[3-7] 窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素
永遠が訪れたはずだった。
しかし、亜空間に触れたと感じた次の瞬間にはもう、指先は通常空間に触れていたのである。
異常体験のショックが液体金属から脳へと伝達され、激しい情報処理の渦を巻き起こす。
酩酊状態に陥っているところへ、ナビの声が木霊した。
《けけ、警告。ささ、先ほどとは異なる異常力場を感知。とと、当機は惑星の重力圏に引き寄せられていると推測》
酔いからさめると、イナミはポッドの狭い室内に浮いていた。
ホログラムディスプレイにはクオノのポッドも〈ザトウ号〉も映っていない。
ただ、青い光を放つ巨大な何かが、全貌もわからないほど間近に迫っている。
ナビはなんて言っていただろうか。
――『惑星の重力圏』……じゃあ、これは……。
磁力が働いたように身体が引っ張られ、背中から床に叩きつけられる。
「あがっ!?」
思考がまとまらないイナミには受け身を取れなかった。
スピンは止まっていた。亜空間に触れたと感じた一瞬で、ポッドにかかっていた力が消えたのだ。ということは、遠心力ではない。
『むじゅーりょく?』
『身体を押さえる力がない状態、だな』
――重力!
イナミは天地を正しく理解しようと努めた。天井が地、床が天。機体の向きが逆さまになっている。
持ち上がらない身体をどうにか起こし、ホログラムディスプレイを仰ぐ。
先ほどまで画面に満ちていた青い光が赤く変色していた。ポッドに纏わりついた大気が圧縮されて熱を帯びたのだ。
そのことを知らないイナミは、機体が過熱状態に陥っているのではないかと恐怖する。
《警告。現在、大気圏突入中。シートベルトを決して外さないように――》
手遅れだ。
重力加速度が増大し、顔を上げているのも辛い。イナミは床に這いつくばることしかできなくなった。
外部カメラのレンズにひびが入る。
破損した外部アームが外れる衝撃。
ぼろぼろの機体を襲う激しい振動。
ノイズ交じりの画面は、やがて緑色の大地を映し出す。
このまま地表に激突するのだろうか。それとも空中分解、爆発四散となるのか。
〈ザトウ号〉から逃れ、亜空間に巻き込まれ、それでも死ななかった自分に、こんな結末が待ち受けていたとは。
あるいは、役立たずに相応しい最期かもしれない。
自嘲的な発想に辿り着いたイナミは、今度は天井から床へと跳ね上げられた。
さらには壁やシート、コンソールパネルのあちこちに身体を打ちつけ、今度は床へと倒れ込む。今の間に、天地がまた入れ替わったようだ。
「ぐ……」
声にならない呻きを絞り出すイナミに、ナビはマイペースに話しかけた。
《パラシュート展開成功。しかし、減速が十分ではない可能性が大。逆噴射を実行します》
このポッドには着陸機構まで備わっていたらしい。
イナミは嘆息交じりにシートへ戻ろうとして――
再び、下から身体を突き上げられた。体勢を崩して転倒する。
「……くそっ。今度はどうした」
《着陸成功》
「何?」
言われてみれば、ポッドの振動が収まっていた。
聞き耳を立てる。各部品が静かに脈動する音しか聞こえてこない。
「成功って……これが?」
イナミは尋常ではない身体の重さに苦戦しながらも立ち上がり、ホログラムディスプレイを覗き込んだ。破損したカメラは何も映していない。真っ暗だ。
「ここがどこか、わかるか?」
《大気成分は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素。地球の大気と酷似。有毒ガスは検出されませんでした》
「地球……」
月の向こう側に見えた青い惑星。
そして、大気圏突入寸前に広がっていた青色。
確かに似た色だった。
――まさか、亜空間を移動したのか?
考え込むイナミに、なおもナビは語りかける。
《衛星の応答がないため、位置座標の取得は失敗しました》
「……外に出られるか?」
《はい。ただし、救助隊が来るまでは当機から遠く離れないように――》
「わかっている」
イナミは注意を遮り、呼吸を整える。
地上世界については、カザネたちからフォトアーカイブで見せてもらったことがある。
人の行き交う繁華街、家族団欒のダイニング、保存された遺跡建造物、その逆に技術を結集した最先端都市の摩天楼、そして大気圏外を旅する宇宙船団。
それが、この扉の向こうにあるというのか。
「開けてくれ。自分の目で確かめたい」
《了解》
ハッチが、ぷし、と空気の抜ける音を立てた。
開放された隙間からまばゆい光が差し込む。イナミは手をかざさずに視界の明度を調節して対応した。
初めて感じる匂いがした。
〈ザトウ号〉で嗅いできた血の臭いではない。観葉植物に鼻を近づけたときと似た――それをもっと濃くした匂いだ。強烈だが不快ではない。
慎重に深呼吸を繰り返し、体内に酸素を巡らせる。
ハッチが倒れると、昇降用スロープが地面に伸びた。イナミはすぐには出ず、スロープの
ポッドは広い道路の真ん中に着陸したようだ。道は
左右には空に向かって伸びる建造物が並んでいた。
これがビルか、とイナミは推測する。基本的には箱型だが、中には一見アンバランスに捻じれた建物や、道路を跨ぐ建物もあった。
ほとんどの窓が割れている。地面をよく見れば、小石の他にガラス片も散らばっていた。
風が吹くたびに、どこからともなく建物の軋む音が反響する。ふとした拍子に倒壊するのではないかと、イナミは不安になった。
とりわけ異常なのは、人工物のビル群を植物が浸食していることだった。
道沿いに生えた木が根を伸ばし、道路を捲り上げている。
ツタ植物はビルの壁一面をよじ登り、割れた窓から内部へと侵入していた。
どう見ても管理された都市ではない。長年放置されているとしか思えない有様だ。
目を凝らすと、羽のついた生き物が空を飛んでいる。
アーカイブでしか見たことのない鳥を、イナミは初めて目にしたのだ。
六本足の小さな生き物が、スロープを這い上がってきた。
これは虫だろうか。
人間の気配は、感じなかった。
「これが、地球なのか……?」
どうしていいかわからずに、頭上を仰ぐ。
果てしなく続く青い空が恐ろしい。自分がどこに立っているのか、わからなくなりそうだ。
吐息が風に流されていく。
ポッドが展開したパラシュートを収納する音がよく聞こえた。
「どうなっているんだ。クオノの後に呑み込まれて――」
何気ない呟きに、はっとなる。
そう、確かに自分は亜空間に呑み込まれた。あの感覚を、指先はまだ覚えている。なのにまだ、こうして生きているではないか。
だったら、クオノも地球に辿り着いているはずだ。そうでなければおかしい。
どこかに不時着しているはずのポッドを探し出そう。
そして、クオノとともに、この大地で生き延びるのだ。
新たな目的を見出したイナミは非常糧食をシェルフから引きずり出した。サバイバルキットもあった。バッグにあれこれと詰め込んで肩に担ぐ。
「周辺を探索してくる。留守を頼んだ」
《了解しました》
ナビの返事を受けて、大股にスロープから下りた。
初めて地面に足を着けるときだけ、慎重に。
生い茂った雑草は、人の重みでたやすく潰れるほど柔らかかった。
周辺の地理を把握するため、一番高い場所に立つ必要がある。
そう思いついたイナミは、高層ビル五十階ほどの階段を上がり切った。正直、後悔した。よくもまあ、こんな建物を重力下で完成させたものだ。
それでも屋上に出た途端、イナミは絶景に声を失った。
地上にいる間は、道路と建築物の壁しか見えなかった。
天空から見下ろすと、高低差のある建築物の波が広がっている。ポッドは当然、波間に消えていた。
人間が作り出した都市。その人間が去った後に勢力を伸ばした自然。
そしてひとり佇む自分。
イナミは乱れた息を整え、屋上の端へと歩いていった。
手すりが腐食している。迂闊に体重をかけると、あっさりへし折れそうだ。
床も細かいヒビが入っている。崩落する予兆を感じ取ったら、すぐに離れたほうがいいだろう。
ぐるりと歩き回っていると、この付近の荒れ具合はまだマシなほうだとわかった。
四、五キロメートル先に、ビル群が消失した地点がある。
何か、爆発でも起きたのだろうか。
イナミは外骨格を解除し、バッグからゼリーパックを取り出した。
栄養価は高いらしいが、味気がない――などと、贅沢は言っていられない。階段を上がっている途中で、すでに一日分の食事を摂取していた。
パックを押し潰しながら、人が住んでいそうな区画がないかを探す。
喧騒は聞こえない。耳に届くのは風の唸り声、建物の軋み、鳥のさえずりだけだ。
ここは廃棄された都市なのだろうか。
一体、どんな理由で?
それを知るには――
仕方ない、とイナミはまた地上に戻ることにした。
ナビの忠告を無視し、爆心地まで足を延ばすことに決めたのだ。
道中の広場で、崩れ落ちた石像を見つけた。
イナミは足元の石碑に歩み寄り、彫られている文字を読む。
初めはカザネの母国語、日本語かと思ったが、この文章はほぼ漢字のみで形成されていた。
「日本語なら多少は読めたんだが」
と、独り言を呟くイナミは、国際共通語を喋っている。
石碑の表面をそっと指でなぞり、その場を離れた。
ここまで歩いて、イナミは人がいたと思われる痕跡を見つけていた。
道の両端――歩道には何かを取り外した穴が点々と開いていて、そこに雨水や埃、苔などが溜まっている。
建物の中を見ても、調度品の類はなかった。
このことから、人は使える物を可能な限り持ち去ったと推測できる。
それほど離れていない場所に人がいるのなら、救難信号は届くはずだ。クオノのポッドも信号を発信し続けているだろう。自分より先に救助されていれば――
「いや、待て」
自分もクオノも、実験体だ。
軍が秘密裏に研究していた生物兵器なのである。
もしもここが敵地だったら、クオノが危険だ。
「他人を頼りにするのはまずいか……?」
冷たい風の中を歩くにつれ、高層ビルの影が引いていく。半ば倒壊した建物ばかりが目につくようになり、最後はただの瓦礫の山と化した。
殺風景となってから一キロメートルほど歩き、ようやく爆心地に辿り着く。
「こいつは――」
そこには、月面にあるような巨大クレーターが広がっていた。
イナミは斜面に落ちないよう、慎重に中を覗き込む。
地下を走るパイプが断裂し、雨水が陥没地へと流れ込んでいる。『それ』はぬかるんだ汚泥に沈みかかっていた。
都市を襲ったのは、爆弾や核兵器などではない。
巨大宇宙船の残骸がクレーターの底に横たわっている。
砲塔が外に露出していることから、軍艦だと推測できる。その側面には、強烈な砲撃を受けたらしい融解の大穴があった。
イナミは空を仰いで、これが何を意味するのか、考えをまとめる。
宇宙空間の戦闘で大破した船が燃え尽きることなく落下。
地表衝突の余波が、この都市に致命的な打撃を与えた、といったところか。
戦争が起きていたとは聞いていない。
戦時中だったら、イナミは戦地へ送り込まれていたはずだ。そして、データ収集のために敵兵士を殺戮する任務に就いていただろう。
〈ザトウ号〉の変異体のように、返り血を浴びて――
「そうじゃない」
イナミは膨らみかけた想像を遮断する。
「それが兵士だ。変異体とは違う」
自分に言い聞かせるが、語気は弱い。
クレーターに入って船を調査する気にはなれなかった。這い上がるのにも一苦労だろうし、動物の死骸が溜まっているのか、腐臭がひどかった。
もうポッドに戻ろう。
と、急かされるように後ずさったときだった。
背後で、砂利を踏む音がした。
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