第17話 進展する病
智くんと口付けを交わしてから、私はどうなったんだっけ?
キスをした時の感覚は鮮明に思い返される。
潤いのない唇は少し痛かった。驚きからか、智くんの瞳孔が大きく開いていたこと。何もかもが手に取るように思い出される。
でも、その後が思い出せない。
嬉しさで舞い上がって忘れてるだけだろうか。それならどうやって病院まで戻ったの?
思考回路がそこまで達したところで、私は自分の視界が真っ暗であることに気づく。
そっと瞼を持ち上げる。霞んだ視界が徐々に鮮明になる。
「ここどこ?」
普通に放ったはずの声は異様にこもっている。
耳に届くそれだけではない、天井も見慣れたものでは無い。どういう理由か、近くに人がいる気配すらもない。いつも通りなら本津さんがいるはずなのに。
「うぅ」
体を起こそうとした瞬間、右腕に痛みが走る。
なに?
そう思い視線を右腕に向けようとして、口に透明の人工呼吸器が取り付けられていることに気づき、右腕にも点滴をするために針が刺さっていることが理解出来た。
どうなってるの?
自分の知らない間に行われた処置に不安が溢れる。そんな時だ。スライド式のドアが開く音がした。体を持ち上げることが出来ないので、視線だけをそちらに向ける。
「あ、目が覚めたんだね」
そこにはトレードマークの寝癖がついていない石井先生がいた。どこか疲れを滲ませる表情で私に歩み寄ってくる。
「体の方は大丈夫?」
「はい」
人工呼吸器の中でこもる声に、石井先生は「それは良かった」と反応する。
「私、どうなっちゃったんですか?」
意味のわからない状況。どうして人工呼吸器までつけられて、点滴までされているのか。それをされるまでの何かがあったのか。私には分からない。
「うん、そうだね。それは、うん、伝えないとだ」
ボソボソと呟いてから、石井先生は真剣みを帯びた瞳で私を見た。
「文化祭の日。澪ちゃんは救急車で運ばれた」
「うそ!?」
記憶にない。だって、私たちのクラスが店部門で最優秀賞取ったのもちゃんと聞いたもん。
「時間は午後7時2分。その時間に119番通報があった。通報主はよくお見舞いに来てくれていた中筋智之くんだった」
そうだ。私は後夜祭が始まってからは智くんといた。そこでキスをして、それから──
ここだ。ここで倒れている。
「でも、先生も大丈夫だって言ってくれたじゃない。どうして? どうして私は倒れたの?」
「うん、それは……先生が甘かったとしか言いようがない。本当にごめん」
ベッドに寝転んだままの私に、石井先生は頭を下げた。
「どうして?」
「たぶん、疲労からきたものだったと思う」
詳しいことは分からない、そう言われた。
それからしばらく石井先生と話をした。しかし、石井先生も暇な人じゃない。すぐに外来患者を診察するために部屋を出て行った。点滴は外し、人工呼吸器は取ってもいいと言われたのでいまはもう外している。
完全にひとりぼっち。いつもならここで本津さんと話していたのに、もうその人もいない。
それに昨日はあれだけ充実していたのだ。ギャップが激しすぎて、もう何をすればいいのかすら分からない。1分が、1秒が、長く感じられる。
「ジュース、買いに行こ」
思いをそのまま口にする。しかし、返事が来るわけもなくただ虚しく虚空に消える。
そのことにため息を零しながら、ベッドの外に脚を出す。昨日の暑さが嘘であるかのように涼しく過ごしやすい環境が整えられていることに、改めて病院という場所の凄さを感じながら、部屋の外へと出る。
青雷総合病院の3階。私はそこにいたみたいだ。本津さんたちと過ごした大部屋の2つ上の階。したがって、ジュースを買いに行くために階段を降りなければならない。
「うぅ、脚筋肉痛なんだけど」
ほとんどをベッドの中で過ごしてきた人が急に1日中歩き回っていたのだ。普通と言えば普通なのだが、ジンジンと痛むこの感じを味わいながら階段を降りるのは辛い。
「エレベーター乗るか」
呟き、階段とは反対方向にあるエレベーターに向かう。
エレベーターの前で、下向きの矢印があるボタンを押して到着を待つ。
「誰か乗ってるのかな」
5階にあったらしいエレベーターは、1度4階で止まる。
それからしばらくしてエレベーターが動き出し、扉が開く。
「あっ」
ストレッチャーやベッドがそのまま入るようなつくりになっているため、かなり奥に余裕があるエレベーターの中にいた人に、私は思わず声が洩れた。
「ひ、ひさしぶり」
そう吐かれた声は、か細くて今にも消え入りそうな気配がある。
「まりんちゃん、だよね?」
ただでさえやせ細っていたが、今のまりんちゃんの容貌は異常だった。頬は痩せこけ、腕も骨しかないと思わせるほどで、軽く握ればポキッと折れてしまいそうである。
また、綺麗に手入れされていた茶色く染められた髪も毛先ははね、傷みも見て取れる。髪の毛と同色の瞳にも色は宿らず、私たちと一緒にいた頃のまりんちゃんからは想像ができない姿に変わり果てている。
「うん」
答えた彼女の後ろには看護師が控えている。たまたまなのか、まりんちゃんが病室から出るから付いているのか。そんなことを考えながらエレベーターに乗り込み、2階のボタンを押す。
「体調はどう?」
「昨日、文化祭に行ってきたよ」
「そうなんだ。いいね、まだそんなに動けて」
羨望が体現したかのような声音に少し恐怖を覚える。壁にもたれ掛かるように立つまりんちゃんは、もう長くないことが手に取るようにして分かる。
「まりんちゃん……」
紡ぐべき言葉が見つからず、私は名前を呼ぶことしか出来なかった。同時にエレベーターが1階に到着する。
「先に降りていいよ」
「ありがとう」
呟くようにお礼を述べたまりんちゃんは、エレベーターの壁に手を当て、それを頼りに一歩一歩ゆっくりと出口へと向かう。
「はぁ……、はぁ……」
通常ならば四歩もあれば十分に出ていけるはずなのに、まりんちゃんは永遠の果てを目指すように息を荒らげながら出て行こうとする。しかし、それがあまりに遅すぎたせいだろう。エレベーターは扉がしまろうとする。
私は慌てて開のボタンを押す。
「ありがとね」
そういったのはまりんちゃんではなく、後ろに控えていた看護師だ。この看護師はまりんちゃん専属みたいなものだろう。
「くっ……。はぁ、はぁ」
どれほどの時間をかけたのだろうか。まりんちゃんはエレベーターから出るだけの行為に、かなりの時間と体力を消費をしているようだった。
「まりんちゃん……。大丈夫かな」
あまりの状態に、私は心配が口をついた。
まりんちゃんがエレベーターから出たのを確認してから開のボタンから手を離し、私もエレベーターから出る。1階に来て思う。1階はこれほどまでにガヤガヤとしていたのだ、と。入院場所が1階から3階、入院患者専用階になった今になって分かる。
「これからどうなっちゃうのかな」
昨日、みこっちゃんや美羽ちゃんと病気が治った後のことを約束した。やりたいこと、いっぱいあるんだ。カラオケに行って、ショッピングに行って、海にも行って、海外とかも行ってみたい。それでみんなで大学生になりたい。
余命宣告なんて吹き飛ばしたい。余命通りに死んでたまるものか。絶対に生き残るんだ。
願いは願わなければ意味が無い。
だったらいいなじゃだめ。絶対にそうするんだ、って思わなきゃ。
そんなことを胸中で吐露しているうちに、入院患者の憩いの場となっているナースセンターの前の開けた場所に着く。
「お、一日ぶり」
声をかけてきたのは、生茶と書かれたパッケージフィルムの巻かれたペットボトルを手に持つ本津さんだ。
「ですね」
「まさか違う部屋に行くとは思わなかったよ」
「私もよ。てことは、今はあの大きな部屋に本津さんだけ?」
「わいの器のデカさと比べたら大したことない」
「そんな話じゃないですってば」
相変わらずの本津さんに、苦笑を浮かべながら私は午前の紅茶を購入する。
「それはそうと、中筋ってやつとはどうなった?」
ペットボトルのキャップを締めながら訊く本津さん。
「え、えっと」
フラッシュバックするのはやはりあのシーン。唇と唇が触れ、互いの温度が伝わった、恥ずかしいような嬉しいシーン。
「うわぁ、嘘だろ!? マジで進展したのかー」
少し悔しそうな、しかし私を祝福してくれるような声音。
「ごほっ、ごほっ。も、もぅ! 私のことはいいでしょ」
本津さんの言葉に口に含んだ午前の紅茶が器官に入り、むせ返る。
「良くないなー。そんな顔真っ赤にされたら、気になって仕方がない」
楽しげにニヤニヤとしながら、本津さんはテレビの前に置かれているソファーに腰をかける。
そして隣を指さす。
座れ、という意味だろう。
「何にも無かったですよ?」
「何か会った人ほど何も無いって言うんだよなー」
キャップを開けたり閉めたりしながら、本津さんは呟く。眼前のテレビでは、ちょうど昔やっていたらしいドラマの再放送が始まった。
「ほんとに何も無かったですって!」
「顔真っ赤にして言われても説得力無さすぎ」
「……っ」
返す言葉もなく、黙ってしまう。
「まぁ、わいも鬼じゃないから何があったかまでは聞かないでおくよ。でも、何かはあったんだろ?」
何か。それは確実にあったと言える。互いの想いが交錯し、口付けをした。これを於いて何も無いと言えるだろうか。
私は小さく頷く。
「やっぱり。まぁ良かったんだじゃない? 生きる活力になると思う」
「はいはい、そうですかー」
軽口を叩きソファーから立ち上がろうとする。しかし、脚に上手く力が入らない。
あ、あれ?
「なんだよ。それと、あの部屋に明後日から新しい人来るらしい」
「そうなの?」
幸い本津さんには力が入らなかった、ということは伝わらなかったらしい。
普通に話を続けてくれたことに安堵を覚えながら、相槌を打つ。
「らしい。
「男の人? 女の人?」
「わいでもそこまではわからん」
キャップの開け閉めをしていた本津さんは、キャップを開けきり、お茶を口に含む。
「てか入院前に入院してくる人の情報を持ってること自体が普通じゃないよね」
「そうか?」
「知らないけど、そうじゃないの?」
あっけらかんに言いきり、再度立とうとする。
「え……」
やはり力は入らない。しかし、勢いを付けて立ったこともあり、立ち上がることは出来たがその勢いを殺すことが出来ない。
勢いに乗ったまま体の重心は前方に移り、床と顔の距離が異様に近くなる。
「何やって──」
私の異常な行動に声を上げる本津さん。しかし全てを聞き終える前に、私の顔は床と接触する。
鈍い音が響き、私の体は床に叩きつけられた。そして同時に、鼻から鉄のような臭さを放つ紅い血が流れ出た。
「だ、大丈夫か?」
本津さんの慌てた声が頭上から届く。
「だ、大丈夫だけど……」
そう返事をしてから両手をつき、体を起こそうとする。だが、手にも力が入らない。
「立てないの」
どれだけ力を入れたとしてもピクリとも動かない。さらに、床に触れているはずの手からその感覚を感じられない。
「なに言ってんだよ」
「ほんとのほんとになんだよ」
嘘でこんなことは言わない。
「御影さん、大丈夫ですか?」
ナースセンターから様子を見ていた看護師の一人が声を大にして駆け寄ってくる。
「大丈夫です」
力が入らないこと以外に異変はない。わざわざ騒ぎ立てるようなことではない。
そう思い言葉にすると、また新たな声が飛び込んできた。
「御影さん、痛いところある?」
聞いたことはあるが、誰の声かまだは思い出せない。
「鼻が痛いです」
「鼻は痛いだろうね、ぶつけてるから」
冷静にそう返される。視線をあげるも腰元までしか見えず、誰かまでは分からない。だが、白衣を着ていることはわかったので先生であることに間違いはない。
「龍馬、そんなことよりも澪ちゃんは大丈夫なのか?」
「診てみないわからん」
本津さんの言葉で、ようやく先生の正体が伊藤先生だと気づく。
「他に痛いところある?」
「痛いところはないです。ただ──」
「ただ?」
「全身の力が入りません」
先ほどから何度も立ち上がろうと試みている。だが、力が入らず失敗に終わっている。さらに立ち上がろうとしていることに気づかれないほど、私の体は動いていないらしい。伊藤先生の顔を見ようにも首は動かない。まるで全身の筋肉が削ぎ落とされたかのような気分になる。
「これを握ってみてくれるか?」
真剣な声音でそう告げた伊藤先生は、体を屈め手を差し出した。手を伸ばそうとする。しかし、言うことを聞かない。
少し前まで午前の紅茶を飲んだり、キャップを閉めたり、と出来ていたのだ。出来ないはずがない。そう思っても、手は伸びず、差し出された手に触れることが出来ない。
「これはかなりやばいかもな」
伊藤先生の言葉に焦りが滲んだ気がした。
「これで握ってみてくれ」
私の手を取り、自分の手を包むように私の手を固定した伊藤先生はそう言う。私は言われたままに力を入れる。自分では精一杯、ありったけの力で握る。
だが──
「力、入れてるか?」
と言われた。
それはつまり、伊藤先生はなんの圧も感じていないと言うこと。力を入れているはずなのに、相手には伝わっていないということ。
「……はい」
「ストレッチャー持ってきて! 早く!」
自体がどうなっているのか分からない。しかし、伊藤先生の焦燥感に溢れる声を聞いて、自体の深刻さを理解できない者はいない。
私の心は不安で押し潰されそうになっていた。
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