[2-6] 禍根は断つべし
連れられてきたルセリアも、やはりヴァシリの眼光に気圧されたらしい。持ち前の勝気さが鳴りを潜める。
彼女はイナミの隣に寄り添って、小声で囁く。
「ねえ、なんの話だったの?」
「〈
「興味を持たれたのね。スカウトされたりして」
「それは……ありえないな。あっても断る」
「……ちょっと安心」
穏やかに話す二人の横を、ベルタが通り過ぎる。初めて見たときには油断ならない気配を感じたが、ヴァシリの横に立つと、影のように存在感が薄い。
ヴァシリは、機関から提供された映像をホログラム・ディスプレイ上で再生している。イナミと白面の男が交戦したときの記録で、イナミの視界に合わせて画面が激しく揺れる。途中からは〈ハニービー〉の視点も加わった。
老人と美女は、長いこと、白面の男を静かに見つめる。
やがて、ヴァシリのほうが落胆の吐息を洩らした。
「間違いない。こやつはサシャ・メイだ」
「知っているのか?」
ヴァシリは先ほどと打って変わって、老いを感じさせる面持ちで頷いた。
「数年前まで、〈
「そんなヤツが、なぜこんなことをしている」
「分からん」
ヴァシリは苦しげに答えた後で、
「親に恵まれなかった子でな。環境を変えてやれば、あるいはと考えた。真っ当な将来を望める兆しもあった。が、突然、行方をくらまし――挙句、道を踏み外しおって……」
ルセリアが、挙手などという大人しい仕草とともに、口を開く。
「恵まれなかった、ってどういう親だったの?」
「父親は反機関派に取り入ろうと、妻と二人の子に客を取らせておったのだ」
ルセリアはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
イナミも言葉の意味を察して押し黙る。警備局の犯罪調査書を流し読みしているときに、似たような文言を見たことがあった。
〈アグリゲート〉にも、娼婦や男娼は存在する。
しかし、こうした人々は『組合』に入り、権利侵害から保護されている。性感染症の蔓延を防ぐための定期検診も義務づけられているので、組織が一括管理しているのだ。
違法売春が警備局に摘発されるのはもちろんのこと、サシャ・メイの場合、児童搾取の被害者ということになる。
しかも、親が子を利用するという、倫理観の欠片もない行為だ。
イナミはふと思い立って尋ねる。
「父親は刑務所か? 復讐の可能性を考えると、監視する必要がある」
「死んだよ。とうの昔にな」
「……〈
「確かに儂は粛清を命じた」
ヴァシリはきっぱりと言い放った。
「が、死は部下によるものではない。ミダス体の餌食となったのだ」
「どこかで巻き込まれたのか」
「因果応報かもしれぬな。妻が潜伏体となっておった。暴力を振るわれ、死に瀕したとき、細胞が活動を始めたと聞いておる」
ということは、サシャ・メイは同時に両親を失ったということになる。
イナミは憐みを抱く。しかし、だからといって、犯罪を許そうとはならない。
「なぜ、サシャ・メイは反機関活動を? 父親の意志を継いだのか」
「そのような節はなかった。この
ヴァシリはかぶりを振って、呻くように低く呟く。
「孤児となった二人の子を保護し、育てたのは儂だ。此度は儂の子が犯した罪。儂の不始末でもある。特務官よ、手を煩わせることを申し訳なく思う」
と、〈
その重さに、ルセリアは動揺して、両手を胸の高さに持ち上げた。
「あ、あたしたちに謝られても……悪いことしてるのは本人の責任なんだし……」
イナミも同感だ。
子供が暴れているならともかく、サシャ・メイは成人男性だ。能力を、確信的に、犯罪へと駆り立てている。〈
とにかくこれで、〈デウカリオン機関〉と〈
イナミは話を聞いた上で抱いた疑問を、ヴァシリに尋ねる。
「さっきから『二人の子』、と言っているが――もう一人はどこにいるんだ?」
「ここに」
答えたのは、ベルタだった。
「改めて。私の名前は、ベルタ・メイ。サシャ・メイは双子の兄よ」
続けて、ヴァシリが険しい表情で告げる。
「〈
ルセリアがますます困惑した様子で眉をひそめる。
「刺客って――その人に家族を殺させる気なの!?」
「私から師父に名乗り出たこと」
ベルタは顔に感情を滲ませない。ただ、鉄の意志を秘めた眼差しをこちらに寄せる。
「〈
ルセリアは衝撃を受けた様子で、ぎゅっと握り締めた両手を、だらりと下ろした。
――複雑な追跡だ。
機関としては、自分たちの法に
一方、〈
イナミは黙ってヴァシリを見た。
――その時が来たら、こちらはこちらで動く。
意図が通じたか、老人は首肯で応じるのだった。
〇
ベルタとは共有データスペース上のホットラインで連携を取ることになった。
これでサシャ・メイの動向が掴め次第、それぞれの追跡者が一斉に動き出すことになる。猟犬が合図とともに解き放たれるのだ。大きな騒ぎになるだろう。
邸宅の門を出たところで、ルセリアは今まで我慢していたかのように重い吐息を洩らした。
「これでいいのかしら」
「『これで』? まだ協力し合うことに不満が?」
「じゃなくて。ヴァシリにとっては子供、ベルタは兄。なのに、あんなあっさりしてて……」
「お前まだ、元の
ルセリアは立ち止まり、じっと足元を見つめる。
「分かんない。あたしはできれば、そういうのはやだなって……」
最後のほうは消え入るような小さい声だった。
イナミはルセリアの思うことを否定しようとは思わない。そのとおりだとも思う。
だが――思い返すのは、モーリス・スミスの斬死体だ。
迷いのない剣の一閃。綺麗すぎる傷跡。サシャ・メイにとっては人も物も変わらないのではないか。そんな男に、果たして言葉は通じるのか。
それぞれ考え込んでいた二人は、申し合わせたように背後を振り返った。
邸宅から再び、
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