第8話 ピンク編 その8

 寒中水泳の一番つらい瞬間は、水からあがるときだ。

 二番目は、水に入るときだ。

 溶け込んでいる溶媒が所詮塩化ナトリウムなのだから、水が液体の状態である限り、極端な低温にはならない。寒さは感じない。海底が粘土質らしく、舞い上がる泥で、目がつらい。二つ隣には砂浜があったのに、どこにいったのだろう。

 潜水してみて、海氷がメートル単位だったのに驚く。かろうじて、日光が散乱している。ピンクブーツ嬢のピンクブーツが、片方脱げかけていた。仰向けになって、漂っている。ヘルメットはいつ脱いだのか、フワフワくらげのように、髪が漂っていた。時折、上の氷にぽーんと体が当たっては、跳ね返っている。仮死状態にあるのは、確かだ。もしかして、本当に死んでいるのかもしれない……。

 懸命に泳いだものの、追いつくのに五分以上費やす。低温だし、酸素消費量は少ないだろう。助かる可能性も、幾分かは、ある。

 後ろから抱えて、横泳ぎだ。

 しかし。

 ヤバい。

 意識を取り戻した。

 私の手から逃れようと、必死でもがいている。

 落ち着け。

 と言っても、聞こえないか。

 彼女にとって、私は得たいの知れないオッサンに違いない。

 けれど、この状態で、危害を加えようとるする物好きが、わざわざやってくるもんか。

 放っておけば、勝手に死ぬだけなのに。

 しかし、彼女には分からない。

 パニックになっている。

 そう、ひたすらパニックになって……。

 呼吸が限界みたいだ。

 喉に手を当てているが、どーにもならないだろう。

 私は、口うつしで酸素を吹き込むことにした。

 そう、こういうことができる、特異体質なのだ。

 勝算なくして、ピンクブーツ嬢・姉の代わりに、飛び込んできたわけじゃない。

 けれど、水中では説明しようがない。

 強引に抱き寄せて、唇を奪う。

 ごめんな。

 本当に、ごめん。

 身動きが取れないように、がっちり抱きしめると、今度こそ、彼女は抵抗をやめた。

 10秒。

 20秒。

 30秒。

 ようやく、私の呼気のお陰で、呼吸ができることに、気づいたようだ。

 彼女の固く閉じていたまぶたが開く。

 抵抗していた両腕から、スーっと力が抜ける。

 私のほうも余裕ができる。

 初めてまざまざと彼女の顔を観察できた。

 ハーフかクオーターか、日本人っぽくない、日本人顔。目が大きく、顔が小さい。全体的に顔の造作が大きい、派手顔。姉とはあまり、というか全然似てない。

 そして、感情表現というか、感情を隠すのが下手なタイプのようだ。

 私の容姿を見て、海坊主にでもでくわしたかのように、驚いている。

 そして、瞬く間に驚きは嫌悪感に変わったようだ。

 唇を押さえている。

 まあ、本人の同意なく、キスしちゃったしな。

 あくまで医療行為・救命行為の一環なんだが、スイタなら、こんなときどう言いくるめるんだろう……。

 ピンクブーツ嬢は、ぷいっとそっぽを向いた。

 私に感謝の「か」の字も示さず、泳ぎさろうとする。

 まあ、いいんだけどさ。

 海氷の開口部でなく、その反対に向かって泳ぎ出すのは、どーなのよ。

 希代の方向音痴か、それとも命を賭しての、ドジっ子アピールか?

 私の腰のロープを見れば、おおよそ察しがつくだろうに。後ろから泳ぎよると、彼女は再び酸素切れを起こしていた。

 今度は、もう、積極的に助けない。

 しばらく様子を見守っていると、彼女のほうから抱きついてきた。

 泳ぎながら、唇を引き寄せるには、技術がいる。二度ほど、私の腕につかまろうとして、滑り落ちる。最後には、両手で首っ玉にかじりつき、私の唇を吸った。

 10秒。

 20秒。

 唇を離した瞬間、彼女は視線も逸らした。まあ、気まずさが分からないでもない。

 そうして、ようやくロープの存在に気づいたようだ。

 命綱の反対端に、オレンジ色のバンドが結わえつけられているのが、見えた。

 スイタが間に合ったということだ。

 私は、バイクにまたがるるようなポーズをとり、手首や足首をクイッ、クイッとまわしてみせた。体を左右に傾けて、運転しているような仕草を見せると、ようやく姉の代理であることに、気づいたようだ。手を握ると、握り返してきた。ようやく、帰還だ。

 ピンクブーツを脱がせないせいもあるのか、とにかく泳ぎが遅い。離岸流に逆らうぶん、余計な労力もいる。加えて、開口部と反対側に、しばらく泳いでしまったチョンボもある。

 氷上に浮上するまでは、さらに二回の酸素補給が必要になった。彼女がグッと握る手に力を込める。止まると、首っ玉に抱きついてくる。私のほうからも抱きしめてやると、夢中で私の口を吸った。

 開口部付近で、三回目があった。

 もう、酸素補給がいるような距離ではないし、彼女も息苦しそうには見えなかった。

 なんだか、とても嬉しそうだった。助かったという安堵感のせいなのか? 唇を重ねると、息を吸う代わりに、やさしく舌が入ってきた。驚いて目を開けると、彼女はたいそうはにかんでいた。そうか。感謝の印、挨拶というわけか。まあ、普通のひとだったら、命がけのレスキュー活動になるわけではあるし。私の場合は、単なる気まぐれ、だが。

 再び手をつなぐと、強く握り返してきた。

 次の瞬間、私は腰綱を強く引っ張られて、氷上に引き上げられていた。

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