第5話 運命の日と私の周り


 いつもの朝とは少し違うように感じられるのは、たぶん私の気持ちの問題だろう。布団の中から出たくない、そう思ってしまうほどに憂鬱だ。

 今日なんて一生来なくていいのに……。そう思いさえした。

「おはよう。もう起きてるんでしょ?」

 自室へ入ってきたお母さんが、いつもより少し暗いトーンで声をかけてくる。

「うん」

 もぞもぞと布団の中へ潜るようにして小声で返事をすると、お母さんはカーテンを開け

「準備もあるんだから、そろそろ起きてきなさいよ」

 と言った。

「分かってる」

 いつもと同じように、普段通りに。そう心がけたつもりが、この後に起こりうる可能性が言葉を暗くする。

「ならいいんだけど」

 その事を言及することなく、お母さんは短くそう綴り部屋を出た。

 胸の奥に引っかかる何か。それが生への執着なのか、死の恐怖なのか、具体的なものは分からない。でも、それでも私の奥に何かがあるのだけは確かなのだ。

 短くため息を吐いてから、体を起こす。気持ちの部分でだるいと感じるが、それ以外は至って普通だと思う。

「今日の結果次第でこの気持ちも変わるのかな」

 窓の外側から微かに耳に届くスズメの鳴き声。私はそれに負けじ劣らずの声量でそう零し布団から出た。



 病院に着く頃、分厚い雲が空を覆い陽の光を地上から遠ざけていた。院内もいつもより暗く感じられるためか、真昼間から院内全ての電気が点灯してある。

「もう、やめてくださいよ!」

 受付より左側に繋がる入院患者のための診察室から大きな声が聞こえる。ここは総合病院ということもあり、多くの科が存在し外来患者も多い。その上入院患者も多数いるため外来患者と入院患者の診察を分けているらしい。

 看護師は別段患者を担当する、ということは無いが先生に至ってはそれがある。入院患者は担当の先生がつくが外来患者に至ってはその限りではない。だがそこに例外はある。例えば私だ。

 この先、入院することが確かな患者には前もって担当の先生をつけることがあるらしい。

「ちょっとくらいいいじゃん。減るもんじゃねぇーんだし」

 声が院内に反響する。あぁ、めんどくさい患者なんだな。

 小さくため息をつき、天井を仰ぐ。シーリングファンライトの扇風機がグルグルと回っている。

「だから本津もとづさん、やめて下さいってば」

 ガラガラと扉が開く音がする。どんな人なんだろう、病院で騒ぐ人って。

 上げていた顔を下ろし、左側の廊下の方へと視線を向ける。

 そこには金髪の男がいた。綺麗に染め上げられた髪色とは似ても似つかない老けた顔。ただ言葉の節々で見られる感じでそこまで歳はいってないのだろうとわかる。

「あまり見ない方がいいわよ」

 緊張が滲む顔のお母さんが私に一瞥をくれ、短くそう言い放つ。

「分かってる。絡まれたら面倒くさそう」

 そう答えたところで、ちょうど私の名前が呼ばれる。

「さ、さぁいきましょう」

 強ばった言葉。固くなった表情。震える足。何もかもがこれから石井先生から放たれるであろう言葉に緊張しているみたいだ。

「う、うん」

 それが伝染うつるように私の言葉も固くなるのがわかった。


 それらか案内されるままに、いつもの第三特殊診察室に入る。そこには右側の髪が寝癖ではね、額にはびっしりの脂が浮いている石井先生がいた。

 この先生はいつも通りすぎ……。なんて言うか、この脂が嫌なんだよね。

 うん、と短く呟いてから奇妙な笑顔を浮かべる石井先生は、こちらの心情なんて無視して椅子に腰をかけるように促した。


 * * * *


 月曜日の放課後。

 ──文化祭、楽しみだよね!

 そんな声はあちらこちらから聞こえる。

「ねぇ、アイスクレープ屋さんするんだったらさやっぱり衣装も可愛くしないとね!」

「それはある!」

「えぇー、でも折角するんだったらさイケメン店員にしたくない?」

「それもあり!」

 ケラケラと笑うクラスメイト。

「俺ら店員なんてしたくねぇーぞ?」

 浅黒く日に焼けた運動部男子が声を上げる。

「あんたになんか頼むわけないじゃん」

 1人の女子クラスメイトが言う。

「うっせーよ。なら誰がイケメンなんだ?」

「……言わないしー」

 一瞬言おうかと悩んだのか、妙な間があきそう言う。

「ねぇ、御影さんも店員やるならイケメンがいいよね?」

「え? 私?」

「うん」

「どうかな」

 私の曖昧な返事に声をかけてきたツインテールのクラスメイトは、分かりやすく眉をひそめ

「ふーん」

 と言い私の元を去る。

「どうしたの? 今日の澪、元気ないみたいだけど」

 受け答えがいつも通りじゃなかったかな?

 みこっちゃんが怪訝そうな表情が私に訊く。

「そうみえる?」

「うん。なんかいつもと違う感じがするっていうかなんていうか」

「あはは、鋭いね」

 乾いた笑みをこぼし、みこっちゃんの顔を見る。その顔には心配という色が濃く出ている。

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「うん」

「でも、武中先生に呼び出されてたよね?」

 みこっちゃんは終わりのSHRで武中先生が言った言葉を拾い上げる。

 ──御影は放課後職員室来てくれ

 武中先生の言ったその言葉の意味は私以外はたぶん分からない。

「まぁ、ね。ぶ、文化祭のことだよ!」

「ふーん、文化祭ねー」

 みこっちゃんは疑わしい目で私を見てから、そう零しカバンを持つ。

「私、今日は帰るんだけど無理しない方がいいと思う」

「あはは。分かってるって」

 短くそう返し、教室から出ていくみこっちゃんを見送った。


「藤生さんってほんと冷めてるって感じー」

「わかるー。なんか怖いよね?」

「目、だよね」

 女子のグループの1つが、あははと笑いながらみこっちゃんのいなくなった教室で言う。

「私も行こっと」

 友だちだからと言うのは強いかもだけど、いない人のことを悪く言うのは聞いてて気分が悪い。だからと言って、私がやめろって言うのも何だか違う気がする。

 カバンを持ち上げ、気づかれないように教室を出ようとする。そこへ、

「あ、御影さん。帰るの?」

「ばーか、さっき武中先生に呼ばれてたじゃん」

 先程みこっちゃんの悪口を言っていたグループの人たちから声がかけられる。

「うん、だから職員室行くの」

「そうなんだー。実行委員ってのも大変なんだねー」

「ほんとにー! あ、アイスクレープ屋さんだっけ? あれすっごく楽しそうだと思ったよ。頑張ろうね!」

 少し赤茶けた髪色の華奢な女の子が、満面の笑みを浮かべて言った。

「う、うん」

 手に取るようにわかる私とそれ以外のクラスメイトの温度差。

「どうかしたの?」

 どこか不安げな表情を浮かべ、その女子は言う。

「何にもないよ」

 苦し紛れのような弱々しい笑みで答え、私は教室を後にした。


「失礼します」

 扉を開け、教室とは違う重たい空気の流れる職員室に入る。

「あぁ、御影か。ちょっと待っててくれ」

 私の姿を認識した武中先生は掌をこちらに向け制止し、行っていた作業をまとめ青色と白色のファイルを片手にこちらに向かってくる。

「悪いな、ついてきてくれ」

 そう告げ、入口付近に掛けてある鍵のひとつを手に取り、武中先生は職員室を出てその2つ右隣にある教室、生徒指導室のドアの前に立つ。

「何か指導されるんですか?」

「いや。逆に訊くが何か指導されることをしたのか?」

「別に、そんなことしたつもりはないですけど……」

「じゃあ大丈夫だ。それに今使える教室がここだけだからここを使うだけだ」

 いつも阪神タイガースのことを話す時の口調とは違う、どこか重みのある言葉でそう言いドアの鍵を開ける。

「入ってくれ」

 促されるままに生徒指導室へと入る。

「まぁ、座ってくれ」

 教室の中央にあるテーブルを挟むように置いてあるソファーに手を向けられ、言われるままに座る。武中先生は、その向かいにあるクッション性の強い椅子に腰をかける。

「昨日、御影の母親から電話があったんだが……本当の話か?」

「何がですか?」

 お母さんが先生に電話するとは言っていたが、何をどこまで話したのかは知らない。

「いや、だから──病気のこと」

 武中先生は遠慮気味にポツリと言う。私は何事も無いように、首肯し

「ほんとですよ。でも、わかんないでしょ?」

 最後はどこかおどけるように笑顔を浮かべて言う。

「笑い事じゃねぇーだろ」

 その行為に武中先生は真剣な顔で叱咤する。

「ごめんなさい」

「べ、別にそんなつもりで言った訳じゃないが」

 素直に謝る私に武中先生は困ったように言い、持ってきていた青色のファイルを広げる。

「聞いた話じゃ、生まれつき心臓が弱いってことだったな」

「そうです。私もそれを知らされたのは去年です。で、あと1年くらいしか生きられないって両親から言われました」

「そ、そうか」

 自分で背負い込むにはあまりに大きすぎる話に、武中先生はなんと返事をすればいいのか分からないのだろう。あやふやな答えを口にしながら、青色のファイルに挟んである紙の上にペンを走らせる。

「それで、お母さんの話じゃもうすぐ入院だとか?」

「はい」


 ──澪ちゃん、ごめんね。本当にごめんね。澪ちゃんが普通に生活することが出来るのはあと1週間くらいになると思う。

 ──それからはどうなるんですか?

 ──……入院生活。

 石井先生は口癖であるうん、を挟むことなく重く静かに真実だけを告げた。幾らかは覚悟をしていたつもりだった。でも、それはつもりであって本当の覚悟とは程遠いものだった。言葉は鉛となり自身に降りかかり、頭は真っ白になって座っていることすら忘れて果てのない穴に落ちている気分になる。

 そしてそのまま頬に生暖かい涙が伝った。


「実際のところどれくらい先の話なんだ?」

 武中先生の言葉は、土曜日の出来事に思考を奪われていた私を現在いまへと引き戻した。

「1週間程先の話です」

「おまっ……嘘だろ!?」

「ここで嘘を言って得はないでしょ?」

 私の言葉を聞いた武中先生は深い溜息をつき、困り果てたような目で私を見る。

「こういうことは前もって言っといて貰わないと困るぞ」

 その通りだと思う。でも、私だってこんな急展開になるなんて思ってもみなかった。何だかんだ言って、結局今年くらいは何とかなるんじゃないかとすら考えてもいたくらいだ。

「すいません」

 そんな思考を押し退け、謝罪の言葉を口にする。それに対し、武中先生は何も言わずにただ頭を掻いた。

 済んだことはしょうがない、と言わんばかりだ。

「文化祭の実行委員はどうするんだ?」

「どうするもこうも──私はもう学校に来れなくなりますからね」

「誰かと代わりたいか?」

 先生は静かにそう訊いた。私は直ぐにでも頷くつもりだった。でも、体は私の思いとは裏腹に頷くことをしなかった。

 どうして? こんな面倒なこと、やりたくないのに!

 脳内でそう叫ぶ。しかし、それは声に出ることは無く、そこに佇んでいるしかできない。

「続けるか?」

 そんな私に武中先生は静かにそう訊く。ただ首を横に振るだけ。それで私の重荷は無くなり、文化祭とは距離を置ける。理解は出来ているのに……、私は首を縦に振っていた。

「わかった。なら先生はできる限りのフォローはしてやる。だから──頑張れ」

 武中先生は最初から私が続けると言うのを知っていたかのような、そんな口振りでそう告げた。


 職員室を出て、帰路へと着く。文化祭の実行委員という重荷は背負ったままだと言うのに、何故か気持ちは軽くなっていた。武中先生に事実を知ってもらえたことが良かったのか、それともまた別の理由なのか、今のは私には分からない。

「あれ?」

 そんな私を見つけてか、ある男子生徒が声をかけてきた。学校を出てしばらくの所なので、周りにも生徒はいる。敢えて私を選び、声をかけてきているのだ。

「どうしたの? 岡本くん」

 そう返すと、眼鏡姿の岡本くんは楽しそうにメガネを上げ、口を開く。

「大した用事はないさ」

「なら別に話しかけなくてもいいんじゃない?」

「だんだんと藤生さんに似てきたな」

 少し引き気味の笑顔を浮かべる岡本くん。

「そうかな?」

「自覚なしか。まぁいいや、そんなことよりさ今度遊ばね?」

「どういう脈絡でそんなこと言ってるわけ?」

 突然の提案に怪訝な表情を浮かべるも、岡本くんは物怖じすることなく私に詰め寄る。

「べ、別にいいじゃん。でさ、3人で遊ぼうよ」

「さ、3人?」

 そりゃあ岡本くんと2人なんてのは、絶対無理だから有難い提案なんだけど……。

「そう。俺と御影さんと藤生さん」

「なんでそこでみこっちゃんが出てくるわけ?」

「えっ!? そ、それは──そうだ! 御影さんと仲良いいからだよ!」

 そうだって言ってる時点で今思いついてるじゃん。まぁ、澪なら仲良いしいいんだけど。

「行くかどうかは別にして、誘ってとくよ」

 その言葉を聞いた岡本くんは分かりやすく表情を明るくし

「ほんとか? ありがとう!」

 と言った。

「で、いつにするの?」

 私にはそんな時間あんまりないのだけど、という言葉は飲み込みそう訊く。

「2人とも部活してなかったよな?」

「うん、してないと思うよ」

「じゃあ、水曜の放課後とかどうだ?」

 明後日か。まだ来週の土曜日が入院の日だから、まだ大丈夫だよね?

「べつにいいよ」

 呟くように答え、歩くスピードをやや速める。

「おいおいちょっと待てよ」

 私のスピードに合わせるように歩幅を広くする岡本くん。

「まだ何かあるの?」

「ほんとに似てきてるよな」

「何がよ」

 冷たくそう言い放つと岡本くんは苦笑を浮かべ、私を見る。一瞬、お互いの目があったがそれを気にするような仲ではない。リアクションをなしに、岡本くんは口を開く。

「御影さんから誘ってくれないか? 水曜日」

「はぁ!? なんで私なの? 言いだしっぺなんだし、自分で誘えばいいじゃん」

 もっともなことを言ったつもりなのだが、岡本くんはどこか困ったような表情を見せる。

「ほんとに何なの」

 懇願するような目をむけ、ほのかに頬を朱に染める。

「俺からだと断られる可能性が高いじゃん。だから、頼むよ。俺、本気なんだよ!!」

 何が本気なの?

 そう聞かなきゃわからないほど私は鈍チンじゃない。青春の一ページを、本気で駆け抜けようとしているんだ。私なんかじゃわからない、普通の高校生のワンシーン。

 恋や愛、好きといった感情は朧気で、ひた隠されて、可憐で私なんかが立ち入っちゃいけない。

「そっか。それじゃあ、私なんか居ない方がいいんじゃない?」

 自分でも最悪だって思うほど、意地の悪い言い方をする。

「それはだめ。俺が持たない」

「学校じゃ平気じゃない」

「みんないるじゃん」

 訳のわからない彼自身の心境の状態にため息をつき、

「わかった。どうにかみこっちゃんを誘っとく。場所とかは?」

「ま、まだ」

「なんでその辺り考えずに行動するかなー」

「思い立ったら吉日って言うだろ?」

 そうだけど……、最低限ってのがあるでしょ。

「まぁいいわ。場所はまたってことにしといてあげる」

「ほんとか? 助かる! ありがと!! 今から考えてくるわ」

 岡本くんはやる気に満ちた表情に加え、眼鏡をくいっと上げる。そして私を置き去りにして走り去る。

「男子ってたまに分けわかんないよね」

 その様子だけを見たらしい美羽ちゃんが後ろから声をかけてくる。

「美羽ちゃん、まだ帰ってなかったの?」

「アイスクレープ屋の看板手伝わされてたの」

「あぁ、そっか。美羽ちゃん宣伝担当になったんだっけ?」

「そうそう。それでさ、適当に指示して帰ろうと思ったら妙な組み合わせが居たからさ」

「妙って何よ」

 微笑でそう言うと、美羽ちゃんは真剣な表情で「めっちゃ妙だよ」と圧す。

「で、でも別に大した話してないよ?」

 私の口から岡本くんのことを話すのは簡単なことだけど、それを言うのは絶対にダメだと思う。だから私は誤魔化す。しかし美羽ちゃんは、ウソ、と短く放つ。

「岡本が告白でもするんでしょ?」

「そ、そうなの?」

 美羽ちゃん、なんて鋭いのっ。

「相手は──そうね、藤生さんってところかしら」

 ドンピシャじゃん。そう思い、私が黙りこくっていると美羽ちゃんは声を上げて笑った。

「ごめんね、そんな顔させるつもりじゃなかったんだ。本当は声、聞こえてたの」

「えっ、えっと」

 状況理解が追いつかず、ごにょごにょと口ごもる私に美羽ちゃんは軽く頭を掻く。

「岡本、声でかいじゃん? だから聞こえちゃったの。ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったんだよ?」

 美羽ちゃんはほんの少し悪びれたように、でもどこか楽しむように言う。

「まぁ、私のことじゃないしいいんだけど」

「でさ、ほんとに組んであげるの?」

「約束しちゃったしね」

 岡本くんが駆け抜けた道を眺めながらそう放つと、美羽ちゃんは「そっか」とだけこぼしたのだった。

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