大嫌いの向こう側
俺は父親が嫌いだ。大嫌いだ。初めて彼を嫌いになったのは小学生の時。親戚のおばさんからお小遣いを貰ったことを両親に報告したのだが、そこで母が「これは将来、あなたのために使うから貯金しておこうね。」と俺の手からお金を奪い取った。俺のためというならば、今こそ必要な時。当時欲しかったゲームソフトが買える千載一遇のチャンスだった。だからこそ、奪われた軍資金を取り返そうと必死に抗議をしたのだが、その様子を黙って見ていた父が我慢の限界を迎えたようで、大きな雷を落とした。
「いい加減にしろ!子供が金、金うるさく言うんじゃない!!」
落ちた雷は雨雲を呼び、大粒の雨を降らせた。確かにしつこく言い過ぎたし、結局自分のために使うのであれば、親の言うことは素直に聞くべきかもしれないと反省した。しかし、それ以上に、自分よりも弱い立場のものを怒鳴りつけて萎縮させ、何の根拠も説得力も無い屁理屈を通そうとする父に対して怒りと嫌悪の心が芽生えた。
それから年を重ねるごとに父に対する反抗心は大きくなっていった。テスト勉強の息抜きにちょっとゲームをしていただけで「余裕だな。」と嫌味を言われたり、向こうから頼み事がある時に、妹には「~してくれるか?」と物腰柔らかく頼むのに、俺の場合は「~するから手伝え。」と無愛想に上から目線で命令口調にしたり。人の都合を考えずに、せっかくの休みに友達と約束していたにも関わらず、「日帰り旅行に行くから断れ。」と一方的に自分の予定を押し通すこともあった。父に反発して正面から喧嘩を吹っかけることも考えたが、どうせ「誰のおかげで飯が食えている!」と最後の切り札を切られるのが目に見えていたし、母や妹、祖父母が二人の喧嘩で居心地悪くなるのも嫌だったので、怒りや不満を飲み込み、堪えていた。
こうして、内に秘めた負の感情のせいもあり、言うことは聞くが父との会話は一切無くなった。話しかけられても無愛想に一言二言返すだけ。父は息子の腸の煮えに気付いていないのか、それだけでも満足そうにしていた。
父との隠れ不仲が続く中、祖父母は他界し、妹は大学に通うために家を離れて一人暮らしを始めた。妹には既に恋人もいて、大学卒業後に結婚も考えているとか。住人が減った我が家では、お山の大将気取りの父と捻くれ者のバカ息子、そんな二人の仲を必死に取り持とうとする母の珍妙で息苦しい日々が続いていた。
ある休日、庭の畑に植えたジャガイモを収穫するから手伝えと司令官殿から命令が下った。その日は同じゼミの仲間とドライブに行く約束をしていたが、絶対遵守命令を無視することはできず、断りと謝罪のメールを送り、作業着に着替えた。我が家の小農園に向かうと、ヨレヨレのボロ服を着こなした父が、スコップを片手に作業を始めていた。枯れかけている茎の生えた場所を目安に、盛り上がった土の周辺を取りこぼしの無いように掘っていた。父は歩兵の到着に気付くと、畑に寝かせていたシャベルを指差し、攻撃命令を下した。俺はわざとらしくため息を吐いて、広範囲攻撃の武器を装備し、照りつける日差しを睨みつけてから戦闘を開始した。芋を刺さないように注意しながらシャベルを土に差し込み、足で追撃をかけて深度を増し、ゆっくりと先端を持ち上げて、すくった土の中と大穴を確認して生存者を探す。と、すぐに大きくごつごつした泥まみれの顔がいくつも見つかった。春に植えるのを手伝った時は、半分程にカットされたものを植えていたが、まさかこんなに立派な子供を作るまでになるとは、正直驚いた。一般常識としては頭で分かっていたが、いざ自分で植えたものを収穫するとなると、不思議と込み上げて来るものがあった。手に持った感触と見た目の大きさに感動していると、反対側から掘り進んでいる父の明るい声が耳に届く。
「おーい!こんなでっかいのが取れたぞ!!」
父の手に握られていたのは、俺が掘り当てたものよりも一回り大きなジャガイモだった。勿論、その大きさにも驚いたが、俺の目は別のものに奪われていた。しばらくちゃんと見ていなかった父の顔。しわが増え、仄かに焦げ茶色に焼けた肌。白髪が増えた髪。俺の記憶の中で一番老いた父の顔。しかし、その疎らに出てきた老いを忘れさせる程に、彼の笑顔は眩しかった。まるで子供のように無邪気に微笑むその姿に、胸の奥に詰まっていた黒いヘドロはすっかり浄化されてしまった。祖父母が亡くなってから、父は元気を失くしてしまったと思っていた。葬式で見た彼の背中は、酷く小さく、弱々しく、触れただけで簡単に崩れてしまいそうな程だった。しかし、彼は悲しみを乗り越え、こうして笑顔を振り撒くまでには立ち直ったのだ。父の表情には、収穫の喜びだけでなく、大黒柱として残された家族のために強くあろうという彼の意志も含まれているように感じた。
「…こっちにも、負けないぐらい大きいのがあるよ。」
気付けば、父の呼びかけに真面目に答えていた。「はい。」「いいえ。」「うん。」「いい。」…五文字以上の言葉を返したのはもう十何年ぶりだろうか。
「そうか!今年は大成功だな。お前が手伝ってくれたからかもな!」
父はいつもよりも気持ち高めの声色で、そう言った。久々にまともな会話ができたからだろうか、父は上機嫌に鼻歌を歌いながら作業に戻った。陽気な父の姿に今まで意気地になっていたことが馬鹿らしくなって、手に収まっていた仏頂面の泥坊主と顔を見合わせて笑った。
ジャガイモ掘りをしてから、俺は昔のように父と積極的に関わるようになった。父の嫌いな部分は相変わらず健在であったが、父との交流によって彼について新しく知るものが多かった。彼はよく休日に車で出掛けるが、趣味の登山に行っていて、色々な山に足を運んでいた。帰る前には近くの温泉を巡り、汗と疲れを流してくるらしい。彼はロールケーキをこよなく愛し、新しいお店のチラシが入れば、居てもたってもいられずに買いに出てしまう。趣味、好み、生い立ち…これまで知ろうともしなかった父のことを知り、父に対する見方が大きく変わった。
登山に誘われて、母と3人で山を登っていた時、父は見ず知らずの登山客に自分から声をかけて交流を楽しんでいた。普段感じていた口下手そうで嫌味ったらしいという固定観念はあっけなく崩れ去った。また、歩いている時には、山歩きに慣れていない俺や母にこまめに声をかけてくれて、適度に休みを取りながら歩調を合わせて歩いてくれた。鬼や悪魔のように冷徹人間だと思っていた父にも温かい血が流れていたんだと思いがけず見直した。それから何時間もかけてようやく山頂に到達。父は俺と母に労いの言葉を掛け、見晴らしの良い一角に俺たちを誘う。
「どうだ?これをお前たちに見せたかったんだ!本当は、あいつにも見せたかったんだが…。」
父のお気に入りの景色に、俺と母は息切れなど忘れて感嘆の声を上げた。頂でしか見られない美しい一枚の絵…彼が魅了されたのも頷ける気がした。父の言うように来られなかった妹にも見せてやりたいものだ。
「辛く苦しい思いをしたからこそ、見られる景色がある。挑んだからこそ、この美しさに気付けるんだ。」
澄み切った天を仰ぎながら熱く語る父の言葉は、俺の心の奥底まで楔を打ちつけた。
父が仰いだ天に昇ってから早10年。俺は妻と娘を連れて思い出の風景を見にやって来た。娘は中学生になり、父親嫌いが加速している年頃だ。嫌な顔はしていたが、明確な拒絶をしない辺り、どうやら俺に似て彼女も穏健派らしい。そんな不機嫌なプリンセスも、山を登っていくに連れて表情が柔らかくなり、山頂に着いた時には、達成感からか涙を流していた。娘が落ち着いてから、俺は二人を彼の特等席に招待し、彼の胸を少しだけ貸してもらった。
「辛く苦しい思いをしたからこそ、見えてくる景色がある。挑んだ者にしか見えない景色があるんだ。」
娘は絶景から目を離して俺の顔を見つめた。次の言葉を待つように、彼女の目は真っ直ぐに俺を捉えていた。
「それは日常でも同じ。『嫌い』だからといって遠ざけるのではなく、その『嫌い』にも挑戦して欲しい。」
彼がそうした様に、天を仰ぎ、静かに目を瞑る。
「その先にしかない景色があるから。その景色を知って、気付くことがたくさんあるから。」
娘は再び、登頂のご褒美に顔を戻す。彼女は何も語らぬまま、俺と妻の手を握り、小さく一度だけ頷いた。
山の向こう側は、どこまでも、どこまでも青く澄んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます