第2章 移民
[2-1] メープルシロップ・アンド・ベジタブル味
特務官の任務は多岐に渡る。
対ミダス体戦闘、シンギュラリティ犯罪者の追跡。
その他には〈
機関最上層部の『七賢人』が必要と認めた問題に投入される戦力――それが特務官だ。
特務部の分室は四、五人のチームで編成される。
だが、第九分室は特例的にふたりしか配属されていなかった。
ルセリアが受けた説明によれば、技術研究所から派遣されたオペレーターの力を試す、試験運用部隊として新設されたのだとか。
兵器や能力者ではなく、オペレーター。一体どういうことなのか。
途方もない不安を抱きつつもチームを組んで一年。
ルセリアは実家から分室宿舎に移り、彼女と共同生活を送っている。
第九分室の宿舎は、住宅街の一軒家を改造した建物だ。
現場から帰還したルセリアは、地下車庫に〈プロングホーン〉を乗り入れた。
乗用車の隣に停めて離れると、床の回転台がマシンの向きを反転させる。
壁に格納されていたメンテナンスロボットが多腕を伸ばし、車体の洗浄とバッテリーの充電を始めた。
ロボットの作業を横目に、ルセリアはクロークを洗浄機に放り込んだ。衣類に付着したミダス細胞は拡散されないように現場で洗い流すのだが、念には念を、である。
タクティカルグラスはベルトポーチへ。
フルハーネスベルトは胸下だけを外す。
そして、顎を軽く上げながらスーツ頸部のスイッチに触れる。
繊維の収縮はコンピューター制御によって装着者の体格に合わせて調整される。前を留めるファスナーも同じで、自動でかちかちと音を立てて外れた。
黒いハーフトップインナーと白い腹部が明かりに晒される。
窮屈さから解放されたルセリアは頭上で手を組み、ぐ、と背筋を伸ばした。捜索目標が見つかるまで、ひとまずの宿舎待機時間だった。
階段を上がって一階廊下に出ると、
「おかえりなさい、ルーシーさん」
奥の部屋から、エメテル・アルファがスリッパをぱたぱたと鳴らして出てきた。
十五歳という年齢よりも、いくらか幼く見える少女である。
瞳の色は宝石のように澄んだ緑で、金髪をシニヨンに結っている。
長く尖った耳の持ち主で、その左耳にカフ型デバイスを着けている。
受信したあらゆるデータを電気刺激に変換し、脳の感覚野に伝達するための装置――とはいうが、それをただの人間であるルセリアが着けても痺れを感じるだけだ。
エメテルは人造ミュータントの『フェアリアン』なのである。
初めは笑顔で出迎えてくれたエメテルだったが、その明るさが精一杯だったかのように見る見る
ルセリアは、おや、と俯き加減のエメテルを見つめた。
「どしたの?」
「すみません。私がもっと早く警告できてれば、ルーシーさんをあんな危険な目に遭わせなかったのに……」
少女に擬態したミダス体のことを言っているらしい。
ルセリアは苦笑し、エメテルの肩に優しく手を乗せる。
「ミダス体かどうかは体温によって判別される。あれで『もっと早く』は難しいわ。それにあいつが間に入らなくても、対処は十分間に合ったはずよ」
「ルーシーさん……」
まだ表情の暗い彼女の肩を、ルセリアはぽんぽんと軽く叩いた。
「まだ何も食べてないんじゃない?」
「あ、いえ……ちゃんと取りましたよ」
「とか言って――」
ルセリアは廊下の奥、ガラス張りの壁で仕切られた部屋を覗き込んだ。第九分室のオフィスだ。
窓はないが広い部屋で、ソファとガラステーブルが中心に置いてある。壁にはブリーフィングモニターが埋め込まれていた。
ふたりが後から注文して取り寄せたスチール棚には電気湯沸かし器とカップ、インスタントコーヒーの瓶とティーバッグの缶、砂糖とミルクのポットが置いてある。
ブリーフィングモニターの横、部屋の角を制圧している黒い大型デスクは、それ自体が情報収集や分析などの高負荷処理に耐えうるコンピューターだ。
そのデスクに、ポテトチップスの袋が置いてあった。開封された口の部分は丸めるように畳まれている。
ルセリアは、まったく、と腰に手を当てた。
「頭は機械じゃないんだから、油を差したって回らないのよ?」
特務官にとって『頭が回らない』は比喩ではない。
シンギュラリティの発動には『生体のエネルギー通貨』といわれる
連続使用は衰弱死のリスクを伴う。特務官ならば補給剤を携帯するが、それよりもまず、日頃の健康維持が重要だ。
正確にいえば、エメテルはシンギュラリティ能力者ではないのだが、脳を酷使するのは変わらない。
そんな彼女の言い分が、これだ。
「よく見てください。メープルシロップ・アンド・ベジタブル味です。万能栄養食っ」
「……絶対違うでしょ。『味』ってついてるだけじゃない」
「ちゃんと粉末がまぶしてあるんです。それにおいしいんですよ。ルーシーさんも食べてみてくださいっ」
エメテルが袋を大きく開けて差し出す。期待に満ちた眼差しとともに。
ルセリアは渋々とポテトチップスをひとつまみ、口に放り込んだ。
「あ、ホントね。まあまあ」
「まあまあ?」
「思ってたよりかはおいしかった」
「よりかは?」
「でも、朝食にはならないわ。没収」
「あう」
ルセリアは取り上げた袋を棚に戻し、ウェットティッシュで手を拭く。
エメテルはその背中を睨み、恨めしそうに唸るのだった。
「ルーシーさんだってアレを飲んだだけじゃないですか」
「ミックスジュースね」
「……あの黒くてどろどろした液体が、ですか?」
「誰がなんと言おうとジュースよ。そう思わないと飲めなくなる」
「それはそれで、興味あるんですけど」
「……や。普通にまともなもんを食べなさいよ」
エメテルの嗜好は、自身が持つ共感覚への好奇心から始まったものだという。
味覚への刺激が色となって見える。あるいは音が聞こえる。そうした感覚がどのように現れるのかを試しているらしい。
ルセリアにいわせれば単なる強烈な食べ物好きである。
ティッシュをゴミ箱に放り投げ、継続中の任務を話題にする。
「で、あのイナミってのが何者か、わかった?」
「はい!」
エメテルは黒革張りのオペレーターシートにぽすんと腰を下ろした。
誰も触れていないのに、モニターには複数のウィンドウが表示される。
エメテルがデバイスを通じて念じたのだろう。分室宿舎のシステムは全て彼女の意のままなのだ。
プロフィールデータや姿の映っている監視カメラの映像――
この短時間で、それもちらりと男が画面に入り込んだ瞬間を探し当てられたのは、エメテルの能力があればこそだ。
通常、人は注意によって情報の取捨選択を行っている。ひとつの物事に集中しているときは他の物事に気を配れないということだ。
それをエメテルは、選択することなく情報全てを認識できるのだ。
〈
小さな超人はシートを回転させることで振り向き、ルセリアを見上げた。
「彼のフルネームは、イナミ・ミカナギ。市民ではありません」
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