第10話 不幸は誰かに押しつけろ3

 下宿先のマンションには何事もなく到着した。


 あの男とのトラブルが本格的になっているいま現在、暗くなってからの時間の帰路には充分に気をつけなければならない。


 今のところ、下宿先に押しかけてきたり、不法侵入されるなどの被害は受けていないが、いつそのようなことが起こってもおかしくないだろう。今まで似たようなタイプから似たような被害を受けてきた経験からそれはわかっている。


 そして、警察は物理的な被害が発生しない限り、あまりあてにならないということも。だから、現段階では自分の身は自分で守らなければならない。無論、それにも限界はあるのだが。


 不法侵入などの被害を受けていないのは恐らく、私の下宿先が女子学生限定で、なおかつ男性の立ち入りをかなり厳しく制限しているからだろう。なにしろ家族ですら受付でちゃんとチェックを済まさないと入れてもらえないのだ。自称彼氏が来たところで入れるわけがない。


 が、それでも心配が消えることはない。厳しく男性の立ち入りを禁じているといっても、それだって完璧ではないからだ。入ろうと思えば入れないことはない。まあ、あの低脳極まりないあいつにそれができるとは思えないが。


 鍵を開けて中に入り、部屋の明かりをつけて不審な点はないか確認をする。ひと通り確信して、知らない間の誰かが侵入していないことがわかってひと息つき、外出している間、張りつめていなければならない緊張をやっと解くことができた。


 本当にどうしたものだろうか。


 当然、この件はすでに近くの警察署に相談しているものの、今のところメッセージアプリで復縁を迫る程度に留まっているので、警察の力を借りるのも難しい。


 しかし、今までのあまり嬉しくもないし褒められたものでもない経験から、放置しておくわけにもいかないというのが現実である。できることならこちらから出向いてぶっ殺してやりたいところだが、法治国家である日本でそんなことをすれば罪を問われるのは私の方だ。ストーカー行為を受けていたので、本格的に被害が増えると困るので、その前に殺しましたなんていう論理が通用するわけがない。そんなことをすれば完全にサイコパス扱いである。


 そこで、あの店で提供されたもののことを思い出した。鞄からニ十センチほどの大きさの長方形の箱を取り出す。箱はなんの模様もない簡素なものだ。この箱になにが入っているのかわからないが、あの主人の話では私の身の上をどうにかできるものらしい。


 どうせならあの男をどうにかできるものをもらえばよかっただろうか――と思ったが、すぐにそのことはちょっと難しいと言っていたことを思い出した。


 これは現時点の問題――粘着してくるあの男――をどうにかするものではなく、私を支配している(恐らく今後も)やたらと変な男に引っかかるというのをどうにかするものだとあの店の主人は言っていた。


 果たしてそれは本当なのだろうか――今さらになってそのことに疑いを持ちつつも、相変わらず根拠のない確信を抱いているのもまた事実だった。


 心音が高鳴るのを感じながら箱を開ける。


 なにかわけのわからないものが入っているのかと思いきや、その中に入っていたのはゲームに出てくる西洋剣をあしらったペンダントのようなものだった。


 意外にも――というかどこを見ても普通のものにしか見えない。これが本当に私の不幸な身の上をどうにかできるものなのだろうか――やはり私はあの主人に騙されてしまったのか――など色々なことが頭の中を駆け巡る。


 すると、ペンダントの下に小さな紙束が入っているのに気づいた。その紙束には『不幸分配の呪い剣、使用説明書。使用する前に必ず読んでください』と書かれている。


 そういえばあの主人は必ず説明書を読めと言っていたことを思い出し、一度ペンダントを横に置いて、その紙を取って中を開く。


  不幸分配の呪い剣使用説明書および使用上の注意


  鞘に収まっている剣は抜くことができます。

  鞘から抜いた剣を自分以外に誰かに刺すと、使用者の不幸を強制的に分配できます。

  分配の比率は使用者本人に突き刺した相手の数で割ったものになります。

  抜いた剣を誰かに刺さずに放置しておくと自動的に消失します。

  鞘は抜かれた状態のまま一分経過すると自動的に剣が補充されます。

  刺した剣は対象には原則的に見ることはできず、触ることもできません。

  刺した剣は原則的に刺した本人が意図的に抜こうとしない限り抜けません。

  この剣には一切殺傷能力がありません。安心してお使いください。

  この剣はすでに刺さっている相手には効果は発揮しません。

  刺した人間と同じ種の生物でなければ効果を発揮しません。

  この剣を一度でも使用した場合、必ずかけた呪いが使用者に返される危険があります。

  返ってくる呪いの大きさは剣を使用した数に比例します。

  返ってくる呪いによって受けた被害に関して、当該は一切の責任を負いません。

  以上の事項に了解できた場合にのみ使用ください。

  なお使用する場合は一度剣を抜き、自分の身体に刺したのち鞘に戻してください。


 紙束にこのようなことが書かれていた。文字こそ小さいものの、書かれている内容は非常にわかりやすい。いまの時代これほど簡潔に書かれた使用説明書など珍しいのではないか、とさえ思うほどである。


 紙束を箱に戻して、再びペンダントを手に取る。


 本当にこれが説明書に書かれているようなものなのだろうか――一軒は金属製のお洒落なペンダントにしか見えないが――


 そう思って、まずは剣を鞘から抜いてみることにした。説明書によればこれは抜くことができるらしいが……。


 小さいながらも重厚さを持つ西洋剣の柄の部分を持って引っ張ると、あっさりと抜くことができた。


「おお……」


 このようなアクセサリーにはあまり興味を持っていなかったが、思わずそんな声が出てしまった。そのような声が漏れてしまったのは説明書通りに剣が抜けたからではなく、抜いた剣がすごく精巧なものであったからだ。


 無骨ながらもどこか洗練さを持ち、どこにも錆も曇りもなく銀色に輝く刃。これが五センチほどの大きさしかないのを忘れてしまいそうなほどの迫力を持っている。映画に出てくる暗殺者ならば、これでも誰か殺せるのではないか、とさえ思えてしまう。


 そこで、この剣には一切の殺傷能力はない、という説明書の一文を思い出した。


 しかし、本当に殺傷能力がないのだろうか。とてもそのようには見えない。思い切り突き刺せば目くらいなら簡単に潰せそうだけど――


 それを想像すると少し怖くなって、そそくさと抜いた剣を鞘に戻してしまった。

 だが、剣を抜くことができるという説明書の記述は偽りではない。


 抜いた剣は放置しておくと消失すると書いてなかっただろうか。説明書に書かれていることをいまできる範囲で試してみよう。そう思って、先ほど鞘に戻した剣を今度は恐る恐るそっと抜き、目の前の床へ置いた。


 抜いた剣をじっと注視する。説明書の通りこのまま放置しておくと剣は消失するのだろうか。とてもそのようには思えない。それくらいこの剣は存在感を有している。


 三十秒。抜かれた剣は消える気配などとても見えない。ついさっき抜いたときと同じく刃は曇りなく銀色に輝いている。やはり消えそうにない。


 四十五秒。置かれた剣はまだその場にしっかりと残っている。

 残り十秒。九、八、七、六、五、四、三、二、一……。


 零、と数えたところで目の前にある剣に異変が起こった。つい何秒か前まで重厚な存在感を持っていた剣が急に蜃気楼かなにかのように薄くなり、五秒と経たずにそのまま消えてしまったのだ。剣が置かれていた場所に思わず手を伸ばすが、そこに触れられる感触は一切なかった。何度も剣のあった場所を触れ回してみるが、どこにも感触はない。自分の目に映っていた通り、剣は本当に消失してしまったらしい。目の前で起こった非現実的な光景に動揺を隠せなかった。


 そこで再び説明書の記述を思い出す。鞘のほうはどうだ。説明書の通りなら、抜いた剣が消えると鞘には新しい剣が――


 ペンダントの方に視線を向ける。


 そこには何事もなかったかのように先ほど抜かれたはずの剣が鞘に収まっていた。


 本物だ……という確信が歓喜とともに溢れ出てくる。抜いた剣が忽然と消えて、なくなったはずのものが元通りになっている――こんなでき過ぎたペテンがあるわけがない。この剣は本物なのだ。


 これを使えば……これを使えば自分を劇的に変えることができる。

 今まであれほど望んでもできなかったことが現実になるのだ。


 これで……


 いや――と、そこで首を振って思い直す。こんなものを手に入れたからこそ落ち着くべきではないのか? そう思ったのだ。


 この剣は本物である蓋然性は高い。誰かの作為が入らない状況であったものが消え、なくなったものが出現するというあり得ないことが実際に起こったのだから。


 しかし、この剣が本物であるということが完全に証明するには、自分以外の誰かに使ってみないとその確証を取ることはできない。


 もっというなら、この剣が説明書に通りに書かれている通りの性質であるならば、一人だけでは少し弱い。


 何故なら、この剣の効果は使用者に刺した人間の数で使用者の不幸を分配するというものだからだ。自分が得られる効果を大きくするのなら、この剣を突き刺す人間の数を多くしなければならない。


 指す人間の数を増やせばその分リスクは強くなる――だが、効果が説明書の通りならば、誰かに刺した剣は使用者――つまり私自身以外、見えもしないし触れもしない。これが本当であるならば、刺す数を増やしてもリスクはそれほど増大しない。


 さらに、誰かに刺した剣は意図的に抜こうとしなければ抜けることがないという点にも注目をするべきだ。この剣は使用者以外には見えもしないし触れもしない。それを考慮すると、刺した剣を抜くことができるのは使用した人間だけ――つまりは私だけだ。


 それは実質的にかけられた呪いを破ることは不可能であるということに他ならない。


 もう一つ、魅力的な点は刺した人間の数が増えれば増えるほど、一人あたりにかかる呪いは小さくなるというのも忘れてはならない。


 刺した相手が一人ならば、私の不幸はその一人と半分ずつ分け合うことになる。正直なところ、今の私の不幸を半分とはいえ押しつけるのは少し心が痛い。私の不幸の大きさがどれほどなものか不明だが、誰かの不運の半分を押しつけられたら、それがかなりのものであることは想像に難くない。私は自分の不幸をどうにかしたいと切に願っているが、決して誰かを不幸にしたいわけではないのだ。


 だが、刺した相手を四十八人増やせば、それは五十分の一になる。九十八人に増やせば百分の一だ。それは刺した数を増やせば増やすほど、私が誰かに押しつける不幸が小さくなるのだ。


 いいじゃないか。リスクの小ささを確認して私はそう確信を抱く。


 使用するには一度自分に剣を刺して鞘に戻さないといけないんだっけ。そのことを思い出して少し尻込みしてしまう。いくら小さいとはいえ本物としか思えないものを自分に突き刺すのにはやはり抵抗を感じざるを得ない。


 しかし――


 そんなことは言っていられない。いくら本物のようにしか見えないといっても、目や爪の間に刺さなければそれほどものでははずだ。


 それにこの剣には殺傷能力がないのだ。きっとそれは自分を刺すときも変わらないはずである。


 鞘から剣を引き抜いて、右の親指と人差し指でつまんで、目を瞑ったまま恐る恐る剣を左の手の甲へと近づける。左の手の甲に剣の触れると、妙な感触が広がった。間違いなく手の甲にはなにか触れている感触はあるのだが、あの鋭い刃が当たっているにもかかわらず一切の痛みがしなかった。


 一度深呼吸して、手の甲で止まっている刃をそのまま思い切り押し込んだ。なにか入るような感触はあるが、やはり痛みはない。目を開いて手の甲を見ると、あの小さな剣が確かに突き刺さっているのが確認できた。


「うわ……」


 痛みがまったくないとはいえ、自分の手に異物が突き刺さっているのはなんだかとても恐ろしい。興味本位で手を裏返してみると、刃は手のひらまで貫通している……見なきゃよかった――そう思って思わず裏返した手をもとに戻し、右手でそのまま剣を引き抜いて、鞘に戻した。


 これで使えるようになる――はずだ。本当に使えるのだろうか――と訝っていると、一度自分の手のひらを刺して戻した剣の色が徐々に赤みを帯びた色へと変色していった。


 これで使えるようになったのだろうか――見た目が変わったのだからそのように思えるが、やはりその確証は使ってみないととれない。そして、いまこの時間に出歩くのは危険だ。私につきまとっているあのキチ〇イが、いまこのマンションの近くに潜んでいるかもしれないのだから。


「これ以上、考えても仕方ないや。この剣の効果を確かめるのは明日にしよう。今日はもう、お風呂に入ってさっさと寝よう」


 そう思って立ち上がり、湯を沸かしに風呂場へと向かった。

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