第3部 命散り易く、血は断ち難し
第1章 経路
[1-1] 這いつくばって
日没、古き良き時代のネオンを模した照明が灯り始める。
都市〈アグリゲート〉の繁華街では、二十世紀から二十一世紀の文化を模した物が親しまれていた。
現代の人々にとっては、一周回って新しい物と目に映るのである。
この時間、繁華街を出歩く市民の層ががらりと変わり始める。居酒屋や風俗が営業を始め、その客引きが表に出る頃だった。
ところが現在、人の姿はない。
恐ろしく閑散としている。
主だった通りは、警備局の車両が封鎖していた。
地図の上を、『敵性存在』を示す赤い光点が移動中。
横道を駆け、ビルとビルの細い隙間をすり抜け、そして転がり出るように、兵士たちの目の前に飛び出して――
「撃て!」
指揮官の号令とともに、構えられたマシンガンが一斉に火を噴く。
現れた『それ』は、ぼつぼつと音を立てながら、全身を穴だらけにされていく。着ていたオフィススーツはすでにぼろぼろだ。他の場所でも銃撃を受けたのだろう。
そう、銃撃を受けてなお、『それ』は生きていた。
血を撒き散らしながらも、爆ぜるように生まれた傷は、たちまち塞がってしまう。まるでセメントを流し込まれたかのように。
新人と思しき兵士が怯えを露わにし、クローズヘルムの内側で呻きを漏らした。
人は『それ』を、ミダス体と呼んでいる。
ミダス体が頭と胸を防御しながら突進してくる。
迎え撃つは、
が、ミダス体は悠々とそれを跳び上がって避けた。
そのまま兵士たちの頭上を越えて、車両の屋根に着地。衝撃でみしみしと揺れる足場にバランスを崩すことなく、すっと立ち上がる。
「しまった……!」
兵士たちの動揺を嘲笑うように、ミダス体は顔を歪め、その向こうへと跳び下りていった。
ヒトのみを虐殺する生物が、なぜ兵士たちを無視したのか。
地図を再確認した指揮官が通信機に怒鳴る。
「逃げ遅れた市民がいるぞ! 特務官を至急こっちに――」
彼らは、さらに頭上、建物の屋上から屋上へと跳び移るもう一つの影に気づかない。
後頭部から尾のような器官をなびかせる異形の生物。
漆黒の外骨格に瞬く、青白い光を。
〇
薄暗い路地裏に、逃げ惑うハイヒールの音が反響する。
一般市民の女性だ。内務局勤めで、オフィスを出た矢先だった。
初めはリストデバイスから伝達される避難指示に従っていたが、いつまでも追ってくる気配にパニックを起こし、ついには経路を無視したのだ。
今、その背中を、ミダス体が遠目に補足する。
このミダス体は変異したばかりで、集積思念体との情報共有はまだだった。
つまりは単なる欲求――ヒトへの殺意、変異時に消耗したエネルギーの補給、それだけに留まらない執着心に、突き動かされているのである。
宿主の記憶によれば、女は恋人だった。婚約も済ませていた。
でありながら、宿主は他の女に手を出した。望まぬ婚約だったわけではない。ただ単に、性欲に従っただけだ。
それで相手が許してくれるはずがない。
破局は必定だ。
にもかかわらず、宿主は女と添い遂げたいという未練を残していた。この期に及んで、添い遂げるべきとさえ思っていた。
ミダス体となった今、その執着心を晴らす術は簡単だった。
女を『自分』にしてしまえばいい。
女の記憶を吸い上げ、自身の記憶を捧げ、まとめて集積思念体の一部と化せばいいのだ。
他者が存在しなければ、惑わされることも、
波風の立たない、均一化された世界――
ミダス体はせらせらと笑い声を発した。『視認した標的を攻撃する』の意を伝える音声通信だ。受信者はいないが、本能的に『狩り』を宣言したのである。
ただ一人、女がその声を聞いた。
女は上半身だけで振り返ろうとしたばっかりに、足をもつれさせ、しまいには挫いた。受け身の心得もなく無様に転倒する。水に溺れているかのように喘ぎ、もがきながら、顔だけはこちらに向けていた。
恐怖に支配され、表情をひどく引きつらせている。
かわいそうに。
一つになってしまえば、怯えなど消え失せてしまうのに。
ミダス体は、腕を投げ出すようなフォームで走って近づき、女へと襲いかかろうとした。
後少しで手が届くところだった。
しかし、その手が女に触れることはなかった。
突然、女の前で、空間が裂けた。
雛が卵を突き破るように、手が、足が、胴体が、虚空から現れる。後頭部から尾を引くように、シロヘビ柄の太いケーブルがずるりと抜けた。
現れたのは、漆黒の外骨格生物。
ミダス体の肉体を構成するナノマシンの一つ一つが、その外骨格生物を知っていた。
同胞にして、ヒトを守ろうとする裏切り者。
実験体一七三号――
「イナミぃいぃィッ!」
奇声を発するミダス体に対し、顔のない外骨格生物は青白い光の紋様を身体中に駆け巡らせた。
ミダス体は伸ばした手で、そのままイナミ・ミカナギの頭を貫こうとする。
が、それよりも速く、固く握りしめられた拳がミダス体の胸部に届いていた。
単純な殴打。暴力。
ミダス体は背中から倒れ、舗装された地面をざりざりと滑る。
素早く起き上がろうとしたところに、イナミが跳びかかって馬乗りになる。潰そうとするように、頭を押さえつけてくる。
イナミの身体がさらに強い輝きを灯した。
「答えろ! 〈ザトウ号〉はどこに落ちた! お前たちはどこから来た!」
――〈ザトウ号〉。
ナノマシンに刻まれた、懐かしい船の名だ。
この実験体は生まれ故郷を求めているらしい。
ミダス体は口を開き、唾液の糸を引かせながら、イナミに向かって吠えた。
「愚か者らしく地に這いつくばって探し続けるがいい!」
「……這いつくばっているのはお前だって同じだろうが!」
イナミを中心に渦巻いた空気が、ぱちぱちと破裂音を奏でる。
刹那、生体電流が押し寄せてきた。
雷光。実験体が処分されるときに見るという閃き。
その輝きに、意識が焼き尽くされる。
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