[2-2] 儂の前に現れる日が来ようとは
「あのー、ごめんなさーい」
弦楽器の音が止んだ。
ルセリアは反応があったことに安堵の息をついて、敷地内へと身を乗り出した。
「〈デウカリオン機関〉の者だけどー、ちょっといいかしらー」
さすがのルセリアも、ずかずかと玄関まで行くような真似はしなかった。
しばらく待つと、玄関口の扉がゆっくりと開いた。セキュリティが発達したこの時代で、レトロな木製。イナミは、この地区だけ時間の流れが遅れているのではないか、と半ば本気で疑う。
現れたのは、キツネの耳を生やした、金髪の美女である。
環境に大打撃を与えた〈大崩落〉以来、人類は突然変異的に遺伝子を分化させた。哺乳類動物の特徴や形質を持つ個体が生まれるようになったのだ。
彼女の耳は主に金色、先端部は黒色の短い毛に覆われ、ぴんと尖るように立っている。こちらを向いてひくひくと動く様子が、まるでアンテナのようだ。
東ヨーロッパ人系とアジア人系を合わせた顔立ちで、黄水晶の瞳は物憂げだ。
年齢は、イナミの肉体年齢と同じ、二十歳前後だろうか。
彼女の着ている白いドレスはスリットが深く、金色の刺繍が派手で見事だった。髪と髭の生えた大蛇、いわゆる『龍』である。
マンダリンドレス、あるいは
スリットからは、引き締まった足と、スパッツ型のコンプレッションスーツを覗かせている。足腰を補強する機能を持つ強化服だ。
それで、イナミは彼女がただの使用人ではないと確信を抱いた。
女性は門まで歩いてきて、改めてイナミたちを見比べた。感情の見えない目つきだ。
「〈デウカリオン機関〉……と聞こえたけど」
ルセリアはリストデバイスから身分証を投影し、改めて名乗った。
「〈デウカリオン機関〉特務部所属、ルセリア・イクタスよ」
一瞬の静寂があった。
眉をひそめたルセリアがイナミの脇腹を肘でつつく。
イナミは我に返って、自分も身分を明らかにした。
「同所属、イナミ・ミカナギだ」
「七賢人の命を受けて、お伺いに来たの。話はそちらにも通ってると思うけど……えっと、あなたは?」
女性は静かにまばたきをして、
「ベルタ・メイ」
すっと背を向けた。
「少し待つように」
邸宅へ戻るベルタの
彼女が屋内に消えた後で、ルセリアが、軽く寄りかかるように身体を預けてきた。
「さっきから何を見てるのかしら」
「武器は携帯していないようだ」
もっと違う話題を振っていたつもりだったらしい。ルセリアは目を丸くし、声を潜めた。
「武器? あの人が?」
「妙な感じだった。警戒していないように見えて、俺たちのどちらかが動いたらすぐ制圧できるような立ち方、力の抜き方だった」
「あたしはよく分からなかったけど……」
「お前風に言うと、ナノマシン体の勘だ」
「ふうん? 勘違いじゃないといいけどね。ほら、あの人、すっごく綺麗だったし、それでその、びっくりしたとか」
「安心しろ。お前が危惧しているようなことはない」
ルセリアが慌てた様子で距離を取る。
「は、はあ? あたしが何を心配してるって?」
「……任務遂行に悪影響はない、と言いたかったんだが、他に何か?」
「そ、そりゃそーでしょーよ」
などと話しているうちに、ベルタが戻ってきた。
彼女は、なぜかイナミのほうだけを見て、口を開く。
「師父がお会いになられるそう」
「シフ?」
思わず聞き返すイナミに、ルセリアが小声で囁いた。
「〈
「初耳だな。資料にはなかった」
「
ルセリアがよそ向けのスマイルで前に出ようとしたときだった。
ベルタは身体の向きを変え、無表情でその行く手を遮る。
「師父はイナミ・ミカナギのみを通すようにと仰った」
「えっと……あたしはダメってこと? なんで?」
「理由は伺っていない」
「それじゃ納得できないんだけど」
ルセリアは早くも表情を硬化させ、挑むように腕を組んだ。比較的には背が低いので、顔をやや上向きにして睨んでいる。
ベルタのほうは相手にしていない様子だ。だからこそ、この状況が恐ろしい。
イナミは同僚の肩に手を置いて
「ここでは勝手はできない、だろう? 従おう」
「何よ。あたしはここで待ちぼうけ?」
「話が済んだらすぐに戻ってくるさ」
「……分かったわ」
ルセリアは不機嫌顔ながらも、大人しく引き下がった。
ベルタのほうはにこりともせず、変わらぬ調子で告げる。
「では、ついてきなさい」
「了解」
イナミは恨めしそうな視線を背中に感じながら、敷地へと足を踏み入れた。
伝統的な庭園について、カザネの故郷、日本の物ならば、フォトアーカイブで鑑賞したことがある。それとの違いを思い返しながら、周りを見る。
邸宅までは石畳の道が続いている。
こだわりでもあるのか、左右に並んだ灯篭は飾りではなく、火を使った照明器具だった。火袋には油の黒ずんだ汚れが残っている。これもプラント製のオイルではなく、自前を用いているのだろう。
凍りついてしまうので、池はない。寒冷気候に適応した広葉樹が植えられている。地面に広がる黄色い絨毯は、その落葉だった。
二階建ての邸宅は門構えこそ立派なれど、特別豪勢な造りではない。慎ましやかな暮らしを送っているのだろうか。
ベルタが玄関の扉を引き、イナミを中へと
土足のまま上がるのは、他の地区の建物と変わらない。
やはり内装も質素で、その中に立つベルタの
廊下では、スキャナーの走査を感じた。金属探知はもちろん、体内に埋め込んだ爆弾をも探る装置だ。イナミはナノマシン体といえども、別に金属生命体ではない。スキャナーには生身の人間として映っているだろう。
何度目かの角を曲がったところで、それまでの部屋の出入り口とは異なる、大きな両開きの扉が目の前に現れた。
ベルタは顔を寄せて静かに告げる。
「師父、連れて参りました」
返ってきた声は、
「入るがよい」
張りのある老人男性のものだった。
イナミは思わず腹の辺りに手を当てる。扉越しに
ベルタは涼しい顔を全く崩していない。扉をそっと開け、中へ入れと目で示す。
イナミはぎこちなく頷き、慎重に足を踏み入れた。
「失礼する」
部屋には、多人数が腰かけられるような木製の長机と椅子が置いてあった。ただ切り出した木材を組み立てているのではなく、精妙な彫刻が施されている。
天井の照明には紙の傘が被せられている。マーケットの紙袋に使用されている分厚い物ではなく、光を透かす薄い紙だ。
部屋を照らす光はそのままに、天井には龍の絵が投影されていた。太古の投影技術である。
どことなく、〈セントラルタワー〉最上層にある七賢人評議会室に雰囲気が似ている。
そうした内装の美しさは思わず息を呑むほどだが――
イナミは、長机の一番奥に座る小柄な老人を注視する。
険しい眼光、オールバックの短い白髪、黒色の
事前資料で顔は知っていたが、
衰えのない威圧感は、さながら死線をいくつも潜り抜け、そのたびに牙を研ぎ澄ましてきたオオカミを連想させる。隙を見せれば、喉笛を食い千切られるだろう。
人でありながら、生物的限界を超越した者。
――これが、ヴァシリ・ヤン。〈
場に呑まれていたイナミは、背後で扉が閉まる音に不意を打たれて振り返る。ベルタが外からイナミを閉じ込めたのだ。それに気づかないほど周囲への注意力を失っていたことに、再度驚く。
しかも、外部との通信が遮断されていた。
ずっと『そば』にいてくれていたエメテルからの反応がない。
一対一の対峙。
改めて用心深く向き直るイナミに対し、ヴァシリは口元を歪ませた。
「イナミ・ミカナギ……まさか、貴様が
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