第19話 明日(みらい)


 智くんと会話をしたあの日を、あの時間を以て私は私で無くなったような気がした。

 ずっと夢を見ているような、そんな感覚で。誰の話し声も鼓膜になびかない。


 ──私、どうなっているんだろう。


 問いかけても、それは無限の闇に呑まれ答えを得ないまま消え去る。

 助けても、生きたいも、何も言えないまま。世界が暗黒に支配され、無限の彼方で僅かな光明の兆しさえも与えてくれない。

 そして同時に悟る。私はこのまま死んでしまうのではないか、と。


 * * * *


 時は同じ、澪の病室。

「御影さん!? 大丈夫ですか!?」

 ナースコールが鳴ったわけではない。いや、鳴らせるわけが無い。澪の体は微動だにさせることができないのだから。それでもここに看護師の川原が駆けつけたの、最新医療機器のおかげだろう。

 心電図モニターの動きに異常が見受けられた場合、自動的にナースセンターに知らせが入る仕様になっているのだ。

「先生ッ!」

 川原の切羽詰まった声が澪の病室に轟く。心臓の動きを測る心電図モニターは、けたたましくいつもの倍以上の早さで異常を知らせている。

「分かってる!」

 あたふたとした表情で、しかし声だけは強い意志を感じさせる石井。澪の担当医である石井は何度も澪に呼びかける。しかし、返事はなく人工呼吸器のマスクも曇りが少なくなる。

 呼吸が弱まっている証拠だ。

「手術室は!?」

「ダメです。いま伊藤先生が堀さんの手術を行ってます」

「くそっ!」

 拳を強く握りしめ、心底悔しそうな声音で吐き捨てる。だが、仮に手術をしたところで澪が助かる見込みは少ない。彼女は心臓の動きが徐々に弱まり、最終的に停止する病で、現医療技術では数ヶ月の延命が限界。治すことは不可能なのだ。

「どうすれば……」

 けたたましく鳴る心電図モニターの画面に視線を向けた石井は、小さく零す。心電図モニターの数字は徐々に小さくなり、ゼロへと近づいている。それを黙ってみているしかない石井や川原がどれほど悔しいか。


「澪ちゃん!?」

 無力感に苛まれ、為す術なく立ち尽くす石井たちの元へ、そんな声が飛んできた。

「本津さん?」

 弱々しく、掠れた声で川原が零す。

「石井ィ!! テメェ澪ちゃんに何した!」

 怒気を孕んだ鋭い声で喚く本津。

「何もしてないよ」

 答える石井の声は、しかし弱さにまみれて今にも消えてしまいそうだ。

「何もしてないなら、なんでこんなことになってんだよ」

「何もしてないから、さ」

「どういうことだよ」

 石井の言葉を聞いた本津は眉間にシワを寄せる。

「そのままの意味。もう心臓が弱りきっている。だからもう、僕らには」

 石井がそう呟いた時だ。

「諦めるのはまだはやいだろ!」

 荒々しい息遣いでやってきた伊藤が叫んだ。

「龍馬……」

「本津は下がってろ。今からは医者の医者だけの時間だ」

 そう言うと伊藤は石井を押しのけ、澪の元へと近寄る。

「大丈夫か?」

 そう訊いても答えはもちろんない。

「もう無理ですよ」

「うっせぇ! 諦めるのはまだ早いって言ってんだろうが!」

 弱々しく呟いた石井の言葉に、伊藤はキレた。言葉を荒くして、石井に罵声をあびせる。

 その瞬間だ。

 心電図モニターから発される音が変化した。それは、今までのようなピッピッピッピッという音ではない。同じピーッと言う音が永続的に鳴り続く。

 その音が耳に届いた瞬間、伊藤と本津の表情が強ばる。かつての出来事が脳裏をかすったのだろうか。

「川原さん! 人工呼吸器!!」

 伊藤がそう叫ぶのと同時に、「頼む、絶対助けてくれ」本津の切ない声が響いた。


 * * * *


 ねぇ、あなたはだれ?

 動かない体から発されるはずのない声。しかし、思いが形となり、眼前に揺蕩う光にぶつかる。

 ──ボクかい? ボクはキミさ。

 どういうこと?

 ──迎えに来たよ。

 その言葉で全てを察せた。私はもうこの世にいれる存在じゃない、と。

 そっか。

 ──もう行く? 最後に一つだけ願いを叶えることならできるよ?

 私の切ない言葉を汲み取ったかのような、返しに思わず音が洩れる。

 瞬間、光は形を変えた。螺旋状に回転し、明暗を繰り返す。そして高く舞い上がるように、光の柱を作り上げる。

 どうなってるの?

 思わず飛び出た思いに、光は笑った。そのことに驚きを隠せずにいると、光は先程までのそれを遥かに超える閃光を放った。

 うわっ、まぶしっ。

 動かなかったはずの体が脊椎反射で動く。そのことに驚きながらも、腕で目を隠す。

 ──この姿を見ればボクのことがわかるかな?

 えっ。

 それ以外の言葉が出てこない。なぜなら、そこにいたのは智くんだったから。いや、違う。正確には智くんの姿を象った誰かだ。

 ──今、キミが見ているボクの姿はキミがいま一番逢いたい人の姿だよ。今ならボクの力で本当のキミの元にこの姿の人物を呼べるけど、どうする?

 いまここで私が頷けば、智くんが死んだ私の傍に来てくれるってこと?

 ──そういうことになるね。

 迷いのない智くんの姿をした誰か。それが一体誰で、何者なのか。私には一切分からない。だからこそ。

 智くんに、私の死に姿なんか見せたくない。だから、願いなんていらない。

 ──そっか。キミらしいね。じゃあ、行こっか。

 刹那、光が智くんを纏い背中に羽を生やした。純白の、濁りのない綺麗な羽。

 頭には閃光を凝縮したような、輝きに満ちた天使の輪が浮いている。

 智くんの姿に見えていた人は私が最初に思った通りの人物、天使だったのだ。


 先に行って待ってるね、智くん。


 * * * *


 川原が額に大量の球の汗を浮かべながら、澪に胸骨圧迫を行う。上下する胸に視線は否応なしに集まる。

 三十回ほど圧迫してから、川原は澪の顎を持ち上げマウストゥーマウスを行い、空気を送り込む。

 ただ幾らそんなことをしたところで、動きが弱くなり止まった心臓には無意味であることは考えるまでもない。しかし、それでも川原がやめないのは一類の希望に掛けているからだろうか。

「もう、いいよ」

 涙ながらの声が心電図モニターの音と澪が圧迫される度に軋むベッドの音だけが響く病室に轟いた。

 病室の入口、そこに立っていたのは中筋だ。少し前に帰ったはずの彼がそこに立ちすくんでいた。

「もう、これ以上は澪が可哀想だ」

 恋仲ではない。ただ想い合っていることだけは分かっている。もし、彼女が元気であれば中筋は告白をしていたかもしれない。ただ病気を持っている彼女の、彼氏になる勇気がなかった。だから、告白をしなかった。

 ただ、目の前で息を引き取ったにも関わらず体を傷つけられ続けている姿を見るのは見るに堪えなかったらしい。

「でも、澪ちゃんは!」

 諦めた中筋の言葉に、苛立つ本津は中筋に詰寄る。

「うるせぇ! お前に澪の何が分かるんだよ!」

 そんな本津を跳ね返すように、中筋は叫んだ。それはこの場にいる誰も聞いた事のない、感情にまみれた彼らしくない彼の言葉ホンネ

「好きだったひと。僕なんかを好いてくれててひとが死んだ気持ち、わかんのかよ!」

 そう叫び、中筋はベッドのすぐ側まで歩み寄る。

「ごめんって言ったら怒るかな」

 瞼を閉じたまま、呼吸さえしていない永遠の眠りについた澪に嘲笑混じりに話す中筋。石井や本津らは黙ってそれを見守る。

「僕、今になって後悔してるよ。あの時、ちゃんと付き合いたいって言えば良かったって。いま、答えられないって分かってて伝えるなんてやっぱりずるいよね」

 溢れる涙、鼻水。それを右の手の甲で拭いさり、中筋は続ける。

「だからその言葉は飲み込む。じゃあね、また逢おう」

 そう告げ、中筋は体を屈めた。そしてゆっくりと、亡くなったばかりでまだ体温の残る澪の唇に自分の唇を重ねた。

「今回はカサついてないでしょ? 実はこの前のこと気にしてたんだよ」

 ははっ、と乾いた笑みを浮かべてから中筋は石井たち先生と本津の立っている方に向いた。

「今までありがとうございました」

 涙をぐっと堪えた、力の篭もった声で中筋は頭を下げたのだった。


 * * * *


 澪の死から3日が経った。3日を、と捉える人もいれば、と捉える人もいるだろう。

 澪の家から一番近い大和葬会やまとそうかい。そこにはたくさんの人が溢れていた。

「本日は誠にありがとうございます」

 入口には《故 御影澪葬儀式場》と看板が立てられている。そこで、澪の両親は喪服を身に纏い式場へと入っていく人々に頭を下げている。

「姉ちゃんが……」

 事情は知っていたはずの弟、貴也は涙に顔を汚しながら頭を下げる。

「あの」

 そこへ掠れた声がかけられる。

「はい、なんでしょう」

 母親が頭を上げ、声の主に視線をやる。

「あ、君はあの時の」

「はい、中筋です」

「同じ委員長だったんだよね?」

「そうです。僕何だか実感が湧かなくて。今日も病院に行けば澪さんに会えるような気がして」

 学生服を着た中筋は目尻に涙を浮かべながら、不格好な微笑を浮かべる。

「私たちもよ。でも、もう会うことは……」

 喉の奥が微かに鳴る。その音を聞き、中筋は母親が涙を堪えていることに気づく。

「すいません」

「いいのよ。今日は来てくれてありがとう」

「いえ」

 短く答え、中筋は式場へと入って行った。



 式は厳かに淡々と進み、終わりを迎えた。

「僕にもっと力があれば……。本当に申し訳ございません」

 式場を出てすぐの駐車場で、伊藤は両親に頭を下げていた。

「先生は担当でもないのに力を尽くしてくださいました」

「でも、及ばなかった。それは何もしてないのと同じなんです」

 人の最期を見ることが多い医者という職で、伊藤はあまりに人の死を見ることが少なくった。初めて見た人の死は、本津の親友であった遊佐。それを見た日から、伊藤はそれまで以上に勉学に励み、現在解明されている治療法がある病気は全て治してきた。現に、3日前までは死にそうだった堀麻鈴ほり-ますずの病気は完治に近づいているらしい。

 だからこそ、澪の死が何よりも悔しく怖かった。

「それは違うでしょ、先生」

 父親が涙を流す伊藤の肩に手を置く。

「違わない。それに、死に行く澪さんに立ち尽くしていた石井たちのことが許せないんです。あの時、適切な処置が行われていれば、澪さんは死ななかったかもしれないのに!」

 強く拳を握り、伊藤は自分の腿を連打する。見ている方が痛いと感じるほどに、荒々しい強打に父親は伊藤を制止した。

「その思いだけで、我々は嬉しいです。本当にお世話になりました」

 言葉と同時に、父親は頭を下げた。

「しかし……ッ」

 伊藤はその言葉に全てを込めた。もしあの日手術する時間がもう少し遅ければ。もしあの日手術をするのが澪だったら。あらゆるもしもが脳裏を掠める。

「いいんです。これが、澪の運命だったのですから」

 血の繋がった父親が、自分の愛娘の死が悲しくないはずがない。伊藤が思うよりも数倍以上に悲しいはずだ。その人が、もういいと言っている。それを無下にできるほど伊藤は馬鹿ではなかった。

「そう……ですか」

 呟くように零し、伊藤はその場を去った。


「僕は澪のことが好きだった。いや、好きだ」

 中筋はとぼとぼと歩いて帰る美羽と海琴、岡本に告げた。

「最初はただの委員長同士。でも、気がつけば澪を追っていた。そしていつしか、澪のことが好きだって気づいてた」

「知ってる」

 中筋の発言にそう答えたのは海琴だった。釣り上がった目は鋭く、冷酷さを思わせる。しかしそれは今は半減。涙で目を腫らし、声も鼻声になっている。

「嘘っ!?」

「ほんと。てか、バレてないと思ったわけ?」

 驚きを隠せない中筋に追い討ちをかけるように美羽が言う。

「流石の俺でも分かったぞ」

 海琴程ではないが、少し目の周りを赤くしている岡本は下手くそな微笑を浮かべる。

「隠せてるつもりだったんだけど……」

「まぁ、本人には隠せてたんじゃない?」

 動揺し、落ち込み気味の中筋に海琴は嘆息混じりに言う。

「そうだね。澪ちゃんも中筋くんのこと気にしてたよね」

 美羽はいつかの日のことを思い返し、ははっと笑う。

「そ、そうなんだ」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

 中筋の様子に的確にツッコミを入れる岡本に、中筋は鋭い視線で返す。


「寂しいよね」

 誰かが言った。哀愁漂う声音で、自分の中の何かをそっと吐き出すような。そんな風に感じられた。

「僕、決めたよ」

 そんな感情を全て吹き飛ばすかのように、中筋は吐き捨てた。

「急にいきり立ってなによ」

 通りはいつの間にか住宅街に差し掛かっている。そのため、中筋の出した声はあまりにも大きいように思われる。

「う、うるさいな」

 海琴のツッコミに少し照れを見せながらも、中筋は据えた瞳を揺るがせない。

「で、結局何を決めたの?」

 呆れ顔を浮かべる美羽が訊く。それに対し、中筋は微笑を浮かべ天を仰ぐ。

 

「僕、医者になるよ。不治の病と言われてる病気でも治せるような、そんなすごい医者になるよ」


 まるで宣誓だった。言っていることは稚拙極まりない。治らない病気だからこそ、不治の病と言う。しかし、中筋の瞳に不安はない。本当に不治の病でも治してやる、そんな意志が見受けられた。

 視線の先には、透き通った空があるだけ。しかし、中筋は迷わず、一直線にそこを見ている。まるでそこに誰かがいるかのように──

「いや、無理だろ」

「うんうん。中筋くんそこまで賢くないじゃん」

 岡本と海琴はカップルで中筋の目標にイチャモンをつける。それでも、中筋はもろともせずに不敵に微笑む。

「無理なんかないよ。だって、澪は無理だって言われていた文化祭に来たんだ。僕だってそれくらいのことはやってのけないと」

 上を向いたままそう告げ終わると、視線を前へと向けた。


 ──澪、僕はやり切ってみせるから。そっちで見ててくれよ。


 中筋は胸中でそう吐露し、明日みらいへの第1歩を踏み出したのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る