輝くもの天から堕ち
あたしは、いつものように。
死衣のような白い服を身に着けて。
死神のような漆黒の着流しを着たそのおとこの腕に抱かれておりました。
夜のときは、目の前に流れる大きく黒い河のようにゆるゆると。
そう静に密やかにゆうるりと。
流れてゆくのです。
おとことあたしの前には、紅く身もだえするように千変万化に姿を変えてゆく焔が。
ゆらゆらと燃えておりました。
あたしといえば、そのおとこの腕の中はとてもここちよく、本当に夢の中にいるのでしょうかと思ってしまい。
ああ、本当にすべては夢の中でおこっているというかのように心地よく、美しく。
そしてあたりには不思議なことに甘やかな香りがただよっておりました。
空高く輝く星々は砕いて散りばめられた宝石だとでも言うかのように色とりどりに光っており、規則正しく目にも綾な文様を描いて動いてゆき。
はあ、と思わずため息をついてしまうような美しさでありました。
漆黒の鞘に納めた刀を傍らにおいたままあたしを抱いていたそのおとこは、ふっと笑みを浮かべると言葉を漏らします。
「おまえは、本当にいいおんなだ。美しく、そして何より抱きごごちがいい」
あたしは思わず笑ってしまい、おとこの目を覗き込みました。
「誰にでも、そういうことをおっしゃるのでしょうね」
「いや」
おとこは思いのほかまじめに答えたので、あたしはその言葉にまた笑ってしまいました。
「おれは、嘘を吐いたりはしないさ。おまえはいいおんなだよ。そう思う」
あたしとおとこは、そうしてゆるやかに流れ行くときに身をゆだねておりましたが。
それがあまりに心地よく、美しいときであったので。
どうしてもあたしとそのおとこは偽りの香りを嗅いでしまうのです。
そう、誰かがあたしたちを虜にするためにこの全てを用意したのだと。
そういう思いに囚われてしまうのです。
「ここはどこなのでしょう」
あたしの言葉に、おとこは無言のままでしたがあたしは構わず言葉を重ねます。
「ほら、あの星たちは今まで見たこともないような徴を空に描いております」
ふっ、とおとこは笑みをもらします。
いつあたしがそのことを言い出すのかを待っていたかのように。
「あなた様はお気づきでしょうけれど、あたしたちの周りの景色はもう何日も変わっておりません。ずっとこの河ぞいを歩いているのに」
そう。
あたしたちは、河ぞいの道をたどって隣の国へとゆくつもりでした。
ほんの数日程度の道のりだったはずですのに。
あたしたちは一体どれだけの日々をこの河の傍らで過ごしてきたのでしょうか。
あるいは、その目の前を流れる大きな黒い河があたしたちを虜にしているとでもいうのでしょうか。
おとこはあたしの言葉に答えることはなく、ゆらっと黒い影の姿で立ち上がります。
夜の闇に溶け込んでゆく物の怪ともみえるおとこは、手に刀を提げると河に向かって歩き出しました。
もう。
もういいだろう、十分だ。
おとこのそういう呟きが聞こえましたような、いいえあるいはそれはあたしの耳もとで風が囁いただけであったような。
けれど、おとこはあきらかにもう姿を現してもいいぞと河に向かって語りかけているようで。
あたしは慌てておとこの隣に並びますと。
河があたしを待ってくれていたように。
真っ白な、それは白雪を撒き散らしたような泡を立てて。
川面を盛り上げはじめたのです。
おお。
おうとも、本当の姿をおまえたちに見せてやろうぞ。
そんな河の言葉が聞こえるようで。
百もの魚たちが暴れ踊り狂っているかのように、川面は生き物みたいに盛り上がっていきました。
やがて漆黒の河は、巨獣が身体を真二つに裂くようにその川面を切り裂いて。
大きく夜のように黒い船が姿を現したのです。
塔のように空に向かって聳える帆柱が夜空を貫いて、そこにかけられたぼろのような帆も影のように黒く。
ああ、夜から切り抜かれたように船は河の底から突然姿を現したのです。
無造作に船に向かって歩み始めたおとこに、あたしは叫んだ。
「だめです、いってはいけません」
そう言わずにおられぬほど、その船はあたかも物語の中でだけ語られるものかのようなあからさまな不吉さを、全身に纏っておりました。
踏み込めば二度と戻ってこれぬばかりでなく、わずかに残っているひととしての矜持も根こそぎ奪い取られものいわぬ石と化してしまうのではというような、その黒々とした不吉さにあたしは顔を歪めつつ。
おとこの後に続いて船に乗り込みました。
母に抱かれたように優しく船はあたしたちを招きいれ、ゆりかごの中みたいにゆらゆらとあたしたちを揺らしておりましたが。
その凶悪さは燃え盛る焔のようにあたりを支配しており。
あたしはおとこの顔に浮かぶ魔物のような笑みに、ぞっと肌を粟立たせつつ。
そこに立ち尽くしてしまいました。
おんと。
おおーんと。
夜と闇が啼くと、そのものたちが船底から現れてきました。
黒き肌のひとと獣が混淆してつくりあげられたような妖物たち、闇に棲まうものたち。
(エモノガカカッタ)
(エモノガカカッタ)
(アノカタニササゲナケレバ)
(アノカタニササゲナケレバ)
(チヲススリミヲサイテ)
(チヲススリミヲサイテ)
(シロキホネヲツキノヒカリニサラシテ)
(シロキホネヲツキノヒカリニサラシテ)
(アノカタニ)
(アノカタニ)
(ササゲナケレバ)
(ササゲナケレバ)
わらわらと何体も何体も、いったい船底にどれだけ潜んでいたのだろうかと。
思わず息を呑むほどにひとの形をしながらひととは思えぬその妖物たちは、甲板を埋めていったのです。
そのおとこは、鬼神のように恐ろしく強いおとこだと知っておりましたが流石にこのようなひとでなきものの群れに対してもおくれをとらないだろうかと。
あたしは不安にかられ、おとこを見つめておりましたが。
おとこは薄く笑みを浮かべたまま、無造作に刀を抜き放つと。
いつものように刀身を下に向け、地面に対し水平に刀を持つという独特な構えをとり。
そして、その刀をああまるで、夜を切り裂く彗星みたいに輝かせはじめたので。
あたしは慌ててその刀から目をそらしたのです。
妖物たちは、その輝きに魅了され刀が放つ光によって。
目からこころを犯すようにはいってきたその輝きに、あたまの中を蹂躙されると。
ひくひくと踊りだすように身体揺り動かしはじめたのでした。
そのあとおとこは屠殺場で家畜を切り殺すもののように、無造作に刀を振るって妖物たちを殺していったのです。
妖物たちの血は黒く、泥のように甲板をぬらしてゆきあたかもその船は沼地みたいに湿ってぬかるんでいきました。
おとこは、少し笑みを口の端に貼り付けたまま血で汚れた刀を丁寧に拭ってしまい。
船室の扉に向かって歩いてゆきます。
そこは、そう異世界へと開く扉であることを示すように歪んだ気配を放ち蒼ざめた光を見せていたのですが。
おとこはそんなことにはまるで頓着せず、あたしは思わず黒の着流しの背中を掴んで留めようとしたのですがそんなことには一切お構いなしで。
自分の家へ帰るひとのように、平然と扉の向こうへ踏み込んだのです。
蒼ざめた光は縦に切り裂かれ。
血のように。
本当に真紅の血みたいな。
紅い紅い着物を纏ったおんなが、立っておりました。
「驚いた」
紅いおんなは、薔薇の花みたいに紅く染まった唇をそっと歪めると、こう言ったのです。
「骨になる前の生きたひとをこの部屋に入れるなんて、あの子たちは何をしてるんだろう」
おとこは、つまらなそうにそれに答えます。
「おまえのいうあの子たちなら、皆死んでしまったよ」
おんなは大輪の花を咲かせるように目を見開いた後に、けらけらと笑いながらいいました。
「おまえは、ひとでありながらあの怪しどもを斬ったとでもおいいなのかい」
おとこは抜き身の刀を肩に担いだまま、ふっと笑いました。
「ひとでなくとも、ひとの姿をしたものであればひととしての理に縛られる。そうであればおれは」
刀をすっとおんなに向けました。
「神であろうと斬ることができる」
紅いおんなは、もう一度おおきく目を見開くと。
本当にに嬉しそうに楽しそうに笑い出して、その笑いは真紅の水となって溢れ出してゆき。
あっと気がついたときにはあたしもあとこも真紅の水の底に沈んでいたのです。
おとこは紅い水の中で、黒い海草のようにゆらゆらと揺れておりましたが、紅い水は凶暴な放流となっておとこに襲い掛かるとその手から刀を奪い取ると。
紅いおんなの手の中へと抱きしめられていったのです。
そうしてあたしとおとこは、空からそれが墜ちてくるのを見ていました。
あたしには。
そして多分おとこにも。
それが、紅いおんなの本体であることが判りました。
それは真紅の水晶であるかのように。
放射状に透明な剣を思わせる刺を四方八方へと伸ばしており。
死せる獣が大地にこぼしてゆく血のように赤い光を、透明な剣のような刺へと漲らせてゆき。
紅いおんなはけらけらと笑いながら、そのとほうもなく巨大な紅い水晶の結晶みたいな星の欠片のような輝くものを地上へと降ろしてくるのです。
あたしもおとこも、その巨大な結晶体が生きているかのようにあたしたちを喰らうであろうことは、なんとなく理解できたのですが。
幾千もの奔馬が駆け巡っている紅い水の渦に飲み込まれておりましたから身動きをとることもできず、おとこにいったてはたのみの刀も失ってしまった状態なので。
あたしは赤黒い闇の向こうにある死という凶悪な顎へと噛み砕かれてゆくのであろうと観念したのです。
そのとき。
おとこは無造作にあたしの腕をつかみますと。
あたしにこう囁きかけたのです。
(おまえが、おれの刀になれ)
一体どういうことと問いかけるよりも前に。
七色に輝く荒れ狂う光の放流があたしの中へと押し入ってきたのです。
無理やりあたしの奥深くを蹂躙し、貪ってゆくかのような荒々しい光の力は。
それでもこの世のものとは思えぬほど、幾千の虹を貼り合わせたように美しかったのですが。
そうそれこそが。
神をも斬る無慈悲な力であることは理解できました。
あたしはおとこの意思を感じ取ると、巨大な紅い水晶を見つめたのです。
たちまちに。
硝子細工を地面に叩き付けたように。
けれどそれはゆっくりと。
そう、そよ風に崩されてゆく砂に描かれた文様のように。
ゆるゆると溶けていくみたいに。
砕けて。
壊れて。
無数の紅いかけらに砕かれて。
透明な雪がはらはらと降り注ぐように。
硝子の花びらが舞い散るように。
ひらりひらりと地上へと落ちてゆき。
ああ。
気がつくと。
あたしは元の河べりで。
おとこの腕に抱かれながら、夢見心地で燃える焔を見つめていたのでした。
そう、全ては夢の中であるかのようにここちよくて。
そしておとこはそっと笑うと。
あたしにこういったのです。
「おまえはやっぱり、いいおんなだな」
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