[4-5] だから、あなたと話したかった

 シャワーから噴き出る湯水が、ルセリアの裸体を濡らす。


 首筋を這い、胸の谷間に落ち、引き締まった腹を撫で――

 しなやかな背をなぞり、張りのある臀部を伝って――


 そうしてタイルに滴り落ちた湯水は、排水溝へと流れていく。


 前髪を掻き上げたルセリアは、湯気で曇った鏡を手のひらで拭った。


 琥珀色の瞳が、自分をじっと見つめている。


「なんだか調子狂うわね」


 昨日はミダス体の出現から始まり、イナミとの接触があった。

 それが今日は、引っ越しだのパーティーだのと、平和な一日である。


 ――ううん。


「『平和なんてものは初めからなかった』」


 自分の呟きに合わせて、頭の中でイナミの声が再生される。


〈アグリゲート〉もまた、危ういバランスの上に成立した社会だ。


 機関は都市にどれだけの潜伏体が存在しているのか、どんな条件で活発になるのかを把握できていない。

 常に後手に回っての対処ゆえに、必ず犠牲者が出てしまう。被害が広がらないためには、迅速に現場へ向かい、ミダス体を殲滅するしかないのだ。


 不安はそれだけではない。

 管理を快く思わない反機関派、異なる文化間で生じる市民の摩擦、不法行為を働く犯罪者だっている。


「『ようこそ』なんて大層なトコじゃないわよね」


 ルセリアは溜息交じりにシャワーを止める。


「カザネさんがいた頃の地球って、どんな感じだったのかしら」


 遺物から回収した映像データに興味を抱いたことはなかったのだが、


 ――今度、調べてみようっと。


 取り留めもなく思考を漂わせ、シャワールームを出た。


 バスタオルで身体を拭き、就寝用の下着を着け、水気の残っている長い髪をドライヤーで乾かす。


 いつもならそのまま部屋の中を歩き回るところだったが、今日からはそうもいかない。男の目がある。その視線を気にしないほど、ルセリアの神経は図太くない。


 寝間着を身に着け、自室に戻る。


 途中、二階リビングを通る際、ベランダに立つイナミの姿を見つけた。手すりに腕を乗せて、空に浮かぶ月を眺めているようだった。


 冷気を通さないガラスを挟んでいるにもかかわらず、彼は、通り過ぎるルセリアの気配に感づいて振り返る。


「あ、あは」


 なぜか気まずさを覚えたルセリアは、作り笑いを浮かべて手を振った。彼は不思議そうに首を傾げただけだった。


 部屋に戻ったルセリアは、体重を預けるようにドアを背中で閉める。


 慣れない人間が同じ屋根の下にいることの疲労感が今になって押し寄せ、足から力が抜ける。すとんとベッドの端に腰かけると、安物のフレームが失礼にも軋んだ。


「……早く慣れなきゃね」


 サイドテーブルに置いた私用のリストデバイスを手に取る。


 着信やメッセージはない。

 ルセリアの友好関係は狭い。


 去年、スクールの同級生が結婚したときでさえ――十五歳以上は成人と見なされる――自分には何ひとつ連絡がなかった。

 祝いの場に特務官の魔女を呼んだら縁起が悪い、というわけだ。


 その特務部も、横の繋がりは希薄だ。

 訓練期間、警備局で知り合ったヤシュカと近況を報告し合う程度である。



 妹からの連絡もない。



 背中からベッドに倒れ込む。


 日々、人類の敵から市民を守ったところで、特務官は英雄でもなんでもない。

 ちやほやされたくてなったのではないにしても、心にちくちくと刺さる棘を感じながら、そのまま寝ようとかと足を上げ――


「……むう」


 がばりと身体を起こす。

 どうにも気になる。


 引っかかっているのは、ベランダに立つ寂しげな背中。


 決断に少しばかりの時間を要して、ルセリアはカーディガンを手に取った。


   〇


 イナミは薄着で外に出ていた。液体金属が体温を保つので、寒さを感じるのは風が吹いたときだけだ。


 冷え切った夜のとばりの向こうには、〈セントラルタワー〉がそびえ立っている。

 仮住居からの景色と比べると、住宅街は明るい。窓から光が洩れているのだ。


 イナミが生まれた時代よりも遥か未来でありながら、後退著しいつぎはぎの技術で再建された都市。


 宇宙船と違って、ここには市民それぞれの『家』があり、その寄せ集めが一区画を形作っている。


 このどこかに、クオノがいるのだとすれば――


 物思いにふけるイナミの前に、虫型偵察機の〈ハニービー〉が羽音を立てて現れた。

 ナノテクノロジーの賜物であるカメラレンズが、顔を覗き込んでくる。


 と、同時にリストデバイスが着信を知らせた。

 イナミは落ち着いた気持ちで応答する。


「今日はどっちだ?」


《ベネトナシュ》


 静かに囁くような女性の声だ。


 イナミが吐き出した息の塊が、冷たい空気に触れて白く染まる。


「大人しくしていたぞ」


《それはわかっている。見ていたから》


「七賢人というのは暇なんだな」


《あなたは目下、要警戒人物のひとり》


「そうだったな」


 と、イナミは苦笑いを浮かべる。


 すると、〈ハニービー〉がよろめくようにホバリング体勢を崩した。


《笑った》


「あ?」


《イナミ》


「ああ……俺だって笑うさ」


《見たのは初めて》


 その指摘には、そうだっただろうか、と曖昧な反応を示す。


 七賢人は警戒すべきだ。今もそう思っているが、がむしゃらに敵視したところで空回りにしかならないことを自然と悟ったのである。


 イナミは今、〈ハニービー〉の向こうに立つ者を意識できていた。


「訊きたいことがある。シンギュラリティ能力者は貴重な戦力だ。だが、彼女たちには別の生き方もあっただろう。戦いを強いらなければならないほど、事態は切迫しているのか?」


 その問いに、ベネトナシュはひと呼吸の間を置いてから、はっきりと答える。


《選択権はある。確かに、エメテル・アルファの場合は本人の意志とは無関係。だけど、ルセリア・イクタスは自らの意志で特務官に志望》


 それから、イナミの言葉を逆手に取るようにつけ加える。


《あなたも同じ。別の生き方があるはず。そんなにカザネの命令は絶対?》


「当然だ。俺にとってはな」


 イナミは再び息を深く吐き出した。


「この前、クオノを探す理由を俺に訊いたな」


《ええ》


「カザネの命令だけじゃないんだ。俺はあいつに、必ずそばにいると約束した。なのに、結局、俺はひとりでここにいる。おかしいだろう?」


 言質げんちを取られまいとしているのか、ベネトナシュは無言だった。

 何か知っている素振りを見せれば、クオノは〈アグリゲート〉にいると認めてしまうようなものだ。


 そうだろうと思って、相手が防御に回るよりも先にイナミからはぐらかした。


「だが、俺は裏切り者のままでいいのかもしれない」


《え?》


 ベネトナシュが控えめに驚く。


 人間味をほとんど感じさせない彼女の珍しい反応を引き出せたことに、イナミは自嘲気味の笑みを浮かべた。


「あいつはまだ小さな子供だ。ちゃんとした大人が守ってやらなきゃならない。その役目は俺には相応しくない。そうだろう、ベネトナシュ」


《……さあ?》


 そこははっきりと答えてもらいたかった、とイナミは落胆する。


「ここには俺以外の人間がいる。ルセリアやエメテル、お前たち七賢人のような。守るのが俺でなければならない、というワケでもないんだ」


 自分で言葉にしてみると、情けなさが増幅される。

 イナミは脱力のあまりにうなだれた。


「あいつにも生き方があるはずだ。実験体だったことも忘れているかもしれない。それなのにしつこくつきまとう男なんて、迷惑極まりないじゃないか」


《……イナミは憎んでいないの?》


 唐突にも思える質問に、イナミは顔を上げて訝る。


「誰を、憎む」


《クオノ》


「……まさか! どうしてあいつを憎まなきゃならないんだ」


 ベネトナシュは淡々と言葉を紡ぐ。


《カザネはクオノを連れ出そうとして撃たれた。クオノがいなければ、彼女は安全な場所に隠れていたかもしれない。そうしたら、あなたがカザネを守り抜くこともできたはず》


「無意味な仮定だな」


 イナミはレンズを睨み、荒い語気で否定した。ベネトナシュの詮索は度を過ぎている。


「カザネは自分の意志で動いた。俺は任務を優先して動けなかった。それだけだ。そもそもクオノがいなかったら、俺もこうしてはいない。ふざけたことを訊くな」


 七賢人は、イナミが復讐のためにクオノを探している、という可能性もあると勘ぐったのだろうか。だとしたら、全くの見当違いである。


 しばらく黙り込んでいたベネトナシュが声の調子を落とした。


《……ごめんなさい》


 素直な謝罪に、イナミはぎこちなく頷いた。


 気まずい沈黙が両者の間に流れる。自分も強く言いすぎた、とイナミが謝ろうとしたときだった。


《あ、後ろ……》


 注意を促されて振り返ると、風呂上がりのルセリアがリビングにいた。

 彼女もこちらに気づき、何やらぎこちなく微笑んで、軽く手を振る。


 ぼんやりと手を挙げ返すイナミに、


《私はまだ、あなたのことがよくわからない》


 と、ベネトナシュが言った。


 視線を戻すと、〈ハニービー〉が空に上昇していく。第三者に見つかるのはまずいと考えたのだろうか。


 やがて夜の暗闇に紛れる偵察機に向かって、イナミはかぶりを振った。


「お互い様だ」


《だから、あなたと話したかった。話せてよかった》


「……そうか」


《おやすみなさい、イナミ》


 ベネトナシュはそう告げると、リストデバイスの通話を終了させた。

 こんな時間にご苦労なことだ。七賢人は二十四時間勤務なのだろうか。実は本当に人格を持ったコンピューターなのかもしれない。


「なんて、まさかな」


 ひとり取り残され、イナミは手すりに腕を乗せた。


 クオノについては、これでいいのだろうか、という後悔はある。

 だが、自分ではクオノを守り抜くことができない――


 こんこん、とガラス戸がノックされた。


 振り返る。


 カーディガンを羽織ったルセリアが、穏やかな表情で戻ってきていた。

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