠しきれないって言いたいんでしょ。あたしも適当に言ってみただけ――」
エメテルはさっと手を挙げて遮る。
「ええ。ミダス体は隠れられません」
表情は消えたままで、彼女の肌は血の気が引いて一層白く、石膏めいて見えた。
「でも、活発化する前のミダス細胞は……」
〇
日がほとんど落ちても、街路灯と信号機が街を照らしている。
道を走る車のヘッドライトや、建物の窓から洩れる明かりで、足元もはっきりと見えた。
この地を宇宙から見下ろせばきっと、一点に集中した光が暗闇に呑み込まれる寸前、という光景が広がっているのだろう。
歩行者用の信号が青に変わる。
イナミは一時の空想から現実へと意識を引き戻す。
どうしたものか。
ルセリアとラジエットのことではない。寮を出たところで気づいた、ずっと尾行してくる気配のことだった。
人の雑踏に紛れて
――このまま宿舎まで連れていくのもまずいよな。
と、行動に移ろうとしたとき。
分室宿舎のエメテルから、リストデバイスに通話要請があった。
イナミはそちらの端末ではなく、ナノマシン体が持つ通信器官で応じる。
《エメ、こっちの回線で頼む》
《少しお話したいことがあるので戻ってきてください、と言おうと思ったんですけど……どうかしました?》
《尾行されている》
そう報告すると、エメテルの語調が、オペレーターのものに急変する。
《〈ハニービー〉から『目』を借りました。イナミさんを追跡してるのは……あれ》
《誰だ?》
《えっと、ベルタさんです。〈
エメテルから送られてきた映像を、視界にうっすらと映す。
二十メートル後方にベルタの姿がある。
通行人たちに盗み見られても、有象無象には全く気を散らさない。まるで草陰から獲物を狙う狩猟動物のように、こちらをじっと見つめている。
イナミは驚きのあまり、振り返りかける。
もっと近くに彼女がいると思っていたのだ。
《どういうことだ。なぜ彼女が?》
《……通達はありません。どうします? 問い詰めるか、逃げるかですけど》
《前者で行く。二人きりになれる場所を教えてくれ》
《了解です。次の角を曲がってください。その先に調査中のビルがあります》
《調査?》
《ええ、使用された鉄骨に欠陥が見つかったらしくて。現在、作業員はいません。ルートを表示しますね》
道路上に光の経路が映し出される。
その案内に従って角を曲がる。ベルタは動じることなく歩調を変えずについてくる。
これまで散々、不要な迂回をしてきたのだ。こちらがとっくに尾行に気づいていると、ベルタは承知の上だろう。
となると、
――試されているのか?
エメテルが指定したビルを見つける。
建物の周囲には足場が組まれた上、防塵幕で覆われていた。
フェンスゲートは金属錠で施錠されている。
よじ登れる高さではあるが、周りには人の目がある。
イナミは涼しい顔で錠を捩じ切った。ナノマシンが活発化し、皮膚にパルス光がうっすらと浮かび上がるが、誰も気づかない。
見ているのはエメテルだけだ。
《……思い切ったことしますね》
《通報されると面倒だ》
《確かに、ですけどね。報告の際は、ベルタさんが悪いことにしましょっか》
《そうしよう。俺は必要に迫られただけだ》
《そうです。周りに迷惑をかけないためです》
と、二人で申し合わせておきながら――
きい、とゲートが非難じみた軋みを上げて開く。
イナミは正面の出入り口から建物の中へと進んだ。本来なら両開きのガラスドアが設置されているところだが、現在はメンテナンスのため外されているようだった。
内壁と床材は剥がされ、コンクリートが露出している。
窓枠の穴から風が吹き込んでくるので、室温は外よりも低く感じた。
いくつも並んだ柱がフロアを支えている。どこに欠陥が見つかったのか分からないが、すぐにも崩れそうだ、という様子はない。
二階へと上がり、尾行者を待つ。
月明りが防塵幕を通って、うっすらとフロアを照らしている。今宵は晴天だ。完全な暗闇ではない。
やがて、階段を上がる硬い靴音が反響した。
ベルタは小細工もなしに平然と姿を現す。
余計な力の入っていない美しい立ち姿だ。ヴァシリの邸宅で会ったときと変わらない。
ただ、黄金色の双眸は、恐ろしく機械的な輝きを宿している。
どうやら密会の誘いというわけではなさそうだ。
暗がりの中、両者は距離を置いて対峙する――
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