第18話 動かない体

 意識があるからこそ怖い。指先さえピクリとも動かせないこの体が先生や看護師たちに囲まれる。

「あの、先生」

 締め付けられる喉からどうにか言葉を搾り出す。

「大丈夫。石井先生すぐくるから」

 そう紡ぐ伊藤先生の声はいつものそれとは大きく異なる。それが漠然とした不安を抱かせる。

 頭を伊藤先生、脚を看護師に持たれ、ストレッチャーに乗せられる。

「このまま六階の集中診察室へ連れてくぞ」

「はい」

 伊藤先生の鋭い言葉に看護師が頷く。

 同時に聞きなれないピロピロという電子音が耳をつく。

「はい、伊藤です」

 顔を動かすことができず、伊藤先生が何をしているかわからない。

「今から六階の集中診察室につれていく」

 硬い声だけが聞こえてく。どうやら電話をしているようだ。

「すぐ来れそうか?」

「わかった。とりあえず、先生が来るまで自分が診てます」

 そう言った瞬間、景色がスライドをはじめた。ストレッチャーが動かされたのだ。

「違和感はないか?」

「はい」

 柔和に話しかけられる。私はそれに短く答えることしかできない。

 がたん、とストレッチャーがゆれる。そして刹那の浮遊感を覚える。エレベーターに乗っているらしい。常に上しか向けない状態。首を横に振ることすらできない。

 自分が今どこにいるかもわからない情けない状態。

「私は……」

「大丈夫だ」

 そう呟かれた伊藤先生の言葉は、私の知ってるそれよりも幾分か弱かった。


 集中診察室は、妙に殺伐としていた。

 診察室、というよりは検査室というべきかもしれない。ただ普通の検査室ではない。異様なまでに大きな機械があり、かなり細かな検査ができることは手にとるようにわかる。

「MRIとるね」

 ストレッチャーからMRIの架台に移され、大きな筒状の中に入っていく。磁場を用い、体の中を調べていくものだ。

「じゃあ、いまから入れていくから」

 スピーカー越しの声で私の耳に届く。伊藤先生は私を架台に乗せると、鏡張りで隣接されてある部屋に移動している。

 そしてその言葉を合図に、架台が動き出す。

 伊藤先生が隣接された部屋で架台を動かすボタンを押したのだろう。

 入院してすぐに一度撮ったときは、まだ体は動いており何度も撮り直しをくらったことをよく覚えている。隣の部屋では私の体が常にモニターに表示されており、それを見てどこに異常があるかを確認しているらしい。

「リラックスしててね」

 決まりきった台詞が吐かれ、全身が筒に飲まれた。


 それからどれほどの時間が経ったかはわからない。ただかなり早かったように思う。

 MRIから出された私のもとに現れた伊藤先生と石井先生は、二人そろって顔色をなくしていた。顔を動かせない寝転がったままの私を覗き込だ顔はまさに蒼白。それだけで事態はよくないと理解するに足りる。

「先生……」

 掠れた声で、どうにかそれだけを絞り出す。

「うん、結果伝えるね」

 弱々しさが伝わる声音で、石井先生は紡ぐ。

「ハッキリ言って、状況はかなり深刻だ」

「うん、先生が文化祭に行っていいって言ったから……うん」

 強ばる伊藤先生の声と消え入りそうな石井先生の声が交互に届く。

「筋肉痛とかあったか?」

「脚とか痛かったです」

「やっぱりか」

 私の返事を予想していたのだろう。苦虫を噛み潰したよう顔を浮かべる伊藤先生は、短く息を吐き捨てる。

「どういうことですか?」

「筋肉痛ってのは傷ついた筋繊維を修復する際に起こる炎症のことで、筋繊維ってのは筋肉そのものじゃなくてそれらを構成する組織や細胞のことを言う。御影さんの体は今それを行っているところだ」

 話がどこに帰結するのか分からない。しかし、それを訊く前に伊藤先生は再度口を開く。

「治すためにはまぁ、ホルモンやら治す作用をもったモノをそこへ運ばなければならない。運ぶのは血だ。血を送り出すのは──」

「心臓?」

「そうだ」

 私の呟きに、伊藤先生は力強く頷く。

「ただでさえ弱い御影さんの心臓には荷が重かったみたいだ。その結果脳にしっかりと血液が回らなくなって力が入らないっていう状態に陥ったんだと思う」

 カルテと私の顔を交互に見ながらそう語った伊藤先生は、そのまま頭を下げた。

「こうなることは予想できたはずだ。すまない、完全にこちらの落ち度だ」

 文化祭に行かさなければ、こんなことにはならなかった。伊藤先生はそう言っているのだ。

「大丈夫ですよ。私が望んで、文化祭に行ったんですよ?」

「でも、止めることだってできた。そして、それをするのが医師の役目なんだ」

 目の前で弱っていく少女から目をそらさない。その瞳にはうっすらと涙すらも浮かんでいる。

「私は……文化祭に行けて良かったです。行かせてくれてありがとうございます」

 もし、文化祭に行っていなければ美羽ちゃんやみこっちゃんと笑い合うことが出来なかった。智くんを智くんと呼ぶこともなかった。そして、生まれて初めてのキスをすることも出来なかった。だから──

「これで良かったんです」

 と紡いだ。



 その日の午後一時過ぎ。

「澪ちゃん?」

 恐る恐るとでも表現すべき声音が、一人部屋となった私の病室に響いた。

「その声は美羽ちゃん?」

「うん、みこっちゃんも来てるよ」

「昨日ぶり。澪、大丈夫?」

 一人部屋になったことに不安を覚えているのだろうか。

「大丈夫か、大丈夫じゃないかで言うと大丈夫なんだけど……今日全身が動かなくなった」

「嘘!?」

 昨日は普通だったのに。そう言わんばかりで私の元へと駆け寄ってきた美羽ちゃん。

「ほんと。最初は平気だったんだけど、少し歩いているうちに、力が入らなくなって」

「ほんとなの?」

 一歩一歩、恐怖に立ち向かうようにゆっくりと私に歩み寄ってきたみこっちゃんは訊く。

「ホントだよ。いまもこの格好から動けない」

 きちんと布団をかけられたいかにも病人風の状態。この格好から私は動くことが出来ない。指を動かすことも、首を動かすことも、何も出来ない。

「それ大丈夫じゃないじゃん」

 声色が涙に濡れた。目玉だけを動かし美羽ちゃんの顔を見る。涙が零れ、鼻水も垂れ、ぐちゃぐちゃになっている。そんな彼女は私の手を取った。どれほどの力で握られているのかは分からない。しかし、美羽ちゃんの手の感覚、温度は伝わった。

「ごめんね」

 いつの間にか私はそんなことを呟いていた。

「謝らないでよ、治すんでしょ? 治して3人で仲良くするんでしょ?」

 懇願とも取れる叫びをあげる美羽ちゃんの肩にみこっちゃんは手を置く。

「澪のせいじゃないのよ。私たちも澪が来てくれたことが嬉しくて、色んなことさせちゃったし」

「違う。私も嬉しかったの。嬉しくてずっとこのままがいいなんて、思って」

 美羽ちゃんだけでなく、みこっちゃんの顔にも涙が浮かぶ。浮かんだ涙に私の顔が映し出される。

 そこには涙にまみれた顔がある。どうやら私も泣いてしまったみたいだ。

「鼻水、出てる」

 湿った空気をどうにかしようと思ったのか、みこっちゃんは私の鼻を指さして言う。だが、鼻水を出そうにも、吸おうにも、力が入らず垂れ流しになる。

「力入らないの」

 嘲笑気味にそう告げると、ハッ、とした表情を浮かべたみこっちゃんはポケットティッシュを取り出し、私の鼻にあてる。

「ごめん」

「いいって」

 力が入らないければ何も出来ない。介護をしてもらうしかない。その事を改めて実感し、自分がどれほど情けないのかを痛感した。

 それからしばらくしてから美羽ちゃんとみこっちゃんは病室を発った。



 ここからは早かった。次の日になっても体は動くことは無く、さらに三日が過ぎる頃には自発的に呼吸をするのが辛くなり、人工呼吸器が常時付けられるようになり、食事も取れなくなった。代わりに点滴で栄養補給はしているものの、空腹感は否めず、毎日が辛い。

 そうすれば口周りの筋肉を使うことが減り、力が入らなくなった日から一週間が経つ頃には話すことすらままなくなり、私の生命いのちは終わりが近づいてきたと実感せざるを得なくなった。


「うん、おはよ」

 いつも以上に軽快な声音で病室に入ってくる石井先生。

「……」

 おはようございます、と返したつもりだがそれは声にはならない。弱々しい吐息が零れ、人工呼吸器のマスクが少し曇る程度だ。

「体調はどう?」

「……」

 返事が出来ないにも関わらず、石井先生は話しかけ続けてくる。私は返事が出来ないことに少しの罪悪感を覚えながら、一昨日より取り付けりた心電図モニターの画面を視界の端で捉える。

 規則正しくピッ、ピッ、と鳴る音と安定した数値に安堵を覚える。

「うん、今日も大丈夫そうだね。じゃあ、うん、もう少ししたら点滴するからね」

 一通り私の身体チェックを済ませた石井先生は、そう告げると病室を出ていく。

 心電図モニターの音がやけに大きく耳に届く。その音がやたらと私の心に不安を覚えさせる。


 私、いつになったら動けるようになるのかな?

 いつになったら喉の筋肉が戻って話せるようになるのかな。

 誰とも話すことができなければ、スマホをいじることも出来ない。それゆえか、思考がマイナス寄りになり不安や恐怖以外の感情を抱けずにいる。

 今まで生きてきた中でこれほどまでに退屈で、不安を覚えた時はあっただろうか。

 不意にそんなことを考えるが、やはり今が一番だろう。あれから幾度かお見舞いに来てくれた美羽ちゃん、みこっちゃん、智くんと会いたいよ。コミュニケーションをとることすらできない私と会って楽しくないかもしれないけど、私は会いたい。その時間だけは不安を忘れさせてくれるから。その時間だけが、私の生き甲斐になってるから──


「うん、お待たせ」

 数十分が過ぎる頃、石井先生は手に透明な液体が入った袋を持ち病室へと帰ってきた。その袋には栄養補給用と書かれているのが視界の隅で確認することが出来た。それを残りがほとんど液体の入っていない似たような袋と取り替える。ガラス瓶に袋の中の液がポツ、と落ち、それが私の腕に繋がれた針へ流れるための管へと入る。

 白濁色の管に入った液がどこにあるのか見えず、いつ私の体内に入っているのか分からない。

「うん、これで大丈夫だからね」

 それゆえ大丈夫と言われても、何がどう大丈夫なのか分からない。

「うん、それじゃあまた来るから」

 それだけ言うと石井先生は病室を出ていく。


「あ、おはようございます」

「うん、おはようございます」

 部屋を出たところで石井先生が誰かと挨拶をした声がした。この階で人とすれ違う事が珍しいことであるのに、会話も出来るとは。一体誰なんだろう。

 そう思った時だ。ガラガラと部屋の扉が開いた。

「澪ちゃん、大丈夫?」

 智くんだ。

「……」

 精一杯の力で大丈夫、と言ったつもりだ。しかし、喉の筋肉が上手く震わずに音になることは無い。

「そっか。まだ、なんだ」

 残念そうな声音に、申し訳ないという気持ちが積もる。

「さっき本津さんにあったよ。新しく来た人が女の子なんだけど、ツンとした子らしくて面白くないって言ってたよ」

 本津さんらしいや。

「それからこれ、お見舞いの品。って言っても僕が買ってきたものとかとは違うけどね」

 嘲笑を浮かべた智くんは手に提げていた紙袋の中から1枚の色紙を取り出した。

「クラスみんなからの寄せ書き。高校生らしくなくてごめんね」

「……」

 そんなことないよ。そう放とうと努力をした。しかしそれは無意味に、スーという呼吸音だけが虚しく響く。

「たぶんそんなことない、って言ってくれてるんだよね。ありがと」

 私の意志を汲み取ってくれた智くんに、笑顔を零したい。しかし、表情筋すらも動かなくなっているため能面のように無表情になってしまう。

「この間席替えしたんだよ。僕の隣は岡本くんになったんだ」

 智くんに対して、授業中にウインクしたりしてそうだな。

「澪ちゃんの席もあるよ。確か隣は長井くんだったかな」

 一緒にアイスクレープ屋で販売して、ミスターコンテストで1位とか取ってた男子か。

 優しい甘いマスクの長井くんの顔が脳裏に浮かぶ。



 それからもしばらく智くんが一人で話し続けてくれた。相槌を打たれることも無く話し続けるのは、たぶん辛いことだろうと思う。本当に聞いてくれてるのかな、なんて思っちゃうと思う。でも、智くんはそんな台詞を吐くことなく、ただ楽しそうに話してくれた。

「それじゃあ僕は、お母さんのお見舞いに行ってから帰るね」

 床に置いていた紙袋を手に取り、智くんはそう言って部屋を出ていった。


 心地のよかった時間だった。心にスっと入ってくる智くんの声に話題。好きな人といる時間だからかな。心が踊るような、気分になって時間なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。

 智くんも私と居て楽しいかな?

 お母さんやお父さんもよくお見舞いに来てくれてる。でもやっぱり違う。智くんが一番だ。

 あぁ、また来て欲しいな。


 その想いが強かったからだろうか。心電図モニターの音が加速して、不規則的になることに気づかない。

 少し息がし辛い。でもそれはたぶん智くんと居て、鼓動が早くなっているから。

 だがそれは違う。本当は必死に話そうとしていたことにより、人工呼吸器のマスクがズレ、しっかりと空気が体内に取り込まれていないのだ。

 そのどれもに気づかないまま、私は瞳を伏せたのだった。

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