[3-3] そんな目で見るな
二十五世紀は『亜空間潜航』の技術が発達し、人や物の運搬コストが一気に削減された時代だった。
同時かつ同一座標への転移事故を防ぐ『亜空間ポート』の建設計画が実現すれば、近隣惑星の大規模開発は一気に進行するはずだったのだ。
しかし、ある問題が全ての計画をストップさせた。
まっさらな星に眠る資源は、一体、どこの国の物なのか。
何世紀も以前に締結された〈宇宙条約〉は、とっくに形骸化していた。
資源採掘所の境界線付近でも、国際会議のテーブル上でも、小競り合いは絶えなくなった。
ましてや、人の住める未開拓惑星となれば――
そんな時代に、イナミは生を受けたのだった。
〇
月の公転軌道外を航行する生体実験施設船〈ザトウ号〉。
この施設はクローン培養装置を持ち、人体改造実験を主としている。
国際条約で禁止された研究だが、宇宙進出に耐えうる改良された肉体を作る必要がある、と科学者たちは考えていた。
資金を提供していたのは軍だった。
人造兵士量産計画、そして超人生産計画の一環として、研究は極秘裏に進められたのだ。
表向き、〈ザトウ号〉は民間物資輸送船として航行していた。
だから、そう、この船の末路は『貨物運搬中の事故』として公的に処理されたことだろう。
そのとき、イナミは数少ない真実の証言者となりつつあった。
耳障りな警報は三十分ほど経ったところで打ち切られた。
船員八百名前後のうち、『自殺』の瞬間を迎えられた者は何十人といただろうか。
遠心重力が働く通路には、多くの死体が転がっていた。
船員は気密性の高いフィットスーツとヘルメット――緊急時マニュアルに定められたNBC防護服を装備している。
NBCとは、
その防護服も、彼らが生み出した生物兵器と奪われた銃火器の前には、なんら防御性を発揮しなかった。
脱出機構は全てロックされている。
逃げ場のない密室で彼らができたことは泣き喚きながら逃げ惑うか、覚悟を決めて祈りを捧げるか。
どちらにしても、多国籍の船員同士が平等だったのと同じように、死は誰にでも平等に訪れた。
手足を吹き飛ばされた者がいれば、内臓をぶち撒けている者もいる。
地獄絵図の中で、イナミは未だ奔走していた。
敵を殲滅すれば、〈ザトウ号〉の『自殺』は避けられるかもしれない。せめて、まだ生き残っている十数人を救えるかもしれない。
この状況を引っくり返すような手があれば――
あるわけがない。不可能だ。おしまいなのだ。
わかっているのに、イナミは『その時』まで戦い続けることを命令で強いられていた。
上級船員が死に、救助の優先順位がようやく彼女まで回ってきた。
体力も精神も疲弊しきっている。
イナミが歩みを進めると、血の川にびちゃりと波紋が広がった。
音に敏感な敵がこちらに振り向く。
虐殺者は、犠牲者と同じ気密服を着込んだ船員だ。
だが、その個体は、背中からもう一対の腕を生やしていた。
新しい腕は皮膚が剥けて赤々と濡れている。
寄生した
それを二挺、左右の腕それぞれに携えていた。
異形はイナミも同じだった。
青白いパルス光を放つ、黒い外骨格に覆われた兵士。
その姿に戸惑った変異体が、びくりと腕の血管と筋肉を蠢かせた。ヘルメットの中から呻き声が洩れる。
視線を感じたイナミは壁に拳を叩きつけた。甲高い音が通路の奥まで響き渡る。
「そんな目で見るな! 俺はお前の敵だッ!」
剥き出しの敵意に反応し、変異体はライフルを向けてくる。
EMIライフルの発射音は、火薬式と違って恐ろしく静かだ。
撃たれた、と思った次の瞬間には首から上が粉砕されていることだろう。
そして今、発射機構の音がかすかに聞こえた。
ライフル弾が顔面に直撃する。
衝撃を受けて頭を仰け反らせた。
それだけだ。
続く連射で思わずたたらを踏む。
しかし、それだけなのだ。
視界の周りでは火花が散り、背後には砕けた銃弾の破片が血に沈んでいく。
イナミは滑る足を踏ん張り、銃撃に構わず突っ込んだ。
真正面に立ち、左右の銃身の間に身体を滑り込ませると、固く握りしめた拳をヘルメットに突き入れる。
頭部を守る有機ガラスにひびが入る――直前、赤黒く変色した男の顔を目撃する。
ナノマシンに寄生された船員は友人だった。
顔面にめり込むんだ拳は、小さな器の中身を容赦なく叩き潰す。
ヘルメットの内側に赤い液体がどっと溢れた。ナノマシンの活動によって高熱に達していた。
――俺が彼を殺した。
違う。彼はもう死んだ後だ。これはただの肉の塊なのだ。
だからといって、人体を
そんなことはない。ただ、すべきことを実行しているだけだ。任務を遂行しろ。
変異体の再生が始まり、肉が手に絡みついてくる。
イナミは一瞬の迷いを振り切り、生体エネルギーから変換した電気を放出。ヘルメット内部でスパークが迸り、有機ガラスが輝く。
変異体は四本腕を引きつらせ、二挺のライフルを落とした。川は浅く、ごとん、と底に当たる重い音がした。
腕を引き抜くと、肉の焦げる臭いがヘルメットに開いた穴から漂う。
感電死した変異体は後ろ向きに倒れ、自らが作り上げた死者の列に加わった。
この通路の殲滅はこれで完了だ。
イナミは死体を跨いで進もうとした。
が、血の中に沈んでいた変異体の腕に
「……っ」
生体エネルギーを電気に変換して放出するのは、まともな攻撃方法ではない。衰弱する一方で、手足が重い。
精神も摩耗して、死者たちが身体にしがみついているのではないか、という妄想が芽生えつつあった。
「しっかり、しろ……」
まだ倒れるわけにはいかない。
ようやく辿り着いた先に、その船室はあった。
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