[5-4] 人間の敵
意識の奥底にこびりついた恐怖が、イナミに幾度となく悪夢を見せてきた。
実験体検査室の壁を拳で殴る。
砕けた骨が皮膚を突き破り、千切れた血管から鮮血が噴き出た。
白い部屋は、いつしか黒ずんだ赤色に染め上げられていた。
イナミは愕然と自分の手を見下ろす。
「どうなって……」
血管は繋がり、骨は接合され、皮膚の裂傷も塞がっていく。
端末から盗み見た光景と同じだ。
映像では、自分そっくりの男が容赦のない銃撃を受けていた。
それでも倒れることなく、再生が進むにつれて、『肉の塊』としか言いようがない姿へと変貌していく。
最後はディスチャージャーによって焼かれ、黒ずんだ死体となるのだった。
なぜ、男は殺されなければならなかったのか。
自分も同じ末路を辿るのか。
イナミは恐怖に取り憑かれ、ひたすら壁を殴り続けた。
再生能力なんてものが備わっていなければ、『肉の塊』になることはないし、平穏な日々を過ごすこともできる。
なのに、自分の意志とは無関係に、この手は復元されてしまう。
毎日の検査は、この身体を調べるためだった。
そうとは知らない自分を、カザネたちは弄んでいたのだ。
なんなんだ。
自分は、カザネたちは、〈ザトウ号〉は。
「あ、あぁ、ァア!」
これでどうだと浮かべた会心の笑みは、しかし、すぐに凍りついた。
粘り気を増した黒い血がひしゃげた手を覆い、元の形へと矯正してしまったのだ。
粘液はさらに手首から腕へと這い上がってくる。これ以上傷をつけられないように保護するつもりか。
同時に、イナミの心中に絶望が広がっていく。
自分は人間ではない。
人型の怪物だった。
腕以外への自傷をも防ぐように、薄い皮膜と硬い角質が全身を覆ったときだった。
ドアがスライドすると同時に、
「イナミ」
彼女の声が、粘液に塞がれているはずの『耳』に飛び込んできた。
濁りのある『目』が、白衣、黒髪、黒縁眼鏡の女性を認める。
カザネ・ミカナギが、検査室に足を踏み入れたのだ。
彼女の背後には、兵士が控えている。EMIライフルを所持していた。
検査台を回り込もうとする彼女とは反対に、イナミは部屋の隅へと後ずさる。
拒絶と理解したカザネは、疲れ切った様子でかぶりを振った。
「私たちの研究については、いずれ話すつもりだったわ」
「なら、今すぐ教えろ! 俺を使って、何をしようとしていたんだ!?」
「アセンブラーナノマシン。人体をナノマシン体に作り変える技術を試していたの」
イナミは半信半疑で自分の手を見下ろす。この皮膜はどう見ても生物的な突然変異としか思えなかった。
「ナノマシンは特別な技術ではないわ。私たちの体内でも活動しているし、重病や重傷に対する治療専用の物もある」
「特別な技術じゃないのなら、もうひとりの『俺』が殺されたのはなぜだ!」
「見たのね、アレを」
カザネは今まで彼女が見てきた物を思い出すように、目を伏せた。
「……ナノマシン体には問題がある。初期は安定していても、しばらく経つとナノマシンの異常増殖が始まる。元の形から大きくかけ離れた別の『何か』に変異してしまうの」
「そんな物を俺に使ったのか!?」
「私たちの研究は、ナノマシンの改良よ」
カザネがずいと一歩を踏み出す。
イナミには、彼女が自分の命をなんとも思っていないように見えた。
それどころか、変異を間近で観察してやろうという、熱狂に浮かれた表情を隠しきれずにいるのだ。
「俺を処分したら、そのデータを次の俺に使うのか? 過去に俺たちがいたことをひた隠しにして!」
「落ち着いて、イナミ」
カザネは検査台の横に併設された器具台に手を伸ばす。
彼女が取ったのは、磁石で張りついた鏡だ。それを立てて、こちらに向ける。
ぬめりを帯びた、顔のない生物が映っている。
なぜそんなものを見せるのか。イナミは顔に手をかざし、視界を塞いだ。
「ちゃんと見て。あなたは今までの実験体と違うの」
「どこが!」
「暴走したナノマシンは生体エネルギーを枯渇させるまで増殖し続ける。だから、肉体は膨張後に静止、死滅へと至る。でも、あなたは逆。その皮で自分を守ってるみたい」
「俺の意志じゃない! 俺はこんな力、いらなかった!」
「わかって、イナミ。これは人類のためなのよ」
「そのためなら俺がどうなろうと知ったことじゃないって言うのか!?」
「ええ」
カザネはあっさりと頷いた。しかし、その眼差しは、先ほどの熱狂とは異なる真剣さを宿していた。
「だからと言って、あなたを使い捨ての実験体だなんて思ったことは一度もない。研究にとって個体差の比較は重要だけど――そういう意味でなくてもね。弁解はしないわ。これでも人でなしという自覚はあるのよ」
カザネが覚悟を決めていることなど、イナミにだって伝わっていた。
そうでなければ、単身、変異を起こした実験体のいる検査室に乗り込みはしないだろう。
できやしない。感情に任せ、カザネに拳を振るうなんて。
そうしたら最後、心までもが人間ではない『何か』へと変貌してしまう気がした。
では、なぜこんなにも、カザネに恐れを抱くのだろう。
それはきっと、自分と彼女が違う生き物なんだという事実を、否応にも突きつけられてしまったからだ。
もう戻れない。
欺瞞に満ちた、それでも平穏だった日々に――
「お前を信じることはできない」
「それでもいいわ。ただ、あなたの身体はあなたを守ろうとしている。それがどういうことかはちゃんと検査しないとわからないけど――」
彼女は鏡を置き、まっすぐにこちらを見上げる。
「あなたの身に起きていることを信じて。お願い。私にはそう言うしかできないの」
身に起きていること。
イナミはまだ生きている。
もうひとりの自分のように、醜い肉塊と化した後で焼かれはしていない。
だから――
《汝は人間ではない》
ドゥーベと名乗った白ずくめの大男が言い放つ。
検査室に似た、それでいてずっと広いドーム型の部屋に、イナミは素足で立っていた。
《採取した血液は熱暴走により蒸発した。後に残ったのは細胞の残骸だ。毛髪、皮膚を採取しても同様の現象が起きた。これら残骸を分析したところ、我々がミダス体と呼ぶナノマシン群の『死骸』と酷似する物と判明した》
イナミは拳を握り締めた。
白ずくめたちは自分を隔離するつもりだろう。
ところが、ドゥーベは思いがけない提案を口にした。
《この事実は、我らドゥーベとベネトナシュのみが知ること。汝が素性を隠し通すことを誓えるのであれば、〈アグリゲート〉に迎え入れよう》
「……どういうつもりだ」
《汝は人類が失いし叡智の結晶なのだ》
イナミは男の物言いに反感を覚えた。イナミの人格は無視され、ナノマシン体技術だけを尊重しているのだ。
相手は自分を手元に置こうとしているのか――しかし、利用するならお互い様だ。
意を決して、ドゥーベを睨む。
「クオノという子供を探している。年齢は三、四歳ほど。銀髪碧眼の少女だ」
白ずくめたちは仮面越しに目を合わせ、暗黙のうちに意志疎通を図った。
答えたのは、やはりドゥーベのほうだった。
《そのような者は――》
「お前が殺したんだ」
声に驚いて振り向く。
気がつくとそこは、死屍累々の〈ザトウ号〉船内通路だった。
黒い人影が血の川を踏み分け、こちらへと迫ってくる。
変異体ではない。
黒い外骨格を纏った生物だ。
青白いパルス光を放っている。後頭部から生やしたケーブルを揺らしていた。
「お前が殺したんだ。あの狭いポッドでひとりにして」
「違う! 敵がいたんだ! ああするしかなかった!」
否定する自分自身はどんな姿をしているのかわからない。
外骨格生物に襲われ、頭部を鷲掴みにされる。押し倒され、血の川に身体を沈められる。
自分は無力に喚くことしかできない。
「俺は守りたかったんだ!」
「お前は人殺しの生物兵器だ」
「俺は変異体とは違う!」
「お前は誰も守れない」
「俺は――」
「お前は――」
「ミダス体は殺すわ」
琥珀色の瞳の少女が言った。
「人間の敵だもの」
〇
イナミは無駄と知りつつも自分の顔を腕で守る。
腕に繋がったチューブが引っ張られ、点滴パックの調整弁が支柱にかつんと当たった。
「…………?」
何も起きない。
妙に静かだ。
イナミは恐る恐る腕を下ろす。
そこは真っ暗な部屋だった。どうやらベッドに寝かされているらしい。
身体を起こして周囲を探ると、簡素なデスクの上に置かれた眼鏡ケースとリストデバイスを見つけた。
「ここは……」
間違いない。特務部第九分室宿舎の、イナミに与えられた部屋だ。
無秩序な夢の世界ではなく、正真正銘の現実である。
上半身は裸にされていた。レーザーに焼かれた脇腹にそっと手を当ててみると、傷は跡形もなく完治していた。
点滴パックは栄養補給剤だ。
おかげで意識ははっきりとしている。イナミはベッドから立ち上がり、チューブの針を引き抜いた。
リストデバイスに触れ、時刻を見る。あれから十数時間も経っていた。
少女たちの姿は部屋にない。
逡巡の末、新しいインナーウェアに着替えたイナミは、部屋から外へと出た――
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