[4-6] 魂まで消えちゃう前に

 何か用だろうか。イナミがリビングに戻ると、冷たい風が室内に流れ込む。


 薄着の彼女は身体を震わせた。


「さぶ。風邪引くわよ」


「そういうのにはかからない」


「だからって、冷えないワケじゃないでしょ」


 と、ルセリアは湯気の立つマグカップをふたつ、持ち上げてみせた。


「お熱いココアはいかがかしら」


「すまない。淹れてくれたのか?」


「こういうときは、ありがと、でしょ」


「感謝する」


「……ちょっと硬いけど、まあ、オーケイってことにしましょ」


 カップはすでに熱を持っていた。にもかかわらず、イナミは無警戒にひと口。


「……熱いぞ」


「だから言ったじゃない」


 と、ルセリアに笑われてしまった。


 いい香りだ。

 ココアもだが、彼女の髪が、である。


 サイドテールに結っている髪を、今は下ろしている。ただそれだけなのに、勝気な印象が大人しく見えるので不思議だ。


 ルセリアは隣に立ち、ガラス戸越しに夜空を見上げる。


「お月見?」


「そんなところだ」


 などと応じつつ、イナミは今日初めて月を見た。

 半月である。望遠鏡を使えば、月面施設の遺跡が見えたかもしれない。


 ルセリアはそうと知らずに言った。


「きっと、クオノも同じ月を見てるわ」


「……だといいが」


「あたしはね」


 ルセリアは、ココアに息を吹きかけた。


「あんたがやろうとしてたこともわかる気がするのよ」


 イナミはゆっくりと振り向いた。


 彼女がマグカップに口をつける。白い器に唇の跡が残った。


「あたし、妹がいるの。特務官になったのは、あの子のため。だから、あんたたちみたいになったら、なんだってやるんだろうなって」


「……家族というのは、そういうものじゃないのか?」


 その問いかけに、ルセリアは今まで見たことのないような暗い微笑を浮かべた。


「三年前、パパとママ、あたしと妹の四人で食事に出かけたときのことよ。ミダス体に襲われたの」


 イナミは差し挟む言葉もなく、黙って耳を傾ける。


「現場はショッピングモールだった。マーケットとは違う、もっと大きな施設よ。だから、人も大勢いた。当然、パニックになったわ」


 ナノマシン群の増殖力は、密閉された空間と密集した餌食において最大限に発揮される。それはイナミも身をもってよく知っている。


「混乱に巻き込まれて、あたしひとりがみんなとはぐれた。デバイスでみんなの位置を確かめたら、一か所に留まってて――ミダス体に囲まれて身動き取れなくなったのね」


 彼女は「まあ、よくある話よ」と客観的につけ加えた。


「ママが元特務官だったし、あたしもシンギュラリティに目覚めてた。だから、希望はあるって助けに行ったの。今思うと、無謀にもほどがあるわね」


 笑みを浮かべてはいるが、声は凍えたように震えていた。


「駆けつけたとき、パパとママは血まみれになって倒れてた。妹はミダス体に襲われる寸前だったわ。そういう状況で、あたしがすべきことはひとつよね」


「敵を倒し、要救助者を守る」


「そう、守る。あの子に指一本だって触れさせやしない。そう思って、粉々にしてやった」


 後に続く「でも」という声で、震えがぴたりと止まった。


「終わりじゃなかった。パパとママにはまだ意識があった。変異は始まってて、苦しそうにあたしの名前を呼んでた。だから――」


 そこで、ルセリアは言葉を切り、熱を求めるようにココアを飲んだ。喉元が蠢く。


「後悔はしてないわ。殺したんじゃない。のよ。ミダス体に変わっていって、魂まで消えちゃう前に」


「……魂?」


「そ。魂。自分が自分だってわかるもの」


 それを聞いて、船員たちを屠ったときの生温かい感触が手に蘇った。


 彼らはもう自分が何者かもわからなくなっていたに違いない。では、あれは魂の抜け殻だったのか。


 イナミにはわからない。


 ルセリアは長く息をつき、平気を装おうとしてぎこちなく肩を竦めた。


「妹からは憎まれたわ。特務官になったら余計に嫌われて。今じゃもう、ほとんど会ってない」


 彼女はガラス戸から見える都市の景色を見つめた。その中のどこかに妹がいるとでもいうように。


 リビングの照明を受けて、横顔に儚げな陰影がつく。


 ルセリア・イクタスは十六歳の少女なのだ。

 どんなに気丈に振る舞ってみせても、社会に大人であることを強いられても、所詮はに過ぎない。


 だから、路地裏でイナミに押さえつけられたときも――


『化け物にするくらいなら殺して!』


 イナミはそういう人間を相手に戦っていたのだ。

 何も知らず。誰もが敵だと思い込んで。


「……それでも、妹のために戦うのか?」


「そうよ。あの子が怖い思いをしなくて済むように、ミダス体は一匹残らず斬り刻んでやるって決めたのよ」


 真っ直ぐにこちらを見上げてのそれは、さながら宣言だった。


 ふたりはしばし見つめ合い――

 ルセリアのほうがはっと我に返ったように口ごもる。


「い、一緒にいられなくても、『戦い方』はあるって言いたかったの!」


 なぜか彼女はムキになってこちらを睨みつけてきた。

 かと思えば、残っていたココアをぐいと一気に飲み干す。


 だけではなく、イナミからマグカップを奪い取り、それをも空にしてしまった。清々しささえ覚える飲みっぷりである。


「もう寝なさいっ」


「あ、ああ……」


「シャワー浴びなさいよっ」


「……わかったわかった」


 ルセリアはずんずんとキッチンに入り、シンクにマグカップを置いた。

 そこでようやく落ち着いたか、肩の緊張を緩める。


「イナミ」


「なんだ」


「移民手続きを済ませてないのって、機関を信用できないから?」


 市民になるための処理をまだ終えていないこと、彼女は知っていたようだ。


 イナミは最終確認となる署名を保留にしている。

 その理由は――


「……ここが自分の居場所だなんて思えなかったからだ」


「じゃあ、その気になったらでいいの」


 ルセリアは窺うように振り返った。


「特務官にならない?」


「俺が?」


「イナミには人を守れる力がある。それは誰でも持ってるような力じゃない。でしょ?」


 思いもしない提案に、すぐには答えが浮かばなかった。


 クオノのことで精一杯で、自分の身の振り方なんて微塵も考えていない。


 そんなイナミは、ルセリアへの申し訳なさで目を合わせられなかった。


「すまない。今はまだ、何もわからない」


 彼女は「そう」と小さく頷いて、再び背を向けた。


「そうよね。ごめん、いきなり変なこと言って」


 そこで会話は終わりだった。蛇口から勢いよく落ちる水がふたりの沈黙を遮る。


 イナミはしばらくその場に立って、ルセリアの言葉を反芻していた。


 戦い方はある。


 先刻までは、クオノは自分なんかよりもっと自立した大人といるべきだ――という諦めが心を支配していた。


 そんな自分に、クオノのためにできることが、まだあるのか。


 イナミは胸に迷いを抱えたまま、一階へと下りていった。

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