[3-4] 私たちがしてきたこと
ナンバープレートを照合する。
管理コンピューターによれば、『実験体九一〇号』の船室として登録されていた。
中から、生存者一名のシグナルが検知されている。
女性研究員カザネ・ミカナギのものだ。
ドアにはロックがかけられていた。ライフルの弾痕がある。彼女はここへ駆け込んだ後、ぎりぎりのところで籠城に成功したようだ。
――それにしても、なぜ、こんなところに?
イナミは身体に付着した血液を放電で焼いた。
その拍子に
「……カザネ、俺だ! 開けてくれ!」
その呼びかけに反応はなかった。
――どうした、敵は倒したぞ。
精神の摩耗から、気が短くなっていたイナミはドアを叩こうとして――
ロックが解除された。イナミを検知したドアがスライドする。
「カザネ、無事――か?」
踏み出した爪先が、こん、と硬い何かを蹴り飛ばした。
部屋の隅に転がっていったのは、取り外されたヘルメットだ。
だが、イナミは物を蹴ったことに気づかなかった。
壁に背を預けて座り込む彼女が、真っ先に視界に飛び込んだのである。
肩にかかる黒髪、黒縁眼鏡、二十代後半にしては童顔の、聡明な女性。
カザネ・ミカナギは、凍りついているイナミを穏やかな微笑で迎えた。
ベッドカプセルから引きずり出したシーツで脇腹を押さえ。
純白の布地は、おびただしい鮮血で赤く染まって。
「イ……ナミ……」
「カザネ!」
イナミは駆け寄りたい衝動を堪え、カザネの傍らに寄り添う銀髪の幼児を見た。
傷を押さえる手伝いをしているつもりなのか、カザネが着けている気密服のグローブに小さな手を乗せている。
実験体九一〇号だ。
計測用マイクロチップを搭載したスーツを着ているので、間違いない。
九一〇号は感情が欠落した青い瞳で、じっと外骨格姿のイナミを見つめ返す。
そばにいる女性が死にかけているのだとわからなければ、きっとイナミのことも『そういう形をした者』と認識しているのだろう。
九一〇号がカザネに危害を加えたのではなさそうだ。
そう判断したイナミはカザネのそばに膝をつき、九一〇号に「感謝する」と短く言った。
きょとんと首を傾げる九一〇号の手と、弛緩したカザネの手をどけて、そっとシーツを捲る。
「う……」
銃創だ。直撃ではない。ライフル弾が掠めたのだろう。
それでも脇腹は深く抉れていた。内臓も衝撃で損傷している。
致命傷だ。
というより、まだ意識を失っていないのが奇跡的だ。
ふと、カザネと顔が合った。眼鏡のレンズに血がこびりついている。
イナミは頭部外骨格を解除し、平静を装って言った。
「今すぐ医務室に連れていってやる」
カザネが「ふふっ」と息を洩らした。声は、ぞっとするほど、か細い。
「助からない……自分でわかるわ……」
「諦めるな! 手術すればまだ――」
呼びかけるイナミの頬に、彼女の手がそっと触れた。
その手が落ちる前に、イナミは両手で握り返した。グローブ越しでは彼女に温もりが残っているのかもわからない。
――お前が間に合わなかったせいで彼女はこうなった。
――俺が駆けつけていたら、彼女はこうなっていなかったのか?
イナミは口を開くことしかできなくなった。首を絞められているかのように息苦しかった。
カザネの目に、死への恐怖は窺えない。
「お願い……」
その言葉に、イナミは気を強く持たざるを得なかった。
身を乗り出して、彼女の口元に耳を持っていく。
「この子……クオノを守ってあげて……」
「クオノ?」
カザネが言う『この子』とは、九一〇号のことだろう。
九一〇号――クオノは、カザネが担当している実験体ではない。
担当者たちはすでに死んだのだろう。だから、カザネがここに来たのか。
〈ザトウ号〉は様々な人体改造をクローンで試していた。
一体、クオノは何を試すために生まれたのだろうか。
「ふたりで……船から脱出して……」
「無理だ。脱出装置はどこもロックされている」
彼女もそのことは承知しているはずだった。
軍事研究の漏洩は絶対に阻止しなければならない。
〈ザトウ号〉が緊急時にこそ牢獄と化すのは、あらかじめ決まっていた措置だ。
事態を収拾できない場合、誰の手にも触れられないようにして二次被害を防がねばならない。
そのために現在、亜空間潜航を利用した隠蔽――出口を設定せず、永遠に亜空間をさまよう『自殺』の準備が進められているのだ。
表情を曇らせていると、カザネが「大丈夫よ」と声をかける。
「クオノがいれば……システムはあなたたちだけでも……」
どういうことか、全くわからない。
いずれにしても、だ。
イナミはカザネに強い語調で言い聞かせようとした。
「俺はここに残る。脱出装置を動かせるなら、他の生存者も――」
「見捨てて」
思わずはっと顔を上げてしまうほど、冷酷なカザネのひと言だった。
「時間がない……あなたには生き延びてほしいの、一七三号」
彼女の口から実験体ナンバーで呼ばれたのは、まだ『イナミ』という名を与えられていなかったときのことだった。
イナミの脳裡に、原初の記憶が想起される。
培養装置から出て『液体金属』の移植手術を受けた後。意識が目覚めたときに初めて見たものが、カザネの微笑だった。
『おはよう、一七三号。気分はどう?』
『……目覚めは良好です』
イナミは今、
「最悪だ。俺だけ生き残って……こんな身体がなんの役に立つって言うんだ! 誰も守れなかった!」
「そんなことない」
子供を叱りつけるような調子の声に、イナミはびくりと肩を震わせた。
「あなたたちは、私たちの希望なの」
「……希望、だって?」
「ええ。あなたたちが、未来を切り拓く力になるって……」
言葉の途中で、掴んでいたカザネの手から急速に力が抜けていくのがわかった。
彼女は口を半開きにして、溜息をつく。笑おうとしているのかもしれない。
濁った瞳が虚空を見つめる。
「そう信じたい。私たちがしてきたことは……間違いじゃないって。だから、あなたも……生きて……」
彼女はゆっくりと肩を下ろして――
それきり、声を発することはなかった。
「……カザネ?」
イナミが声をかけても、反応しない。
ずっと握り締めていた手を離し、彼女の細い首に触れる。
脈がない。
脇腹の出血も勢いはほとんどなかった。心臓が鼓動を止めたせいで血液が送られなくなったのだ。すぐに体温も失われて、筋肉の硬直が始まるのだろう。
カザネが、死んだ。
今までのように、ここにある身体を単なる物だと思い込めば、喪失感をごまかせるかもしれない。
しかし、イナミには不可能だった。
死んだのは他の誰でもない、カザネ・ミカナギだ。
これから多大な功績を上げていたかもしれない。それこそ彼女が望んだように、人類の新たな可能性を開拓することだってできたかもしれないのに。
その生涯が、あっけなく閉ざされてしまった。
「未来を切り拓く力?」
イナミは唇を歪め、大きくかぶりを振った。
「何が……未来だ! そんなもの、俺にはわからない! ただここにいられるだけで――お前といられたら――それでよかったのに!」
イナミの自我は、実験体が持つには大きくなりすぎていた。
船員だった者たちの殲滅。
その連続で感情の歯止めが利かなくなっていたイナミは、どうしようもなくなって床を殴った。
痺れが、拳から肘、肩、そして脳にまで伝わる。
もう、何もかもおしまいだ。
無力感に、肉体までも支配されかけたときだった。
《亜空間潜航まで、後、六百秒。船員は自室に待機してください》
女性の機械音声に、イナミは手をぴくりと動かした。
いいや、違う。
おしまいでないものが、まだひとつだけある。
イナミはこちらをじっと見つめている視線にようやく気づいた。
クオノが床にぺたんと尻をつけて座っている。
自分自身は役立たずの生物兵器だ。
だが、この少女がどうかはわからない。研究員たちが命を懸けるほどの、本当に未来を変えるような、価値のある力を持っているのかもしれない。
それこそがカザネの見出した希望だというのなら――
イナミの目に暗い輝きが戻る。
命令はすでに与えられている。
「クオノを連れて、脱出する……」
そして、クオノを守り続ける。自分の存在意義がまだあるのだとすれば、それしかない。
「そうだな、カザネ」
イナミは物言わぬ彼女を抱き締め、そっと囁いた。
返事はない。自分で判断するしかない。
疲労が蓄積して重い身体に鞭を打ち、よろよろと立ち上がる。
「行くぞ、クオノ」
言語が発達していないのか、クオノの言葉はたどたどしい。
「どこに?」
「船の外だ」
「ふね、って何?」
「ここのことだ」
「そと、って何?」
「……それは俺にもわからない」
問答を繰り返す間にシーツの血で汚れた部分を引き裂いて、綺麗なほうをクオノの身体に巻きつける。
アセンブラーナノマシンは血中に注入されて初めて活動を開始する。
空気中に舞った微粒子が皮膚に接触したとしても、そこから人体に侵入することはない。
だが、念のために吸引は防いだほうがいい。
船室には空のベッドカプセルが残された。
クオノをカプセルの縁に座らせ、カザネの遺体を中に納める。
このまま、〈ザトウ号〉とともに彼女の肉体は空間から消失するのだろう。
そう思うと、何か、彼女は確かに存在したのだと感じられる物が欲しくなった。
持っていける物は何かないか――
ひとつだけあった。
胸部外骨格を開き、彼女から取り外した黒縁眼鏡をインナーウェアの襟に挟む。再び外骨格を纏えばどこかに落とすこともない。不離一体だ。
――こういうのを『形見』と言うんだったな。
横では、クオノがカプセルを覗き込んでいた。
「このひとは? ねてるの?」
イナミの外骨格に灯る乱れがちなパルス光が、やがて弱々しい輝きとなる。
「死んだよ。もう動かない。だから、ここに置いていくんだ」
クオノは理解していない様子で、再び静かにこちらを見上げた。
イナミは少女を抱き上げ、命尽きてなお美しい女性の眠る姿を記憶にしかと刻みつける。
淡々と事実を告げたのは、感情を抑圧するためだった。これがイナミにできる唯一のセルフコントロールだった。
自分は任務を継続するのだ。
こんなところに留まる理由は、もう何もない。
そうしてイナミは、クオノを連れて血生臭い通路に飛び出した。
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