[1-2] 俺の役目
取引現場の屋上で、白いクロークが風にはためく。
波打つ〈
クロークを纏っているのは、黒髪の青年だ。
細身ながらも鍛えられた肉体に、
彼は床に手をつき、
青年の名は、イナミ・ミカナギ。
機関特務部第九分室に所属する、特務官である。
タクティカルグラスの骨伝導スピーカーを介して、幼さを残した少女の声が囁く。
オペレーターのエメテル・アルファだ。
《一階車庫の乗用車に一人、三階フロアに四人。後者のうち、一人は遺物の受け渡し人と推測できます》
「像がぶれて見えるヤツか?」
《その人の周りだけ音の伝播が歪められてるんです。ジャミング装置を携帯してるか、もしくはシンギュラリティですね》
それは、人類が〈大崩落〉後に獲得した、超常現象を起こす力だ。
万能の力ではない。
一つは、能力を発動させるのに見合った対価を支払わなければならないこと。
もう一つは、能力の及ぶ範囲が、視界内の一定距離、もしくは自身の肉体に限られていることである。
この特性から、シンギュラリティは認知能力と関係があると考えられている。
なんにせよ、シンギュラリティ能力者が相手となれば、拘束も一筋縄ではいかない。
《類似の現象を起こす能力は、数が多すぎて絞り込めません。もうちょっとデータがあれば特定できるかもですが……》
彼女は〈
イナミは悔しがる彼女に「いいさ」と答える。
「俺が直接確認する」
《気をつけて、イナミ》
別の少女が会話に加わる。同僚のルセリア・イクタスである。
《人相手にためらわないヤツは脅威よ》
「交戦規定では確か、能力者戦においては殺傷もやむなし、だったな」
《危険なポジションを任せちゃったけど――》
「それこそ俺の役目だろう、ルーシー」
《……頼もしいわね。こっちは移動完了。正面は任せて》
「俺も用意はできている。いつでも行けるぞ、エメ」
エメテルは《それでは……》と前置きをした。
一呼吸の間を置いて、指示が下される。
《突入開始ですっ!》
イナミは立ち上がりながら駆け出し、屋上の手すりを乗り越えた。
ベルトに装着したワイヤーフックを鉄棒にかけ、そのまま飛び下りる。
吊られた体の重さで、リールがきゅるきゅると回転する。設定した高さに達したところでそれ以上伸びなくなり、イナミの身体は振り子のようにビルの窓へと吸い寄せられた。
ガラスを破り、三階フロアへと突入。
リールを外しながら身体を起こしたイナミは、事態を把握できずに立ち尽くす黒服の男たちと全く身動ぎしない白面の男を、交互に確認する。
――なんだ、こいつ。
イナミは後者に対して本能的な警戒を抱いた。両手は下ろしているが、こちらを正面に見据えている。まるで突入が事前に知られていたようだ。
一方、黒服たちが錯乱し、サブマシンガンを構える。
「う、らあッ!」
喚き声を掻き消す勢いで、銃口から火が噴いた。
短い銃身が発射の反動で激しく振動する。狙いが全くつかない、乱れ撃ちである。
イナミは、迫ってくる銃弾の嵐を視界に捉えながらも、避けようとはしない。
肉体を『操作』。黒い液体金属がコンプレッションスーツの繊維から染み出て、衣服ごと全身を包み込むように保護する。
押し寄せた弾丸が液体金属に激突して砕け散った。
その赤い火花の下から、青白い光がじんわりと灯る。
「ひ……っ」
男たちが呻き声を上げる。
硬化した金属が外骨格を形成し、イナミを機械生物じみた異形に変身させたのだ。
目や口のないフェイスマスクと、後頭部からずるりと生えたシロヘビ柄のケーブル。
表皮に輝くパルス光の紋様は、呼吸リズムに合わせて明滅していた。
これがイナミの持つ力の一つ、〈
「ば、化け物……!?」
否定はしない。
表向きは、管理外技術の『液体金属』を所持していることになっているが――
この肉体はナノマシン細胞の群体のようなものであり、イナミは人の姿をした生物兵器なのである。
根本の技術は、人類の敵であるミダス体と同じ、宇宙実験施設船〈ザトウ号〉で生み出されたものだ。
それゆえ、事実は機密とされている。
『化け物』
そう呼ばれるのも無理はない。
が、この身体は、人類が遠宇宙に到達すべく開発された肉体だ。
嫌悪も、しない。
男たちに一瞬で迫り、片手で軽く触れる。
ナノマシンの起こした生体電流が、スタンガンのごとく男たちを麻痺させる。
「あぎっ」
感電対策などしているわけがない男たちは、次々と気を失って倒れた。
――大した脅威ではないな。
イナミは放電で乱れた呼吸を整える。シンギュラリティではないが、やはりエネルギーを消耗する攻撃方法だった。
吐いた息は、背中から『ぷし』と排出される。変異は体内構造にも影響を及ぼし、気管支を枝分かれさせているのだ。
帯びた熱で白く染まった息を纏わりつかせながら、イナミは残った一人を探す――
〇
一階車庫のシャッターが開く。
上の騒ぎを聞きつけた運転手が、仲間を見捨てて逃げようとしたのだろう。
だが、その正面にはルセリア・イクタスが仁王立ちで待ち受けていた。
サイドテールに結ったブルネットの髪。気の強そうな琥珀色の瞳。
イナミと同じ白いクロークと、女性用のコンプレッションスーツを着用している。
肩、胸、
ルセリアは手にしたハンドガンを容赦なくセダンに向けて発砲した。
フロントガラスが割れ、誰もいない助手席が爆ぜる。威嚇射撃のつもりだった。
しかし、運転手は身体を隠そうとしながらも、アクセルペダルを強く踏む。
セダンの突進を、ルセリアは身体を投げ出すようにして回避した。スーツの筋力増強のおかげで、動きは通常よりも素早い。ネコ科動物のような身のこなしである。
起き上がった彼女は、
「〈引っかく〉!」
そう叫んだ。
すると路面に、短い氷の剣山が生成される。
待ち受ける無数の爪を、セダンが思い切り踏みつけた。傷をつけられたタイヤがたちまちパンクする。
コントロールを失った車はそのままスピンし、消火栓に激突して停止した。根元から破損してしまったらしく、水が勢いよく噴き出して車を濡らした。
ルセリアは「ふう」と息をつく。
「大人しく捕まってくれればいいのに」
彼女のシンギュラリティ、〈
対生物戦闘において圧倒的な殲滅力を持つが、対物破壊力は今一つである。それでも弱点を突けばこんな風になんとかなる。
だが、それはそれとして、
《……ルーシーさん。内務局からの苦情、覚悟してくださいね》
壊れた消火栓のことである。
エメテルの小言に、ルセリアは悪びれもせずに返す。
「ただの事故よ。あたしのせいじゃないわ」
《それで納得してくれると思いますかっ!?》
「ビルに突っ込まなかっただけでも運がよかったと思うことね」
《それはそうですけど……あ、運転手さんは無事のようですよ》
言い合いながらも、エメテルはしっかり車内の様子を調べてくれていた。
ルセリアはハンドガンを構え、運転席へと近づく。
「降りなさい!」
運転手はのろのろと顔を上げ、茫然とこちらを見つめる。シートとエアバッグに挟まれて身動きが取れないようだ。
ルセリアは片手でドアを開けようとしたが、衝突の際にひしゃげていて無理だった。
銃把で窓に残ったガラス片を取り除き、運転手を強引に引きずり出す。そうしている間にも消火栓の水はルセリアと男に降り注いでいた。
ようやく外に出た男は、琥珀色の瞳と銃口に射竦められ、渋々と地面へと伏せた。
「特務官の魔女め……」
「そう言うあんたは反機関派のテロリストじゃない。人を悪く言える立場じゃないわよ」
「特権階級の犬風情が――」
「はいはい、話は警備局の担当者が聞いてくれるから」
全く相手にせず手錠で拘束するルセリアに、男は亡者のような唸り声を上げた。
〇
イナミが他の男を倒している間に、白面の男は大きな金属ケースを持って、窓から飛び下りようとしていた。
「待て!」
捕まえようと手を伸ばす。
その目前で、白面の男が窓枠を軽く蹴って離れた。
ただそれだけの動作だったにもかかわらず、尋常ではない力が加わったかのように、窓から壁、そして床へと亀裂が走る。
《イナミさん! 崩落注意!》
その警告があってすぐ、フロアの床が一気に抜けた。
イナミは大穴に身を投じる寸前で立ち止まり、宙を舞う男を見上げる。
白面の男は路地裏から逃げようとしているのではない。
常人離れした脚力で、向かいのビルに飛び移ろうとしているのだ。
ならば、こちらも跳躍するまでだ。
男の行く手となる空間を、強く視認する。
胸の奥では虚空が生まれ、内側から肉体を貪り尽くし――
次の瞬間、イナミは宙にいる白面の男の正面に移動していた。
シンギュラリティ〈
正確にはシンギュラリティではない。どちらかといえば
それゆえ、相手にとっても予想だにしない事態だったはずだ。
「……ほう」
白面の男は膝を上げ、イナミの顔面に叩きつけようとした。
それを見たイナミは右腕を上げてガードする。
打撃を受け止め、地面に叩き落とし、それから捕縛する。これがイナミのプランだった。
しかし、その膝打ちは単なる蹴りではなかった。
ライフル弾すら通さない外骨格の内側まで、衝撃が浸透する。腕の骨どころか細胞組織までもが破壊された。
――シンギュラリティ!
ぐらりとバランスを崩すイナミを足蹴に、白面の男は向かいのビルへと飛び去った。
その影を、イナミは落下しながら見送って――
地面に叩きつけられる。
目の前が一瞬真っ白になった。が、それで意識を失うほど、やわな身体ではない。無事な左手で身体を支える。
男の姿はもう見えなくなっていた。
「すまない、一人逃がした」
《こっちで追跡します。それより――》
《イナミ、負傷したの?》
エメテルの横から、別の少女が鈴の鳴るような可憐な声で割り込んできた。
オフィスで任務遂行の様子を観ていたのだろうか。イナミは軽い調子で答える。
「平気だ、クオノ。大したことはない」
《でも……》
「イナミ!」
今度は、表通りからルセリアが駆けつけてきた。急いだのか、呼吸を乱してやや苦しげである。
彼女は、だらんと垂れたイナミの右腕を見て、「う……」と小さく呻いた。
腕は破裂していた。鮮血が勢いよく流れている。
地面に落ちた滴はぱちぱちと爆ぜた。ナノマシンに組み込まれた自殺プログラムが働いているのだ。
「これ……だ、大丈夫なの!?」
イナミはかぶりを振った。
ぎりぎり形を留めている『腕だったもの』が肩からぶら下がっている状態だ。いくら再生能力を持つナノマシン体でも、部位を丸々作り直すのは一苦労である。
「あの男のシンギュラリティ、音や空気に作用するものじゃない。恐らく、対象に密着して発動するタイプの能力――恐らくな」
「……でもよかった、致命傷じゃなくて」
「俺がこっち担当で幸いだった」
「そうだけど……でも危険な目に遭われるのも困る。その、あたしにも責任があるし」
「イレギュラーな事態だった、というだけだ」
ルセリアは俯き加減に「ん、そうね」と応じた。
二人で話している間に、周囲が騒がしくなってきた。
特務部との共同任務で待機していた警備局が、拘束した男たちを逮捕しに来たのだ。
エメテルが操作する虫型偵察機〈ハニービー〉が白面の男に撃墜されたのは、それからおよそ五分後のことだった。
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