神経室
鉛のように重い足を引きずって歩く。明確な拒否反応が体中を駆け巡るが、約束を無碍にするのは人として良くないと、良心が喧騒を制す。建前と本音の狭間で葛藤しているうちに、歩みは止まり、目的地が視界に入ってきた。灰色瓦の屋根の木造二階建て。庭には番犬というには頼りない、痩せた犬が一匹お昼寝中。ここが我が友の住む城、通称 太郎城。初見殺しの異名を持ち、数々の仲間たちを太郎恐怖症に陥れているわけだが、この一般民家には別に奇妙なカラクリ仕掛けが施されているとか、結界魔法で家の中ではセーブできないとか、即死トラップばかりの死にゲー仕様とか、そういう非現実的な罠が仕掛けられているわけではない。問題があるのは城主(仮)である太郎の方だ。外ではごく普通の高校生としてトラブルなく日々を送る奴であるが、一度城に閉じ篭もれば、イカレた暴君、大乱心の殿に早変わり。そのため、一度彼の家に御呼ばれされた盟友達は、魔王の洗礼を受けて次々に心挫け、二度とこの危険なダンジョンには足を踏み入れないのだ。何度もここを訪れている物好きといえば、親族や宅配業者以外で言えば、恐らく奴と付き合いの長い俺ぐらいなものだろう。お休み中の門番を起こさないように静かに玄関に向かう。ドアの前で大きく息を吐いて、心の準備を整えた。郵便受けの上に置かれた「来客用」と書いてある小さなハケを持ち、全身のゴミを落とすように丁寧に掃いていく。入場前の下準備が終わったら、左上に設置された監視カメラの前に立ち、ハケの隣に置いてある呼び鈴ブザーを押す。ブーッと近所に響く程の音が鳴ると、少しして、城主の声がカメラの隣のスピーカーから聞こえてきた。
「チェックします。」
ぼそぼそ声で合図が来ると、俺はまず全面を見やすいようにカメラに向け、10秒ほど経ってから今度は背中を向けて反対側を確認させた。
「チェック完了。今ドアを開けるね。」
今回もどうやら一発満天通過だったようで、ホッと胸を撫で下ろす。玄関チェックでは、自宅や道中で変なものを服や髪に付着させて家の中に持ち込ませないように、厳しい審査が行なわれる。100点満点以外は全て門前払いとなる鬼判定で、髪に付着した僅かなふけ、衣服に付いた小さな糸くず、食べこぼしなどのシミでさえ決して許されないのだ。普段は穏やかな太郎だが、この門前払い措置に少しでも抗議しようものなら「警備員を呼ぶぞ!」と人が変わったように息を荒げ、頑なに入場を拒むのだ。実際に警備員を呼ばれて、面倒なことになった時もあった。ドアの方から内鍵を外した音が聞こえる。閉ざされた禁忌の扉がゆっくりと開き、魔王太郎が顔を出した。
「いらっしゃい、次郎くん。さっ、早く入って。」
俺が通れるぐらいの小さな隙間をあけたまま、太郎は顔で入室を催促した。俺は太郎の脇の下を潜るように屈んで家の中に入る。ドアを通過する間も、太郎は俺に視線を向けてチェックしている。体や衣服が必要以上にドアやドア枠に触れていないか見ているのだ。この段階でも追い出される可能性があるので気が抜けない。今回は問題がなかったようで、太郎は俺が中に入ると同時に、静かにゆっくりと、玄関のドアを閉めて鍵をかけた。
太郎は履いていたサンダルを脱いで靴箱の上に置いてあったタオルで靴下の裏を丁寧に拭き取り、拭き終わった足からスリッパを履いて家に上がった。別のタオルを差し出された俺も太郎のように丁寧に足を拭き取り、スリッパに履き替えて、タオルを回収用のダンボールに入れる。それから無言のまま、太郎にジェスチャーで部屋に向かうことを告げられ、足音を立てないぐらいの速さでゆっくりと静かに歩き出した。太郎曰く、普通に歩くと床に掛かる負荷が長い目で見て大きくなるため、将来的な強度も考えて床を大事にする動きが必要…ということらしい。その変な理論は太郎家代々継がれているらしく、彼の家族全てがそれを実行しているから驚きだ。このサイレントウォークのせいもあって、太郎家はいつも静寂に包まれているが、他の足音が無いところから察するに、今日は太郎が一人で留守番しているようだった。玄関から真っ直ぐ歩き、突き当たり右に太郎の部屋がある。主の間のドアも蝶番の耐久強度に配慮してか、必要最低限だけ開き、先に俺を中に導いた。次いで入った太郎は音を立てずにドアを閉め、予め準備しておいたらしい座布団に座るように促す。この座布団にはビニール袋が被せてあり、座る際には恒例の太郎チェックが入る。一気に腰を落として座布団に強い衝撃をかけてはダメ。ゆっくりと腰を落とし、尻に敷かれる側を労わるように座る。座った後も数分おきにお尻を持ち上げて座布団の形を潰れたままにしないように、手で整形しないといけない。太郎は腰を落としてからの時間を細かく計っていて、一フレームのロスも許さないぞ。小さなテーブルを挟んで太郎と対面して座る。テーブルの上には一口サイズのフルーツグミが二人の前に5つずつ、敷かれたラップの上に並べられていた。太郎の家ではジュースやスナック菓子、お茶請けのせんべいなどは絶対に出てこない。こぼして汚すという未来像が容易に見えているため、一口で舌を満足させ、落としてもまず汚す心配の無いグミという結論菓子の採用に至ったのだ。しかしグミの難点は食べ過ぎると喉が渇くこと。食べ過ぎない程度を考え、客によってグミの個数を変えているのだ。こぼしても安心なグミであるが、それでも手から落ちるのは彼も望んでいないようで、食べる際には顔を近付けてラップの上で口に含むように義務付けられている。噛んでいる間もまさしく食い入るように顔を突き出したまま。飲み込んでからやっと元の体勢に戻れるのだ。そんな堅苦しいおやつなど、当然食べた気がしないので、太郎の家に行くときは事前におやつを食べてから向かうようにしている。今日も当然ながら並べられた色鮮やかな碁石に手をつけることはなかった。グミを勧める太郎にジェスチャーで遠慮を伝える。すると太郎は手元に用意しておいたボールペンでメモ帳に何かを書き、こちらに渡してきた。原則として、家の中での会話も、二酸化炭素量だか口内成分が漏れて家が汚れるからだか、理由は忘れたが御法度になっている。
『新作映画のBD借りてきたけど見る?』
俺は黙って首を縦に振る。太郎はサムズアップで返事をして、そろそろと映画鑑賞の準備を進める。その間も、俺が不審な動きをしていないか、常に目を光らせていて油断できない。遊びに来たはずが、牢獄で看守に見張られている気分だ。映画再生の準備が整い、テーブルを端にどけて、自分の座布団を俺の隣に敷き、腰を下ろす。リモコンで再生して二人だけの上映会が始まった。映画はコメディーで、公開時期に見逃していたものだったので楽しみではあったが、内容が頭に入ってくることはほとんどないと思っている。何故なら、上映中でさえ、看守様の目は鋭い輝きを放っているからだ。先程話した座布団整形、笑い声の大きさ、口の開く度合い、唾が飛んでいないかどうか…頭で分かっている部分から想像もつかないことまで漏れなくチェックしているのだ。一つでも引っ掛かれば即強制退場。映画に集中することなどできるはずもなく、ただただ神経を研ぎ澄ますばかり。ならば映画視聴をしなければと思うだろうが、もしそれを拒んだ場合、筆談による沈黙の時間潰しが始まるのだ。太郎の家ですることと言えば、映画鑑賞か筆談の二択。ゲームはコントローラーを長持ちさせるために握らせてもらえないし、漫画や小説、雑誌なども同じ理由で表紙に触れることさえ許してもらえない。学校では普通に自分の教科書を貸してくれるし、雑に使っても怒らないのだが…彼や彼の一家を一体何がそこまで強度に拘らせるのか…。太郎の目に注意して座布団の扱いに気を付けながら、3時間弱の苦行を終えた。
上映会の後、テキトーに感想雑談を済ませ、入場と同様に太郎の自動ドア(半ドア)で魔城を後にした。太郎は隙間から小さく手を振ると、客を見送ることなくドアを閉めて鍵をかけた。疲れが口から勢い良く出ていき、庭を抜けようと歩き出すと、眠っていたはずのケルベロスが嬉しそうに尻尾を振って大きく鳴いた。帰る前に可愛い門番にも挨拶しておこうと、紐で繋がれた愛らしい猛獣に近付く。地獄の番人は更に激しく尻尾を振り、俺の足元にしがみ付いてきた。興奮する門番を宥めて、目線を合わせるように中腰で座り、首の辺りをワシャワシャ撫で回した。わんこは気持ち良さそうに目を細めてそれを楽しんでいる。彼女を優しく弄びながら、ふと犬小屋が目に留まった。屋根に塗られた赤いペンキは所々剥げ落ち、側面の板にはいくつもの小さな亀裂が入り、ボロボロになっていた。
「自分の家の強度や汚れを気にするなら、大事な家族の一軒家にも目を向けて欲しいもんだよな~。」
スキンシップをしながら彼女に話しかけると、それに同意するかのように、クゥーンと困ったような甲高い声を上げて答えた。
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