第15話 君はいつか降る雪の理由を知らないけれど 3
「せんにじゅう…いち! …はぁはぁ…せんにじゅう…に!、はぁはぁはぁ、せんにじゅう……」
「わっ、お兄ちゃん何やってるんですか!?」
自室で腕立て伏せをしていたら、アトリが入ってきた。
女子寮がそうであるように、男子寮も女子の立ち入りを禁止されているが、休日の寮監が不在しているときならば、バレなければ比較的簡単に侵入できる。
アトリは全身びしょ濡れになるくらいに腕立て伏せをしている俺を見て引いていた。
「はぁはぁ…見ての通り腕立てだ、前にボコられてから左腕の筋肉が大分落ちているようだったからな」
無論、それだけではない、あの日、あの現場を目撃してから、危機感が忙しなく催促してくるので、出来ることをしようと思ったからでもある。
「だからって、そんな汗だくになりながらしなくても…」
アトリは心配してくれているようだったが、俺は構わず続ける。
「……そうだ、出来れば俺の体を上から踏みつけてくれないか?そうした方が負荷が掛かって効率が上がる」
深い意味は無い、ドMなのかと聞かれれば、客観的に見れば完全にそうなのかもしれないけれど、そういう趣味があるわけでもない。
「え?、でも……」
アトリも兄の体を踏みつけるのは抵抗があるのか尻込みしているが。
「お前にしか頼めないことだ、頼む」
本気で取り組んでいる姿というのは人の心を動かすものだ。
熱意は伝播し、人の心に熱を焚べる、それこそが、世界に心が存在する事の証。
故に、俺の「本気」なら、この程度のささやかな願い等は容易く叶えようという気にさせてしまうである。
「わ、分かりました」
アトリは汗で汚れるのを嫌ってか、ストッキングを脱ぎ、裸足で俺の背中を踏んづけた。
「はぁはぁ、もっと強く頼む」
「な、なんかお兄ちゃんを踏みつけてると、変な趣味な目覚めちゃいそうです」
俺の要求にアトリは答えてくれて、全体重でもって、俺の背中を踏みつけてくる。
「はぁはぁ、いーち、はぁはぁ、にーい」
妹に踏みつけられながら腕立てとか、古今東西のアニメや漫画でもそうそうお目にかかれない光景であるが、俺は自分がそういった世界の主人公では無いことくらい自覚しているので、特に気にしない。
「はぁはぁ、はぁはぁ、さーんはぁはぁはぁ」
実は、既に自分が限界だと感じて腕が上がらなくなってからの限界を優に百回は超えていた。
その上でのこの高負荷による腕立てである、頭は酸欠で真っ白になり、腕は筋肉を動かすという感覚すらとっくに消え失せたが、死に物狂いの力という奴だろう、気力の力、生きるという本能が働きかける根源的な力だけで、肉体を動かしていた。
「お、お兄ちゃん、そろそろやめにしましょう、これ以上やったらお兄ちゃんが壊れてしまいます」
五十回に届く直前でアトリが引き止める。
自分でも、そろそろ限界が来る感覚が感じ取れたので、それを受け入れた。
「分かった、次で最後にしよう、その代わり、全力で踏みつけてくれ」
アトリは俺の要求に従って体重を乗せてくるが、それではまだ足りない。
「はぁはぁ、もっと、もっと強くだ」
肉体の限界はとうに過ぎているにも関わらず、俺は促した。
「こ、こうですか」
少しだけ重みが増したがまだまだだ、体重の軽いアトリにはこれ以上は難しいかもしれないけれど、それでも妥協は許さない。
「はぁはぁ、もっと、もっと強く、頼む」
ブチブチと筋肉が千切れ、みしみしと体が軋むのを感じる。
気を抜いてしまえば直ぐに地面に倒れてしまうのであろう、生き地獄と呼んでも誇張では無いほどの苦痛。
ズキンズキンと、膨張した血管が脳を刺激して、耐え難い頭痛が襲うが、甘えも諦めも許さない。
そこで諦めてしまうような軟弱さは、どこにも存在しないから。
故に、限界の更なる限界を超越できてしまう。
さっきまでなら持ち上げられた状態が、段々と拮抗していくのを感じ、俺は仕上げにと最後の気力を振り絞って力を込める。
「ごー……じゅ!」
ボキッ
「お、お兄ちゃん!?」
腕は持ち上がることもなくそのまま地面とキスをした。
腕は、完全に疲労骨折している、もしも元の世界だったならば、完治に何年も要するにような大怪我だ。
「はぁはぁはぁはぁはぁ・・・心配ない、これで三
度目だから」
だが、この世界には魔法がある、魔法で治療すれば、病気は直らなくとも骨折程度なら簡単に直せてしまうのだ。
限界を大きく塗り替えるこのトレーニングで、俺の筋力は僅か三日で三倍以上の強度を得ていた。
魔法で治療しているためか見た目にはあまり変化は無いけれど、筋繊維の結び付きは、遥かに強固となり、片手でベッドや箪笥を持ち上げられるのは実証済みだ。
俺は、腕が折れるまで腕立て伏せを続けるという工程を既に三度繰り返していたのであった。
その言葉を聞いてアトリはドン引きしながら訊ねる。
「なんで、そこまでする必要があるんですか……」
力を欲する理由、そんなの決まっている。
「…弱い自分が許せないからだ」
この世界には魔法があり、俺にはその才能が恐らくある、でも、どれだけの才能を持っていようとも、指導してくれる者がいなくてはその才能を開花させるのは難しく、そして諸々の事情から秘密主義を貫かなくてはいけないために教官を得るのは難しく、俺の魔法が役立てられるのは当分先か、一生無いかもしれないからだ。
アトリの使い魔として大人しくしていれば、秘密主義は貫けると思う。
だけど、あの日、あの瞬間を目撃したことはきっと何かの予兆なのではないかと思っている。
だから、愚直に出来ることをする、それだけだ。
「私には理解できません、けれど、私が何を言っても、お兄ちゃんを止めることは出来ないんですよね…」
悲しむアトリを見て心配させてゴメンと、謝りたくなるが、それでも俺はこの鍛錬を貫かなくてはならない為に、謝罪は出来なかった。
「……分かりました、じゃあ
アトリのその命令は、俺にとっては、あって無いようなものだ。
限界はあっても、無理を感じる心が、不可能と諦める心が、困難や苦痛を嫌う心が無いのだから。
その後、医務室での治療を受けた後に、アトリは俺に外出を提案した。
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