[3-5] むじゅーりょくじゃなくなった
脱出装置の搭乗口は、無重力ブロックにしかない。
事故発生直後、誰かがそう口にしたのをイナミは覚えていた。
遠心重力ブロックからの移動は安全な道中ではなかった。変異体はまだうようよと船内を徘徊している。
幸いなのは知能がそれほど高くないということだ。動く物が目につけば襲うといった程度で、同士討ちまでしている。
液体金属は無線通信機能を有している。
イナミは同期中の管理コンピューターに要請して、船室のドアを開閉させた。
鞭のように腕を長く伸ばした個体が音に反応して飛び込んでいき、そのまま閉じ込められる。
イナミは通路の角を飛び出し、ブロック間を行き来するためのエレベーターに乗り込む。
ドアが閉まると、自然と息を吐き出してしまった。ひと休みだ。
室内パネルにはエレベーターが遠心重力ブロック内を降りる図が表示されていた。ある位置まで行ったところで待機し、回転のタイミングに合わせて無重力ブロック側のシャフトに移る。
後頭部から生えるケーブルがゆったりと浮き上がった。
外骨格のブーツは床に吸着できるので、イナミは重力下と同様に動ける。
クオノはというと、初めて体験する感覚だったらしい。
「……からだ、ふわふわする」
「無重力だ」
「むじゅーりょく?」
どう言ったらいいものか、イナミもよくは知らなかった。少しだけ考えて、こう説明する。
「身体を押さえる力がない状態、だな」
すると、クオノは外套代わりのシーツから両手を伸ばし、自分の頭に乗せるのだった。
イナミはやはりどんな表情を浮かべていいのかわからずに、ただ微笑んだ。フェイスマスクには表れないので、全く伝わらないだろうが。
エレベーターが静かに停まり、すっとドアが開く。
脱出装置の搭乗口前も、遠心重力ブロックと変わらず――いや、あれよりもずっと血の臭いが濃い。
イナミは陰から顔を出し、通路の様子を確かめる。
「…………」
そこにあった光景をクオノに見せないよう、彼女の小さな頭を抱え込む。
「あ。むじゅーりょくじゃなくなった」
これは重力ではなくただの人力だ、と訂正できる心の余裕はなかった。
無数の死体が浮遊していたからだ。
恐慌に陥った人々が脱出できないかと詰めかけたのだろう。
だが、非情なシステムは搭乗口のロックを解除しなかった。
そこを変異体に襲われたらしい。
中には軍人も混ざっている。力なく開かれた指に、EMIライフルの引き金がまだ引っかかっていた。
死体を掻き分けて進むイナミは、もはや恐怖を感じなかった。正常な精神状態ではなくなっているのだ。
搭乗口のドアを探し当て、横にあるはずのパネルへと手を這わせる。
案の定、入力は受けつけられず、開閉機構はうんともすんともいわない。
そもそも、イナミは実験体だ。平時なら自室のドアさえ開けられない。
今はカザネの進言を経て、上級船員の承認のもと、『ゲスト』としてアクセス権限を与えられているに過ぎなかった。
――どうすればいい。
カザネは『クオノがいれば』と言った。
この子供に何ができるのか。イナミは半信半疑で、クオノに示すようにドアを軽く叩いてみせた。
「ここを開けられるか?」
クオノはゆっくりと首を傾げる。まるで『ドアとは開くものだ』ということさえ知らない様子だった。
やはり、無理なようだ。自分で突破しなければならない。
とはいえイナミも大概で、ドアが電力で動いていると知っている程度である。
――パネルを叩き割り、中から配線を引き抜く。そこに生体電流を放出しておかしくさせてやれば、誤作動を起こすかもしれない。
よし、とクオノを抱え直したときだ。
パネルディスプレイが明るくなり、灯っていた赤色のランプが緑色に変わった。
それまで何人たりとも通さなかったドアがすんなりとスライドする。今まで失念していた使命を思い出したかのように。
クオノがすっと指を差す。
「あいた」
イナミは呆然とクオノの顔を見つめる。
――どうなっているんだ。
「おねがいしただけ」
――お願い?
イナミは心の中で尋ね返してから、妙な違和感を覚えた。
何に対してかに気づき、思わず発声器官のある喉元に手を運びかけてしまう。
自分は口に出してはいない。なのに、クオノは答えた。なぜ。
あどけない外見に騙されてはいけない。
研究員がクオノの力に頼ろうとしていたのなら、イナミがそうであるように、現状において成果を上げている実験体には違いないのだ。
とにかく、第一関門は突破した。詮索は後だ。
イナミは中に足を踏み入れる。清潔な床に靴底の血が粘りつくのを感じた。
皮肉だ。自分が〈ザトウ号〉の脱出装置に辿り着いた最初の船員となるとは。
搭乗口にはいくつもの気密扉が並び、それぞれの前にコンソールが置かれている。入室者の存在を感知して電源が入り、タッチパネルに何かを表示した。
『脱出ポッド射出手順』
ポッドとは装置の呼称か。
この手順に従って準備をすればいいのだろう。パネルに手を置くと、目の前の気密扉がごとんと音を立てて左右に開いた。
その先は接続路、そしてポッド射出シャフトに繋がっている。
ポッドもハッチを開いた状態で待機している。
狭いコクピット内に、シートとコンソール。左右の壁には糧食や酸素吸引マスクなどが収納されていると先ほどの説明にはあった。
発進方法は実に単純だ。
その一、シートに身体を固定。
その二、外または中のコンソールで発進ボタンを押し、電磁誘導でシャフトから射出。
その三、救援信号は自動で発信される。安心して快適な漂流生活を。
とりあえず、クオノをシートに座らせる。
子供用のクッション調整機能があるとのことだったので、シート下部のスイッチを押してみたところ、小さな身体が深く沈み込んだ。
自分でも外せるように、ベルト装着を見せながら行う。
「わかった」
と、クオノが頷いたので、イナミは立ち上がってひと息ついた。
「こいつにナビはついているのか?」
《はい。ご質問を承ります、イナミ》
男性の電子音声が応答した。
よかった。中途半端な知識であれこれと言うより、ナビに任せたほうが安心――
違和感再び。
――こいつは今、俺の名前を呼ばなかったか?
『イナミ』はカザネたちが勝手につけた名前に過ぎない。
実験体はシステム的には存在しない者なのである。今は同期して『ゲスト』と認めている者を、どうしてナビは『イナミ』と呼んだのか。
イナミは数々の疑問を振り払おうと、軽く頭を横に振った。
今、問題なのは、ちゃんと発進できるのか。それから、後のことだ。
「ずっと使われていなかったようだが、食糧や酸素は常備されているのか?」
《はい。二週間は当機の用意で生存可能です》
二週間。それまでに救助されなければ、餓死か窒息死を迎えることになる。
密室でただ死を待つような状況を想像すると、麻痺していた恐怖心が再び膨らみ始めた。
問題はまだある。
このポッドがどう見てもひとり乗りの脱出装置ということだった。
ふたりで乗り込めば、片方は小さな子供と考えても消耗量が大きくなる。逆に考えれば、小さな子供ひとりなら猶予が伸びるかもしれない――
クオノが控えめに口を開く。
「これからそとでどんなじっけんをするの?」
その言葉に、イナミは胸を締めつけられた。苦しげにかぶりを振る。
「実験じゃない。お前はこれから、俺と外で生きていくんだ」
「いきていくって、なに?」
「さあ。実験体同士、これからの生き方を考えなければな」
「じっけんたい、どうし?」
「俺もお前と同じなんだ。これの実験をしていた」
と、胸を手のひらで叩いてみせる。
クオノの眼差しが急に興味深げに輝いたような気がした。今まで以上に、イナミの一挙一動を観察している。
――やっぱり、ひとりで宇宙に放り出すのは不安だ。
視線に負けたわけではないが、イナミは自分も乗り込むことを決断した。いざとなれば絶食すればいい。
姿勢を固定するために掴まれる場所を探していると――
「だれかきた」
イナミは弾かれたように振り返る。入室者はいない。
依然として、クオノはここではないどこかを見ているようだった。
「誰だ?」
自分でも驚くほど声が震えてしまった。
来たのが船員なら、それとわかるはずだった。
通路前のカメラを視界に呼び出してすぐ、大きな影が画面に映り込む。
クオノは船内を徘徊する者の脅威を知らずに訊いてくる。
「あの人も、じっけんたい?」
「そのとおりだが、あれは敵だ……!」
イナミはポッドに飛び乗り、コンソールパネルに表示された射出ボタンに手を伸ばした。
同時に、がん! と轟音が鳴る。
ぎょっとして顔を上げると、閉ざされたドアがへこんでいる。変異体が叩いたのだ。
しかし、どんな力で殴れば、この分厚い扉を歪ませることができるのか。
がん! 殴打はさらに続いた。
がん! 見る見るドアがひしゃげる。
がん! ついにロックが破壊された。
イナミは構わずボタンを押した。
《このポッドはひとり乗りです。発進できません》
「クオノ! 俺も一緒に乗れるように、こいつをなんとかできないか?」
間髪を置かず、
《着席を確認》
イナミはようやく確信した。この
脳機能拡張実験の話は聞いたことがあった。その過程で異能力を持った子供が生まれたということも。
ポッドのハッチがゆっくりと閉じようとする。
が、先にドアが破壊された。
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