[2-5] 暗夜を行くがごとし
「まさか、貴様が
と、ヴァシリ・ヤンは言った。
何が『まさか』なのか。どんな理由で自分だけと会ったのか。イナミは警戒心を強める。
部屋の奥行きはさほどもない。〈
にもかかわらず、長机の向こうにいるヴァシリ・ヤンが、妙に遠い。そのくせ、存在感だけは間近に感じるのだった。
イナミは乾いた声で尋ねた。
「俺のことを知っているのか? わざわざ調べたのか。こんなただの末端構成員を」
「そうとも。得体の知れない移民が儂らの土地を踏み荒らすとも限らんからな」
ヴァシリは厳しくこちらを睨んだまま、表情を変えない。
疑問を持たれるのは当然だとも思う。
外骨格を形成する〈
前者は管理外技術の
これでただの末端だと言い張るのは無理がある。
しかし、相手が何者なのかと
ヴァシリ・ヤン。
機関のデータバンクによれば、年齢は百歳を超えているとある。
それこそ各地の移民が集まって〈アグリゲート〉となり、〈デウカリオン機関〉が発足したその時を、幼い頃に体験していることになる。
医療技術が復元されてなお、平均寿命が七十歳ほどであることを
その秘密は、彼のシンギュラリティにあるらしい。
肉体の気脈をコントロールする能力とあったが、
――『気脈』というのは、血管、それとも神経か?
イナミには全く理解できない記述だった。
じりじりとした沈黙の中で、ヴァシリが長机を指先で叩いた。イナミはその硬い音に反応して、視線を手元に向ける。
ふん、とヴァシリは息を抜く。
「貴様の気はなっとらんな」
「……『気』?」
またも、その意味不明な単語だ。
気を遣う、気をつける、気分、雰囲気、空気、気体――
自分の警戒心が伝わっている、という意味だろうか。すでに手遅れだが、イナミはポーカーフェイスを意識する。
「……俺は、あなたの意図が分からない。なぜ俺だけに話を? ルセリアを外した理由はなんだ。教えてほしい」
「ふむ、覆い隠すのではなく、さらけ出すか」
「ここには、あやふやな問答をしに来たんじゃない。それに、俺はもう移民でもない。機関の特務官だ」
「だが、貴様はナノマシン体だ」
イナミは下ろしていた腕を、その指先を、ぴくりと震わせる。
ヴァシリはさらに、事実を淡々と告げるように続けた。
「貴様とミダス体、何が異なるというのか。儂にはそれが見えん。人に牙を剥くことはありえん、という保証が貴様にはあるのか」
ヴァシリ・ヤンは素性を知っている。データバンクやメディア、全てを漁ったところで知りようのない情報を掴んでいるのだ。
なぜ、どうやって、この老人が?
問い詰めたくなるのをぐっと堪えて、イナミは自然と答えていた。
「保証なんてない」
「ほう」
「俺が『俺』でいられる理由を突き止められる科学者は、もう死んだ。だけど今、俺が『俺』であることに変わりはない。だから、俺にできることを行動し続けるだけだ」
「儂ら人間には、その身の危険性を無視しろ、と?」
「逆に問うが、シンギュラリティにだって危険性はある。あなた自身、能力者のはずだ。それについてはどう考える」
「論点が違うな。
「だから、俺も排除されるべきだと?」
「そうするべきでない理由を提示できないのであれば、な」
イナミは一拍の間を置いて、返事をする。
「太古の人間はなぜ火を受け入れた。危険である一方で、有用だと知ったからだろう。言ったはずだ。俺は行動し続ける。それしか……示す方法を知らない。見ていろとしか言えない」
「暗夜を行くがごとし、だな。道を踏み外さぬとも限らんぞ」
「一人で生きているワケじゃない。かつて俺の身体を作ってくれた人間と、ここで俺を受け入れてくれた人間に、報いたいと思っている」
迷わずに答えることができた、と思う。
ヴァシリの言う『意志』の部分で、嘘や偽り、躊躇を見せてはならないし、今さら見せようとも思わなかった。
ヴァシリは「ふうむ」と唸り、改めての観察を始める。
居心地の悪さを断ち切るために、イナミは先ほど抱いた疑問を口にした。
「どこで、俺がナノマシン体だと?」
「貴様の情報はジヴァジーンから伝え聞いておったよ」
「なに?」
ジヴァジーン。クオノにとっての父親。
社会から姿をくらました男と接触しているなど、イナミには寝耳に水だった。
それどころか、ヴァシリは次なる質問を平然と繰り出すのだった。
「あの娘、クオノは息災かね」
イナミは我を忘れ、長机に両手をつき、大きく身を乗り出す。
「なぜ、その名前を!」
ジヴァジーンがクオノの存在までも外部に洩らしたのか。ジヴァジーンと〈
いや、そうではない。
この老人は最初にこう言った。
『まさか、貴様が儂の前に現れる日が来ようとはな』
自分とは会うことがないとでも思っていたような発言だ。
そもそも、ジヴァジーンが情報を漏洩した、という認識が間違いなのでは?
イナミは地上での
ジヴァジーンたち第二分室がクオノを保護。脳機能拡張の恩恵を得た実験体と判明。その力の大きさから、七賢人が処分を決定。
そして、表向きにはクオノは死んだことになった。
ただしジヴァジーンたち第二分室は、秘密裏に命令を受け、クオノを助けている。
その命令は、誰が?
評議会の決定に背いた賢人がいたはずなのだ。
その者は、今――
イナミは、ヴァシリがなぜ自分一人を部屋に通したのか、その理由を悟った。
「あなたは……」
〈
自分とクオノを再び引き合わせてくれた、大恩ある人である。
だからといって、必ずしも味方というわけではない。
目の前にいる男は、そういうバランスの上に立つ者なのだ。
「クオノは元気だ。ジヴァジーンのおかげで、健康に成長している。今は自分の務めを果たそうと頑張っているよ。俺なんかよりずっと立派で、大人だ」
「それは
「……そうだったのか」
「貴様はナノマシン体ゆえ、そのような苦労も知らぬのだろうな」
「ぐ……」
いきなりの飛び道具じみた
ヴァシリは、にい、と口の片端を持ち上げた。
「貴様の名を初めに聞いたのは、あの娘からだ。十一年も経て、こうして
「……生憎だったな、生きてて」
「はっ、まあよいわ」
ヴァシリが長机の表面に指を滑らせると、白い光が浮かび上がった。木製と見せかけて、内部に機械が内蔵されていたのだ。
スリープ状態にあった
「今は貴様よりもっと重い厄介事がある。もう一人の特務官を呼び、本題に入るとしよう」
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