逆夢境
人は、いつも一人なのだと思う。
独力で生きて、生活していけるか、と言う意味ではもちろん無くて、生命として、個体として、人間はどうしても孤独なのだ、ということ。
いつか、群体を作るクラゲの話を聞いたことを思い出した。一匹でも生きていけるそのクラゲは、仲間と出会うと結合し、一つの生物になる。どんどん繋がって、大きな一匹の生物のようになったクラゲは、神経系も、消化器官も統合して、完全に一個の意思を持った存在になるのだそうだ。長い、それこそ何キロメートルにも及ぶ個体として、大海原を漂って生きていく。
そうなったとき、一つになる前の彼らの意識はどうなるのだろう。一体一体、好き勝手に生きていた生き物が、ある日突然何匹も繋がって一つの意識を共有することなどできるのだろうか。彼らは、それで孤独では無くなるのだろうか。……それとも。統合された一つの意識は、やっぱり
ミソラが屋敷に帰らなくなってからしばらく経った。元々ほとんどの時間を外で過ごしていた人だから、今回も別にいつもと変わりなく、ただ用事が少し長引いただけなのかも知れない。
だからこれは、ただの勘だ。もしかしたら今回は、彼女が帰って来ないんじゃないかという、漠然とした予感。
ふらりとどこかに姿を消して、そのまま消えてしまうような。どこか、そんな印象を抱かせる人だった。そもそも、存在からして都市伝説めいているのだ。
──殺人姫は、神すら殺す。
そんな風に囁かれた時のことを、はっきりとは覚えていない。初めて彼女に逢った時の自分は、随分とぐちゃぐちゃだったことが朧げに残っている程度だ。
夜空に靡く銀の髪。月明かりを弾く刃。そして、氷のような、深い森を思わせるような、底知れない瞳。それだけが、嫌に鮮明に焼き付いている。
おそらく、彼女に出逢ったその時が、私が第二の生を受けた瞬間だったからだと、思う。
後に、彼女が神殺しではなく人殺しと呼ばれる所以を聞いた。
曰く。一度ソレに獲物と見定められれば最後、どんな怪異であろうと、どれほど信仰された神であろうと。
ヒトに、引きずり堕ろされる。
争うすべもなく、その猶予もなく。あらゆる権能、あらゆる伝承、あらゆる信仰を引き剥がされて、定命の運命に堕とされるのだという。
故に、殺人姫。神話の再現だろうと、英雄の死闘であろうと、悪魔祓いであろうとも、彼女が手を下す以上は取るに足らぬ『殺人事件』と定義される。
殺す者と、殺される者がいるだけ。
後には死体が残るだけ。
そんな、冒涜的とも形容できる力を持った人物は、きっと寂しがり屋なのだと思う。
少なくとも私にとって、気まぐれに狂った女を拾うくらいには、甘くて隙のある人間だった。
その後、今思い出してもまるで夢のようだった冒険をいくつかして、彼女が『英雄』と呼ばれる理由を、その姿を、間近で見て知った。けれど、そのことを彼女に伝えたら、彼女は酷く寂しい笑顔で言ったのだ。
──私は、誰かを守ったり、救ったりすることはとても苦手だから。
だからどうか、自分のことをヒーローなどと呼ばないで欲しい、と。
そう呼ばれる資格は、最初から持っていなかったのだ、と。
彼女はそう頼んだきり、それ以上のことは語らなかった。
だから私は、彼女のことを何も知らない。
他に行く当てもなかったから彼女について行ったし、言われるままに与えられた仕事をこなした。ミソラが唐突に幽霊屋敷を購入し、ここに住むと言い出した時は流石に正気を疑った(よく考えれば自分も、彼女もとっくに正気などとは無縁なのだが)。しかしそこは住めば都、とでも言うのか、案外居心地の良い住まいとなった。その頃にはもうボタモチがいて、家事労働の大部分は彼がやってくれていた。体高5メートルはあるショゴスが部屋に陣取り、縦横無尽に触手を伸ばして炊事・洗濯・掃除を次々に片付けて行く様は壮観だった。
屋敷を改装してすぐ、ミソラは私に波の穂邸と名付けたその屋敷を預けて旅に出た。時折、気まぐれのように送られてくる手紙と、気の遠くなるような金額の請求書が彼女の存在を伝えて来た。
ミソラが留守がちになってから、愛すべき平穏で単調な日々が続いて……彼らがやって来た。
探索する者達。
神秘を暴く者達。
珍客の来訪がミソラの差し金であったかどうかは結局、確認していない。あまり興味がないし、知る意味もない。
ただ、その夏のひとときは楽しかった。結果としては、邪神は地上に降臨せず、この屋敷の幽霊は退治され、ひとりの少女が新たな同居人となり、最後にみんなで花火大会をした。
以来、少女となった魔導士とは良好な関係を築けている、と思う。
一度ミソラがふらりと帰って来て、物珍しそうにコービットを質問責めにしていた。それが直接の原因ではないだろうが、コービットはどうにもミソラのことが苦手なようだ。
私はというと、彼女のことも、コービットのこともあまり気にしていない……というより、私はそもそも自分以外の誰かに大して興味を持てない性分らしい。
らしい、というのは、自分の性格についてはコービット……もとい、ウォルに指摘されるまで気がついていなかったからだ。
それまで、自己について考えたことはなかった。正確には、考えないようにしていた。自分の中をいくら探したところで、自己なんてものがあるはずがない。
大体、自分探しなんてして、出てきたものが二目と見られないモノだったら二度と立ち直れなくなるのに。どうして誰もかれもが自分を探したがるのか、私にはよくわからない。物語の中ならまだ理解できるが、どうして自ら傷を負いに行くのだろう。
知らないままなら、何も疑わないまま死ねるのに。
ただ、今振り返ってみれば、私はもっと早くに自分(なんてモノが本当に存在するなら)に向き合うべきだった、と思う。
足先の蹄を見ながら、頭の角を水鏡に映しながら。
かつての自分は何だったのか。
今の自分はどう変わったのか。
そういえば、過去の自分など知ろうともしなかったから。こうなる前と後で本当に自分が変化したのかどうか、それすら定かではなかった。
山羊の角を隠すための黄衣が入った桐箪笥を前にして、思い出したように意味の無い問いを転がしてみる。
もし、自己というものが、外側に在る他者のかたちで決まるのならば。
かつて、あの小説家と共にあった時、怪異と出会う前、しがない絵描きであったあの頃、私は一体、どんなかたちをしていたのだろう。
きっと、もう上手く死ねないのだろう。
それを、安心すべきか悲嘆すべきかも決まらないのに。
ただ、
彼らと共に在る自分が、どんなかたちであるのかは、識りたいと思った。
きっと上手くはいかないのだろう。探しものは何処にもなくて、意味など何もないのだろうけど。
まるで淡夢のような今を、奇跡と呼ぶくらいの感傷は許されるかも知れない。
白鞘に納めた刃をなぞる。この二刀で、未来を斬り拓いていけるだろうか。今を脅かすものを、斬り堕とせるだろうか。
白い殺人姫。小さな魔導士。異形の同居人。
今度はせめて、共に在りたいと、思う。
そういえば。
あのクラゲ……群体となったクラゲは、何らかの外部要因によって体が千切れ、個体単位に分断された場合、さも最初から一匹の生き物であったかのように振る舞うのだという。
個体で生きていくための機能を再生させ、再び単身、大海原へ旅立っていくらしい。
生き物とは案外、そういうモノなのかもしれない。
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