鵺の夜
夜は鈍い闇で空を覆いつくしており、星ひとつ見ることができなかったのだが。
それでも金貨のように燦然と月は輝いており、月の光で地上は蒼白く照らされていた。
おれの足元では、くっきりと闇色の影が月の光の元で浮かび上がっており。
蒼ざめた地表をおれの歩みに合わせ、静かに這い続けている。
かつてはこのくにの王城があり、都であったはずのこの街は。
王都が東に移し変えられることで、静かに老い衰えて行くばかりの巨獣にも似た様を呈しているのではあるが。
それでも千年を越える齢を重ねた街であるからこそ纏っているのであろう闇が。
そこかしこに滲み出ており、おれの向かおうとしている橋のたもとでは何ものかが闇の中から生まれ出でようとする気配をふりまいており。
夜明け前の最も濃い闇の中で、それはまさに闇が抱えきれなくなった不吉を吐き出すように。
ぞろりとした気配をあからさまに、撒き散らしていた。
その気配に呼応するように、おれの手にした仕込み杖の中で
膝丸が、すすり泣くような声をあげる。
おれは、ひとりごとのように、膝丸へ語りかけた。
(もう少しだ。もう暫く待ってろ)
おれは、闇が次第にひとの形をとりはじめるのを見ながら言った。
(ほら、もうすぐたっぷり喰わしてやるよ)
膝丸の声は堪えきれぬような喜びの、かん高い調子に変わってゆく。
おれは、その柄に手をかけたまま、橋に向かって足を踏み入れる。
闇は熱を帯びたように、ゆらゆらと身を捩らせるようにしながら、次第に実体化してゆく。
立ち上がった漆黒の影の中に、ぼんやりと水に映った月の影のように。
蒼ざめた光をゆうらりと輝かせる顔が、浮かび上がった。
それは、おんなの顔である。
おれの手の中では、膝丸が欲情に耐えきれなくなったかのように身をふるわせていた。
おんなの顔は、おれを見るとはらはらと涙を溢しはじめる。
闇の中に浮かぶ月のように白いおんなの顔は、ぽろりぽろりと透明に輝く水晶のような涙を落としてゆく。
おれはおんなの顔の前に立つ。
白い水面のように揺らめきながら光っているその顔に穿たれたふたつの暗い穴のような瞳が、おれを見る。
おんなの焔を喰らったのかのような紅い口から言葉が零れた。
「苦しいのです、苦しいのです、どうか、どうか」
おれは、自然と笑みがこぼれてしまうのを、止めることができない。
仕込み杖の中では、膝丸の声が歌っているように高まっていた。
おんなの顔はそれでも闇のなかで耿々と光っており、傷口のように紅い口が言葉を溢し続ける。
「どうか、どうか、お願いですから。どうか、お願いですから」
おんなは、歌うように囁くように祈るように、言葉を重ねた。
「あたしをお助けください」
おれは、はやぶる膝丸の柄に手をかけて抑えながら、喉の奥で笑いながら問い返す。
「おれに。何を望むというのか」
おんなの顔はそこではじめで笑みを浮かべる。
まるで欲情しているような、堪えきれぬものを浮かび上がらせてくるような笑みを紅い三日月のような口に被せると、こう言った。
「あなたの血を、くださいな」
そういいえ終えると、おんなの紅い口が顔中を覆うように大きく開かれると、肉食獣のように鋭い牙が剥き出しになる。
おれは、無言のまま膝丸を抜き放った。
氷ついた雨のように冷めた輝きを放った膝丸は、不吉を告げる箒星のように闇を斬り裂くと。
吸い込まれるように、おれの喉元に喰らいつこうとしていたおんなの紅い口を貫いた。
膝丸の切っ先は、冷めた輝きをおんなの頭の後ろで放っている。
深紅の飛沫がその切っ先を掠めるように、迸っていった。
おんなの黒い瞳はそれでも嘲笑うかのような闇色の光を放ちながら、おれに影のように黒い手を伸ばそうとしていたが、膝丸は容赦がない。
その切っ先は、笑い声をあげるようにきらきらと瞬いており、それは極寒の地で空気が凍りついて光を放つのを見るようであった。
おんなは紅いくちから、ああと声を漏らす。
膝丸はおんなの命を喰らっていた。
餓えた獣が葬った獲物の肉を、貪り食らうように。
欲に狂ったおとこがおんなを犯すように。
瞬く間に、砂漠へたらした水滴のようにおんなの命は吸いとられてゆき、おんなの身体は月に照らされた蒼白い大地へと崩れ落ちる。
おれは、おんなの身体が地に沈む前に抜き取った膝丸をひと振りしてその身についた血を飛ばす。
飛沫が蒼い地面に、緋色の線を描いた。
おれは、懐から革の布を取り出すと、足元に転がるおんなの死体を見ながら膝丸の身についた血脂を拭いとってゆく。
死体になってしまえばそれは、どこにでもあるありふれたものでしかない。
闇にこころを奪われる前、もしかしたらおんなはひとの妻であったかもしれず、ひとの親であったかもしれず、あるいは恋するひとがいたかもしれない。
おれはそのようなものには、興味もなくそこから立ち去ろうとしたのであるが。
しかし、おれはその時になってようやく夜が実は始まったばかりであることに気がついたのだ。
遠くで獣が鳴き叫ぶような、それでいて声にならず音にもならないような咆哮が夜の闇を貫いてゆく。
全てが震えながら凍り付いてゆくような様を思い描きながら、橋の向こうにさらに濃い闇が降りてくるのを感じていた。
それは星の無い夜空が地上へと墜落してきたような様であり、また漆黒で巨大な獣が大地をゆっくり這い進んでいるかのようであった。
そしてその黒い黒い大きな闇の中に浮かび上がる凶星のように、ぽつりぽつりと。
白い顔が浮かびあがってゆく。
おとこの顔、おんなの顔、老いた顔、若い顔。
どの顔も一様に白く、そして傷跡のようにひきつれた紅い口を飢えでゆがませており。
闇に覆われたその身体は病み崩れていっているように、ぞわぞわと蠢めいていた。
それは無数の長虫が闇の中で動き回っているようでもあり、巨大な黒い獣がぶるぶると全身を震わせているようでもる。
闇に浮かぶのはひとの顔だけではなく、獣たちの顔もあった。
どれも鬼火のように瞳を輝かせており、焔が内から漏れているかのような紅い口からは、透明な涎がたらたらと滴っている。
闇に覆われたその身体は捩れ病み崩れぐねぐねと蠢めいていた。
闇が発している声にならぬ叫びは夜の闇を震わせながら、渡ってゆく。
黒い焔で世界を燃え上がらせてゆくように、そして水面に落ちた水滴の波紋が広がってゆくように。
闇の歌ううたが世界を覆いはじめていた。
(百鬼夜行とは)
おれは、茫然としてこころの中で呟く。
(この今の世に、そのようなものと出くわすとはな)
おれは、膝丸を構えてみたが、いかな膝丸とて喰いきれぬであろう闇がそこにはあり、そしてその闇は間違いなくおれを呑み込むのであろうけれど、そうだというのに。
そうだというのに、おれの口元には自然と笑みがこぼれてしまうのだ。
ああ、今宵おれは斬り喰らいその陶酔の中で喜びに震えながら、死にゆくのだと思いながら。
存分に斬れるのだという喜びこそがおれを、貫いていたのだ。
そのとき、背中を火で炙られるような強烈な気配を感じて振り向く。
そこには、長身のおとこがいた。
大きな黒い蝙蝠傘を手にしており、自身の身体も蝙蝠のように漆黒の長衣で覆っている背の高いおとこが。
狩人の冷徹な瞳をポーラスターのように輝かせ、そしておれと同じ笑みを浮かべたおとこが。
足早におれの傍らを通りすぎると、黒い蝙蝠傘から剛剣を抜き放ち。
一切の躊躇なく、百鬼夜行の群れの中へと斬り込んでいった。
それは闇の中へと、鋼の嵐が食い込んで行ったかのようである。
おとこの手にした剛剣は、黒い紙を斬り刻むように闇を。
あるいは、群れた「もの」か「かみ」かあるいは「おに」のたぐいを。
斬り捨て、貪るように命を喰らいながら、鉄の匂いを放つ血を迸らせて砕かれた骨を肉を大地に零れさせる。
長身のおとこの哄笑が響き、剛剣の放つ歌が夜を渡ってゆく。
おとこはひとも獣も別け隔てなく斬り刻みながら、おれを振り向くと声をかけてくる。
「おまえは見てるだけか? おまえの分が無くなるぞ」
おれは苦笑して、膝丸を肩に担ぐと長身のおとこの隣へと、斬り込んでいった。
夕陽のように深紅に染め上がる口を大きく開き、短剣のように鋭く輝く牙を剥き出しにした白面のおにを。
おれは上段より膝丸を斬り下ろし、一刀両断にする。
沈みゆく太陽より紅い血を迸しらせ、おとこのおには呪咀の声をあげながらおれに手をのばそうとした。
膝丸はそのおにの内側へと食い込んでゆき貪るように命を吸いとってゆく。
膝丸は喜びの歌を奏でた。
おれは長身のおとこの剣を見ながら、声をかける。
「驚いたな。 そいつは骨喰みじゃあないか」
長身のおとこは、斬る手を休めぬまま答える。
「よく知ってるな」
おれは苦笑する。
それほどの銘剣を知らぬはずがない。
二振りの剣は、共に歌い声を上げながら闇より出でしおにたちを、斬り喰らいその血を命をすする。
しかし、百鬼夜行の群れはとどまることを知らず、夜は終わりを迎えることを忘れ。
闇の群れは、いつしかおれと骨喰みのおとこを取り囲んでいた。
世界は闇に塗り尽くされ黒い焔が放つ気が空気を覆いつくし、白面のおにたちが歌う呪咀の歌があたりを満たしていく。
骨喰みのおとこはおれと背中をあわせ、声をかけてくる。
「おい、まさか疲れてきたとかいわねぇよな」
おれの腕は悲鳴をあげており、膝丸も血脂に塗れその斬れ味はかなり鈍ってはいたが。
それでもおれは酔ったように笑みを浮かべたままであった。
「あんたこそ、ここに来たときの勢いがないぜ」
「まあな」
驚いたことに、骨喰みのおとこは肯定したが、口調はあくまでも楽しげであった。
「少しばかり、譲ってやる必要があると思ってな。 あまりがっつきすぎるとろくなことにならない」
「譲るって」
おれは思わず問い返す。
「誰に?」
弦の掻き鳴らされる音が、闇を切り裂いた。
闇が、白面のおにたちが紅く瞳を燃え上がらせた獣たちが、ゆらゆらと動き道を作る。
闇の切れ目の向こうに、白衣のおとこがいた。
手にした琵琶を掻き鳴らしながら、おれたちのもとへ近づいてくる。
白衣のおとこは端正な顔に涼しげな笑みを浮かべたまま、琵琶を鳴らし続けていたが。
おれたちの傍らについたときに、手をとめると楽器の中に仕込んであった剣を抜き放つ。
それは、荒野にかかる月のように孤独な輝きをまといつつ、それでありながら見るもののこころを奪いその目を釘付けにしていまうような。
美しい剣であった。
「童子斬りか」
おれの呟きに、白衣のおとこは整った顔を頷いて見せる。
骨喰みのおとこは、笑いながら言った。
「おそいじゃあねえか、土御門。 うっかり全部くっちまうところだったぜ」
白衣のおとこは苦笑する。
「そんな息のあがった顔をしてよく言いますね」
白面のおにたちは、そして紅い瞳の獣たちは闇に包まれた身体を震わせながら、呪いの雄叫びをあげてゆく。
彼らも知っているのだろう。
童子斬りがいかに多くのおにを、ものを、かみを葬ってきたものであるのかを。
白衣のおとこめがけて、白面のおにたちが唸りをあげて襲いかかる。
童子斬りは夜空を疾る彗星のように、闇を斬り、おにたちの身体を両断してゆく。
紅い血が飛び散ろうとも、おにたちが崩れ落ちていこうとも。
童子斬りは夜空に瞬く北斗七星のように、冷めた美しい輝きを放ち続けており。
白面のおにたちは、憎しみの声を投げ掛けてくる。
おれも骨喰みのおとこも、辛うじて息を整える余裕ができたものの、おれたちを取り囲む闇の濃さはさらに深く、さらに凶悪さを増してゆくような気がし。
おそらくおれたちにさらに童子斬りが加わったとて、おれたちが闇に呑まれる運命は変わらないとは思ったものの。
おれは自分の口元から笑みを消すことは、できなかった。
「そろそろかな」
唐突に、骨喰みのおとこが言った。
「そろそろですね」
おれは、訳がわからず問いかける。
「なんなんだよ、いったい」
白衣のおとこが、祈りを捧げるような厳かな声でおれの問いに答える。
「魔を喰らう魔がやってくるんです」
なんだってと問い返そうとしたとき、闇が動いた。
おれは、風に揺らされるようにざわざわと動いてゆく闇に、怯えを感じる。
何かがくるということか。
百鬼夜行のおにたちすら、怯えさせることができるような。
そう、魔を喰らう魔。
闇を呑み込むような、さらに濃く深い闇。
それが、やってくる。
闇が、白面のおにが後ずさってゆく。
闇が割れて、その向こうに黒いひと影が見えた。
黒の着流しに、無造作に刀を腰にさしている。
廃刀令がでて間もないが、剥き出しの刀を腰にさすとは正気の沙汰ではない。
そしてその黒の着流しのひとは、おんなであった。
陶器のように白く滑らかな肌に、桜色の花びらのように艶やかな唇が貼り付いている。
夜の太陽のように黒く輝く瞳は、闇をさらに暗い闇色の光でもって切り裂き貫いていた。
おれはそのおんなの腰に無造作にさされた刀を見る。
鞘に納められた状態でもだいたいは、それがなんであるかは見当がついた。
あれは。
「あれは、村正ですよ」
白衣のおとこは、おれのこころを読んだように、言葉を放つ。
「ただのをつけても、かまいません」
確かに、童子斬りのような刀とくらべると、ただのなのかもしれないが、しかし。
「あれが、ただのだって」
「 村正は、呪いの刀だと言われている。ただ、実際に村正に呪いがかけられているということはない。 それはただの風評だ」
骨喰みのおとこが、おれの言葉に答える。
「けれど、あの村正は別だ。あれは、持つもののこころを狂わせる力がある」
おれには、声が聞こえるきがした。
鞘の中にいながらにして、狂おしい叫びをあげている。
あの刀は、斬るために生まれてきたのだ。
命を喰らうためにこそ、つくられたそれは。
身を捩らせながら、持つもののこころを喰らいつくすような声をあげ続ける。
あれは、ただの村正ではない。
そして、それを持つあの着流しのおんなも。
まぎれもない、魔であった。
おんなは、おれたちのそばをとおり過ぎてゆく。
闇はおんなから逃れようとするように、ずるずると後ずさってゆき橋の向こう側で凝固しつつある。
蒼白いおにたちの顔は姿を消して、闇の塊になりつつあった。
それは、漆黒の翼を持つ鳥のようでもあり。
蛇のような尾を幾本も持ち。
獣のような足を幾つも持つ。
不定形で異形の怪物であった。
その、闇のなかからひとつの黒い顔が姿を現す。
怪物は、おんなに声をかける。
(おまえは、なんという名だ)
おんなは、嘲るように口を歪める。
「ひとに名を問うのであれば、まず自らが名乗るものだろう」
闇は何枚もある翼を震わせながら、蛇のように幾本ものをのたくらせながら。
笑い声をあげる。
(わたしが名をなぜ、ひとに告げねばならぬ)
「では、あたしから言おう。おまえは鵺だ」
闇は少し身を捩らせた。
白衣のおとこは、ため息をつく。
「これで、闇は名に縛られましたが」
骨喰みのおとこが後をとる。
「あれでは、斬れねぇな」
おんなは、鵺の名に縛られた闇に声をかける。
その姿は。
子供のように華奢に見え、その手足はとても刀を振るえるようには見えぬほど細くたおやかなものであり。
美しく整った顔は凛としていたが、おんならしい艶やかさが存分にある。
けれども。
間違いなく、その内には村正の叫ぶ世界を切り崩そうかというような声が谺しており。
刀に愛されたものがもつ、狂おしいまでの情念が渦巻いているのが判った。
おんなは、笑みを浮かべ闇に語りかける。
「では、あたしの名を教えてやろう、鵺」
鵺は、その姿を鳥のように獣のように、あるいは蛇のように変化しうごめきながら。
おんなのまえに、立つ。
「あたしの名は、百鬼さ」
鵺は、不吉な叫び声をあげながら、何枚もあろうかという翼を羽ばたかせる。
(なぜ、ひとごときが百鬼と名乗るか)
「気に入らぬか、鵺。 では、あたしを黙らせてみればどうかな」
鵺が百鬼と名乗るおんなに襲いかかろうとしたときに、百鬼はすらりと村正を抜いた。
おれは。
その刀身が放つ輝きを見て、言い様のない戦慄を感じた。
それは、この世界の奥底まで貫き切り裂くことができるような。
それは、たとえ闇やおにのような存在であってもその深淵まで貫いてしまうであろうような。
そんな輝きであった。
百鬼の持つ村正の放つ光が、鵺に浴びせられる。
鵺はその残酷な夜明けの日差しを真似たような光の中で、さらに変化をを続けひとつの姿をとった。
漆黒の翼をもち、おんなの顔をもつひとの姿。
百鬼は満足げに笑みを見せる。
「鵺よ、おまえがかみであれ、おにであれ。ひとの姿をとればひとの理に縛られるのだ。そうであれば、あたしは」
百鬼の持つ村正が流星のように、闇を切り裂いた。
「斬ることができるのさ」
いつしか東の空が火を放たれたように紅く燃え上がっており。
その赤い陽射しのもとで、一羽の黒い鳥が。
首を切り落とされ、大地に血を流していた。
そして百鬼は村正を鞘へ納めた。
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