暇二節(ひまつぶし) 2
「あの、なんで山に来たんですか?」
「知らないの?昔の人は山で狩りをして暮らしていたんだよ」
「山で狩りって、まさか……」
「今日はここで一晩を過ごしてもらいます」
アトリのいつもの調子を真似て、俺は無邪気かつ朗らかを装っていい放つ。
俺達は学院から少し離れた場所にある、自然に囲まれた山々の、その秘境と言える奥地までやってきた。
季節は初夏、僅かに照りつける日差しが汗を滲ませるが、野営をするには丁度いい気温と言えるだろう。
「山紫水明、風光明媚、こんな綺麗な山で暮らせるなんて幸せだなぁ」
「徹頭徹尾何言ってるかわかりません、山で暮らすなんておかしいです、お兄ちゃんは頭がおかしい人なんですか!」
人がマイナスイオンを胸いっぱいに吸い込んで、日々の暮らしで蓄積した悪い空気を浄化している所にアトリは嫌嫌と喚くが。
「じゃあアトリ、俺と一緒にここで過ごすか、一人で下山して遭難するか、好きな方を選ばせてあげる、遭難したら一晩で済まなくなるかもしれないけれど、それでもいいならいってらっしゃい」
俺は遭難して泣きわめくアトリを想像して吹き出しそうになるのを堪えながら、ニコニコとアトリをいなした。
アトリは登山している途中、天体観測か、山菜採りでもするのかと思ってうきうきしていたが、ここに来ての野営にショックを受けているようだ。
「……っ、鬼畜!鬼!悪魔!お兄ちゃんの人でなし!」
「さて、じゃあ先ずは薪集めからだ、夜は冷えるからね」
俺は悪態をつくアトリをガン無視して、マイペースに野営の支度を始める。
山の時間は短いのだ。
段取りよく準備をしないとあっという間に夜になってしまう。
そんな俺の様子を見て諦めのついたアトリが俺の後を少し遅れて付いてくる。
「あの、そもそも女の子を磨くのが建前だったはずなのにどうして、山なんですか?」
「俺はね、常々思ってる事があるんだ、アトリには忍耐力が足りないって」
「え……」
「だから大自然の過酷さを体験してもらって、いかに自分が恵まれた生活を送っているか知って貰おうと思ったんだよ」
アトリは思いつきで行動して、我が儘で好き嫌いが激しい。
それを全部超、万能で聖人のシオンに甘えたせいで増長してきたという結果は今まで過ごしてきて容易に想像がついた。
疲れたらすぐおんぶ、イライラしたりお腹がすいたらスイーツやけ食い、魔法だけでなく体育と学科の成績も悲惨な状態、正直、いくら容姿に優れているからといって、このレベルの駄目人間はそうそうお目にかけれるものではない。
だから一度だけでも、もし自分が一人になったときの事を考えて貰おうと思ったわけだ。
人間未満の人間性しか持たない俺がアトリの幸せを考えるのもおこがましい事だけれど、
でも兄としての役割を果たすのなら、時には厳しさを以て導く事も必要なのだと思う。
「い、意味がわからないです、私達は貴族だから生活は一生保証されてますし、困った事があったらお兄ちゃんの魔法でなんでも解決できますし、そんな無理して苦労を背負う必要なんて……」
「俺の魔法なんて確率を操ったり、姿を見えなくするのが精一杯で、生活に役立つ便利な魔法なんて使えない、それに貴族という身分だって飢饉や革命が起こったら無くなるかもしれない」
「そんな可能性、万に一つです、それにお兄ちゃんはお兄ちゃんだから、きっといつかは魔法でなんでも出来るようになります」
「例え未来はそうだとしても、今は違う、明日の事は分からないだろ、人間は明日の事を考えられるしその先の事も考えられる、だから備えられるんだ、備えられる時に備えないで現状に満足するのは動物と変わらないよ」
人は常に未来に向かって歩き続けなければならない。
でなければ停滞と妥協が絶望という沼へと引きずり込む。
そう、教わったから。
「……人間ってそんなに賢しい生き物なんですかね」
俺の理想に偏ったキラキラして足が地面から離れて雲の上に立っているような主張にアトリはぽつりとそう返した。
「愚かだよ、だから先ずは自分の無知を知ることから始めないといけない」
ソクラテスのような哲人ではなくとも、人は皆愚かに見えてしまう世の中だから、自分を一番の愚か者だと自覚する事から始めなくてはいけないのだ。
アトリは言い訳ややらなくていい理由を探していたみたいだけれど、俺のその言葉に府に落ちる事があったのかそれ以上は言い返してこなかった。
なんだかただのキャンプが哲学的なニュアンスを持ち始めようとしているけれど、それはきっと、アトリが偏差値以上には聡明さを持ち合わせているからなのだろう。
まぁ学科の成績については現世での俺も落ちこぼれていたので人の事は言えないけれど。
「……よく考えてみれば人里離れた山の中でお兄ちゃんと二人きりというシチュエーションというのも結構いいかもしれません、野生に目覚めてけだものになったお兄ちゃんとどんな夜を過ごすのか、今から期待が膨らみます」
アトリは期待に膨らんだといいつつ全く膨らまない胸を張りながら、気持ちを切り替えて薪集めをせっせとこなし始める。
こういう切り替えの早いところはアトリの大きな長所だと思う。
まぁ自分からは絶対に気持ちのスイッチをを切り替えないのがたまに傷だけど。
そんな風にして二人で薪を拾っていると……。
「わっ」
アトリが悲鳴を上げて俺の後ろに隠れる。
「どうかしたの?」
「へ、蛇が……」
言われてアトリのいた方に向かうとうねうねとした動きでこちらに近づく影が見えた。
「でかしたアトリ、これはお兄ちゃんポイント一点に相当する働きだ、よくやった!」
そう言って俺は素早く蛇に手を伸ばして鷲掴みにする。
「お、お兄ちゃん、蛇なんて捕まえてどうするつもりですか?」
「こいつは今日の晩御飯だ」
「や、野蛮すぎです、蛇なんて食べられる訳……」
「アトリ、蛇が嫌だったら虫を食べるか、苦い草を長時間噛んで無理矢理消化するか、一か八かのキノコを食べるかのどれかしか無いけれど、どうする」
山で入手できる食料の中で、蛇やカエルは最上級の食料にあたる。
これ以上の選択肢はほぼ無い以上、受け入れられなければ必然的により難易度の高い妥協が必要になる訳だけど。
「鳥とか魚とか、この際兎とかでもいいです、普通の動物の肉を希望します!」
「取れたら食べさせてあげるけど、遭遇するのも稀だし、普通に狩ると労力に見合わないから余裕があったらね」
そもそも魚や兎がいる山は熊がでてくる可能性があるから逆にいない方が一晩過ごすだけなら幸せなんだけどね。
「じゃあ、果物とか山菜はどうでしょう?」
「山のぶどうはすっぱいし栄養もあまりない、動物基準の栄養価だから採るなら量が必要になるね、山菜は食べられるものがあったら集めよう」
見た感じ食べられそうな山菜はいくらかあったけれど、鍋が無いから生食か炙る程度の調理しかできないし味は期待できないが、一日のカロリー摂取には必要になるかもしれない。
消費カロリーの過剰で、アトリの平らな胸に蓄えられた僅かな栄養を奪う訳にはいかないから。
いや、胸もゼロだから関係ないか。
くすっ。
「……お兄ちゃん、なんか今、凄く不穏な気配を感じますけど、失礼な事考えてませんか?」
「いやいやいや、そんなことないよ、俺がいつもアトリの事を考えてる訳なんてないし、それは自意識過剰すぎ、全然関係ないから!」
「……なんでそんなに動揺しているんですか」
アトリが訝しむように冷ややかな目で俺を見ているが。
「そ、そういえば、そろそろ期末試験だけど、アトリはちゃんと勉強してる?」
「唐突な話題転換ですね……期末試験、考えるだけで憂鬱です、中間も散々だったので」
「そ、そう、……ちなみに赤点とったらどうなるの?」
「留年するだけです、問題ありません」
「いやいやいや、問題あるから!、留年とか一族の恥を晒す位に問題だから、貴族として大問題だから!」
「私がダメな分はお兄ちゃんが挽回するから、バルドルス家の評判はプラマイゼロです、問題ありません!」
「いや、俺の評判もプラスか怪しいからマイナスだと思うぞ……」
アトリは開き直っているけれど、シオンの事を疎んでいる人間も少なくないから実際はマイナスなんじゃないかな。
人間絶対相容れない人間が二割は存在すると言うけど、シオン程の有名人だったなら、妬みの対象としては格好の的だし。
だからアトリの留年という汚点はシオンを嫌ってる人間の誹謗中傷をする口実になってしまうだろう。
それなのにここまで開き直っているともはや卒業する気がなくて一生学生を満喫しようとしている可能性もあるか。
「しょうがないな、山を下りたら勉強会でもするか」
俺に勉強を教える程の頭は無いけれど、監督する事くらいはできる。
「い、嫌です、めんどくさい、勉強なんて意地の悪い高慢ちきな輩がやるもので、私には向いてません!」
「偏見だなぁ、勉強を心から楽しめる人間こそがこの世で最も豊かな心を育まれている証なのに」
古来より学問とは貴族の道楽に等しい。
中世において貧しい者は学ぶ機会を与えられず、平民が学問で身を立てる機会を持てるのは中国を除いてほとんど存在しない。
故に勉学に励めることは、貴族に与えられた最大の特権であり義務であると、俺は思うのだけれど。
「本当に心が豊かな人は学問や難しい哲学なんて無くても幸せです、他人の考えや思想を有り難がって、現状に満足出来ないことこそが不幸なのでは無いでしょうか」
なんて、アトリの癖に生意気にも筋の通った言葉を返してきやがった。
「……アトリは感覚型なんだなぁ」
どれだけ理想や論理をぶつけても、人は二種類に大別されるのだう。
頭で考えるタイプと体で考えるタイプ。
俺は体がきついと思っていても、頭が楽しいと思えば頑張れるタイプで。
アトリはその逆。
だからアトリには苦手意識のついた勉強や運動に対して一生後ろ向きで、積極性を持たせることは難しいのかもしれない。
「わかったよ」
俺は諦めた風に息を吐く。
「わかってくれましたか」
俺のそんな様子に得心してアトリは満足げだが。
「アトリには、勉強した方がマシだと思えるくらいに、きっっっつい思いをしてもらわなくちゃいけないんだね」
「え!?」
やるべき事をやらなかった代償。
積み重なった怠惰の清算。
それらがどんな形で自分に返ってくるかなんて、子供の時分には漠然とした感覚でしか想像できないかもしれないけれど。
少しでも知ることができたならば、何もしない事だけはしなくなるはずだ。
「三十路を超えてひとりぼっち~♪無職で無学で無一文~♪ゼロのアトリは親の遺産を食い潰し~♪一年経たずに店じまい~♪」
「唐突に失礼で悲惨な歌を歌わないで下さい!」
「……でも、これがアトリの十数年後の姿になるんだよ、悲しいけど」
「さ、流石にそこまで悲惨な未来にはならないと思います」
「根拠のないなんとかなるはなんにもならない、アトリの想像に根拠はあるのかい?」
「……だって、私にはお兄ちゃんがいます、お兄ちゃんがいれば、ひとりぼっちにはなりません」
「…………」
俺はその言葉を否定しなければいけないと思いつつも、言葉に出来なかった。
今の関係を壊したくないから、少なくとも今はまだ、この偽りの関係を続けられると思っていたから。
……本当に、愚かしく、不真面目で、不誠実だ。
「お兄ちゃん?」
いつもの如く俺の不穏な気配を感じ取ったアトリが不安そうに俺を見つめるけれど。
「……じゃあいつ俺が旅立ってもいいように、ちゃんと側にいるんだぞ」
「当然です、お兄ちゃんの
先の事を想像して備えろというものの、結局未来の事は分からないのだ。
だから最悪を想像して備えるだけじゃなく、幸運に見舞われる事を期待して希望を持ってもいい。
そんな欺瞞は、不幸属性持ちの俺にとってどんな形で返ってくるのか。
分かっていても、俺は考えるのをやめた。
思考放棄も、自衛手段の一つには違いない。
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