ハルピュイア
闇が密やかに息をしているような、その部屋で。
わたしは、その夜のようなおとことともに、朝がくるのを待っていたのです。
薄く朱に染まった行灯に照らされたおとこは、星をも飲み込む夜空のような闇色の着流しを纏い。
そして、その刀を。
深夜を渡る禍つ星のように不吉な気配を秘めた、その刀を。
愛しき伴侶のように、自身の傍らに置き闇のなかの影のように。
静かに、座っておりました。
おそらく、東の空がほんの僅かに朱を交えた光を、孕ませつつあったころに。
おとこは、わたしに向かって唐突に口を開いたのです。
「夜明けまでには、もう少し間がある」
おとこは整ってはいますが、これといって特徴のない、とらえどころがないその顔をわたしに向けると、こういいました。
「何か、話をしてくれ」
わたしは、一体なんの話をしたものかと少し考えましたが。
遠い昔に、異国のひとに聞いた神話のはなしをすることにしたのです。
「この世がはじまったとき、まだおんなはいなかったということです」
「ほう」
おとこは、さして興味をそそられた風にも見えなかったのですが、無言のまま続きを促しました。
わたしは。
遠い記憶をたぐるようにして、言葉を闇の中へと積み重ねていったのです。
「ひとは、神が大切にしていた宝を盗んだといわれています。だから神は、罰としてあるものをひとに贈ることとしました。それが」
ゆうらりと。
行灯の朱い火が産み出す影が、壁で揺れました。
「おんなであったということです」
「ほう」
おとこは、相変わらず聞いているのかどうかすら判らぬ表情で、先を促しました。
「おんなは、ぱんどら。そんな名であったそうです。おんなは、神から授けられた箱を携えてひとの元へとやってきました。おんなは自らの持ってきた箱を、決してひらいてはいけないと言われておりましたが、なぜかおんなはその箱を開きます」
「ふん」
おとこはどこか眠たげに、頷きました。
「箱には神が詰め込んだあらゆる災厄がつめられておりました。妬み、憎しみ、哀しみ、嫉妬。それらが箱から解き放たれて、この世に満ち溢れたのです。けれど」
わたしは、反応がないおとこに、影にむかって独り言を重ねているような気持ちになったのですが。
その物語の結末を、語りました。
「箱の底に、ひとつだけ残されたものがありました。それは希望です」
おとこは、すっと闇の中へ身を退かせ、かんばせを影でおおいました。
「それで終わりなのか、その話は」
「ええ、終わりです。そうなのですが」
おとこは、再び興味を持ったのか、その無表情な顔を灯りの前に、さらします。
「何かあるのか?」
「いいえ、そういうわけではないのですが。わたしにこの話をした異国のひとは、こんな異譚があると語っておりました」
わたしは、夜のようなおとこに向けて、さらに言葉を重ねます。
「神は、ひとを祝福するための贈り物として、おんなを贈ったというのです。ですからおんなの携えていた箱にはいっていたのは災厄などではなく、本当の宝でした。けれど、それはおんなの不注意により失われてしまうのですが。箱の底に希望が残っていたという結末は同じです」
わたしは、さらに闇の中へ言葉を投げ出してゆきます。
果たして、受け取られているのかどうか判らない言葉を、重ねます。
「このふたつの物語で、おんなは正反対のものとして描かれます。災厄をひとにもたらす悪魔であるか。祝福をひとにもたらす天使であるか。おんなはひとにとって悪魔であったり天使であったりするということを、示しているようです」
わたしは。
影のように闇の中に座っているおとこに、その問いをなげかけました。
「あなたは、どう思っておられるのでしょう。おんなが悪魔であるか、天使であるのか」
そのとき、星のない夜の果てで、そっと風がわたるように。
おとこが笑みをその無表情なかんばせに、浮かべたように思えたのです。
「悪魔であるか天使であるかは、神にとっての都合にすぎない。おれにそんなものは、関係ないさ。ただ」
「ただ?」
わたしは闇の中で、おとこの薄い唇が歪むのをみたようにも、思えるのです。
あたかも。
楽しげといっても、いいふうに。
「神がもし、おれに害をなすのであればすることは決まっている」
「決まって、いるのですか」
おとこは、昏く頷く。
「斬るだけだよ」
そういい放つと、再び沈黙の中へと沈んでゆきました。
このまま、朝をまつのかとわたしは思いましたが。
唐突に、その黒い影のようなおとこは立ち上がりました。
不吉な歌を聞こえない声で歌っているような、刀を腰にさします。
「夜が明けるのですか?」
「夜はまだ続くが。朝とは違うものが来たようだ」
「ちがうもの」
おとこは頷くと、障子を開き外へでます。
東の空は微かに朱にそまりつつありましたが、空はまだ昏く海の底のような深い藍で、天空を覆っておりました。
わたしは、墜ちてきた夜空ようなおとこの眼差しを追って、空を見上げます。
そこに繰り広げられる景色を見て、わたしは息をのみました。
星が、メェルシュトロオムに巻き込まれたように、渦巻いているのです。
空の天頂部に風穴があき、全てを吸い込んでいこうとしているかのようでした。
そして、その渦巻く夜空の中心から何か黒い塊が、落ちてこようとしています。
それは、夜が何かを産み落とそうしているかのように、見えました。
その塊は、夜空からゆっくりと降りてきます。
それは、箱でした。
家くらいの大きさはある、大きな箱です。
それは、夜の闇の中を、影の中を影がとおりぬけてゆくように、降りてきました。
微かに星明かりのあるその平地へ、四角く切り抜いた夜空のような黒い箱が降りたちます。
おとこは、影のようにその空から墜ちてきた箱の前に佇んでいました。
そして、箱に朱の亀裂が走ります。
夜のように黒い箱に、赤い入り口が開きました。
おとこは、無造作にその入り口へ向かって歩いてゆきます。
わたしも、その後に続きました。
その箱の中は、赤黒い闇です。
闇の中に紅い光がさしこんでおり、あたかも、夜の湖へ紅い血を流したように見える部屋でした。
おとこは、腰で血に飢えた啜り泣きをしている刀に手をかけます。
それと同時に、闇の中へ白いかんばせが浮かびあがりました。
それは、百合の花のように白いおんなのかんばせです。
その身体は、闇の中へ溶け込み部屋の中を渦巻いているかのようでした。
おとこは。
荒野を渡る風のような声で、その花のように儚く美しいかんばせに問いを投げます。
「おまえは、なんだ」
「迎えにきたのさ。黄泉のくにからね」
「おまえは」
おとこは、薄く笑みを浮かべたおんなのかんばせへ、さらに問いを重ねます。
「冥界と現世を飛び交う、鳥だというのか」
おんなのかんばせは、そっと笑みをうかべました。
「そうだね、あたしはハルピュイア。ひとの生命を喰らい、その魂を冥界へと持ち去る」
「おまえの所望は」
おとこは、影のように昏い姿を一歩進めます。
「おれの生命だというのか」
闇が大きな鳥の翼が羽搏くように、幾度かゆれました。
黒い風のようなものが、わたしたちのそばを吹き抜けてゆきます。
「まずは、そうさね。おまえの名をもらおうか」
白いおんなのかんばせは、薔薇のように真っ赤な口を開いて笑います。
「おれは」
おとこは死のように暗く静かな声で、おんなの問いに答えます。
「百鬼、という」
おんなの目が、昏くつりあがった。
「たかが、ひと風情がその名を名乗るか」
「それと」
おとこは、刀を抜き放ちます。
夜空を渡る流星のような輝きを放つその刀を、地に対して水平に構えると、おとこは言葉を重ねました。
「おまえの名も、くれてやる」
刀は、血に飢えた歌をうたっています。
それは、ひとを殺すためだけに産まれてきたものがもつ、純粋といってもいいであろう剥き出しの欲望でした。
おんなは怒りのあまり、深紅に染まった瞳でわたしたちを睨みつけます。
「おまえは鵺だ」
その瞬間刀は、絶叫をあげるように激しい光を放ち、わたしは恐ろしくて思わず目を閉じました。
わたしが再び目を見開いたとき。
そこには、漆黒の着物に朱色の羽が舞い散る様を描いた着物をきたおんながおりました。
おんなは、手を広げ叫びます。
着物の袖が、翼のように闇の中で翻りました。
「たかがひとごときが、あたしを斬るというのか」
「おまえが悪魔であれ、天使であれ、おんなであれ、ひとの姿をとるのであればひとの理に縛られる。だから」
それは、一瞬のことでした。
刀は、夜を、闇を彗星のように切り裂くと。
おんなの肩から腰に向かって斬り下ろしました。
その残酷な歌は、狂おしい欲望の雄叫びとなり闇を満たします。
「おれは斬ることができる」
おとこはゆらりと踵を返すと、箱の外へと向かいました。
わたしは。
それが、悪魔であれ、天使であれ、おんなであれ、ひとであれ、かみであれ。
猛り狂う死の前では。
等しく頭を垂れるのだと。
そんなふうに、思いました。
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