愛憎の狭間で

 夕方、いつもより早く仕事が終わり、カバンを重石のようにぶら下げて家に入る。玄関で靴を脱いでいると、聞き慣れた二つの明るい声が耳に入ってきた。自分の家だというのに、二人の様子が気になってリビングのドアに忍び足で近付き、僅かな覗き口を開けて中の様子を伺うと、何度見ても目を逸らしたくなる光景がそこにあった。リビングのソファーに座る最愛の妻。その膝の上に、アホ面の我が息子が鼻の下を伸ばして頭を乗せて寝そべっている。妻は脇に積んである洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳みながら、幼い子供をあやすような甘ったるい声で息子と談笑している。中学生になって声が低くなった息子は、その声に応じるように普段出さないような高い裏声を使って返事をしていた。この二人のやり取りこそ、私が居ない時間の二人の普通なのだ。

 恐らくこのやり取りを見た一般人は、「マザコン息子気持ち悪い」とか「母親が甘やかしすぎ」とか、その辺りを指摘するのだろうが、私にとってはそれらは最重要ではない。一番の問題…それは、「私が居ない隙に妻が他の男とイチャついていること」だ!妻は男遊びや浪費癖のないできた女だ。私が彼女を寵愛していることをわかってくれているからだろうと思うが、彼女が私を裏切ったことは一度たりとも無い。逆もまた然りだ。そんな彼女が、こともあろうか自分の息子と…しかも私に内緒で秘密の関係を持っているだなんて…。親子のスキンシップと言ってしまえば簡単だ。だが息子はもう15歳。そろそろ乳離れして気になる女の子の一人や二人居てもおかしくない時期だ。…まあ反抗期のせいで多少父離れ気味ではあるが。とにかく、息子も男としての自我に目覚めてもおかしくない時期。つまり親子であってもこの秘密のやり取りは男女の時間。つまりこれはもう家庭内不倫・浮気と言っても過言ではないのだ!!彼女と付き合い始めた頃は、今息子がしてもらっているように膝枕をしてくれたり、手作りのお弁当をあ~んってしてくれたものだ。なのに今じゃあんな甘く可愛らしい声なんて私にかけてくれやしない。行ってきますのチューもなくなってしまったし、優しい言葉をかけてもらえるどころか、「髪薄くなったね」とか「お腹出てきてだらしない」とか「足が臭い、枕が臭う」とか…加齢臭はまあ申し訳ないが、それでももう少しオブラートに、お手柔らかに、胸の内を抉るような言い方をしなくてもいいじゃないか。しばらく観察を続けていると、こちょこちょくすぐり合ってじゃれていたり、晩御飯の相談で談笑していたり…羨ましすぎて思わず歯軋りしてしまった。先程は妻の裏切りを責めるように言ってしまったが、何度も言う、妻はできた女だ。そんな彼女が秘愛に目覚めてしまったのも、恐らく息子にたぶらかされたからに違いない。学校で気になった女の子が別の誰かとくっついてしまって、行き着いた先が妻だったのか、それとも気に入らない父親への当て付けでこんな卑劣な行為に及んでいるのか…。理由はどうであれ、彼は息子という立場を利用して妻の心を惑わし、彼女を不倫に走らせている。そして恐らく、私が真正面から彼女に何を言おうとも、彼女は夫と瓜二つの若輩者に骨抜き状態。呪縛は解けないだろうな。今度の休日に息子に留守番を押し付けて、妻を日帰り温泉に連れ出そうか…。でも息子も温泉入りたいだろうし、あそこの近くの山に一緒に登りたいってのもあるし…いやしかし、恋敵を連れ出して、また目を離した隙にイチャつかれては…でも最近忙しくて家族旅行も久々だったし…

「お父さん?何してるの?」

突然の呼びかけに胸が跳ね上がる。意識を戻した私の目に映ったのは、他でもない愛しの妻であった。妻は首を傾げて、マヌケな立ち方で固まる私の手からカバンを奪い、所定の位置にしまうと、いつものようにコーヒーを一杯入れて、夕食の支度に入った。私は着替えもせずに、テーブルのコーヒーに近付くと、息子は先程寝そべっていたのとは反対側のソファーに移ってのんきに寝息を立てていた。小憎らしくも可愛い寝顔を見ていると、妬みも負けん気も砂糖のように溶けてなくなってしまった。

 妻の入れてくれたお疲れ様の一口で喉を潤し、バスタオルを持ってきて、大切な恋敵に塩を送ってやった。恋愛は大事だが、家族愛もまた然り。


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