第4話 体の異変
文化祭の出し物が決まった日から五日が過ぎた。感傷に浸ることは多くなったものの、それまでと変わらない生活を送ることができていた。
「澪、今週の土曜日だからね」
六月に入ってすぐ。まだ梅雨入り宣言はされていないが、今日は朝から強い雨が降っている。
「わかってる」
玄関先で靴を履きながらそう答える。
「わかってるならいいわ」
じゅー、と何かを焼いている音とともにお母さんの声がした。私はそれを耳に残しながら、「いってきます」とこぼし玄関ドアを開けた。
家から一歩出るだけでバチバチと雨が地面を打つ音が激しく耳に入る。
「すごい雨」
声と同時に傘を開く。それからゆっくりと歩みを進め、学校へと向かう。
土曜日か……。
胸中で吐露し、昨晩家に掛かってきた電話を思い返す。
『青雷総合病院の石井と申します。御影さんのお宅でお間違いありませんか?』
たまたま受話器を取り、飛び込んできた声。薄れ掛けていた恐怖という圧が全身に襲い掛かる。重くのしかかるそれは、呼吸さえ忘れさせ時すらもとめてしまったかのような感覚に陥る。
『はい』
『うん、えっと、澪ちゃんかな?』
『そうですけど……』
『そっかそっか。今週の金曜日の夕方にこの前の結果が届くんだけど、土曜日とか病院の方来れるかな?』
『たぶん』
『うん、それはよかった。お母さんにも説明するから代わってもらえるかな?』
そう言われるまま、私はお母さんを呼ぶ。
「なに?」
「石井先生から」
「えっ?」
お母さんはわかりやすく表情を変え、恐る恐るといった風に私の手から受話器を取る。
『お電話代わりました、澪の母です』
そこからお母さんは私同様の説明を受けたのだろう。ところどころで『はい』と相槌を入れながら電話をし、電話を切ると同時に、
「土曜日、病院行くわよ」
と告げたのだった。
傘を打つ雨音。アスファルトを打つ雨の音。飛沫を上げて走り抜ける車。遠くで聞こえる急ブレーキの音。そのどれもは雨になると日常的に聞き、見ることのできるもの。でも、私にとっては日常ですらも非日常。
ただ歩いて学校に行くことですらも、ありがたいなんて思うことがあるなんて。
中学時代の自分からは想像できない思考に、苦笑をこぼしゆっくりと歩く。
「おはよ、今日は早いじゃん」
そんな時、背後からそんな声がした。
「おはよ。美羽ちゃんこそ早いじゃん」
「雨に濡れるの嫌いだから、ゆっくり行けるように早めに家出たんだ」
「一緒」
「やっぱりー?」
高校生とは思えない派手派手しい傘をさした美羽ちゃんは大きな声で笑う。
「うん」
そう返事をし、私たちは眼前の信号機の赤の点灯に従い歩みを止める。
「そういえばさ、今日だよね?」
「あぁ、そうだったね。でも、この雨じゃ延期じゃない?」
「どうなんだろ」
美羽ちゃんは、んーとうなり声をあげながらそう言う。
「でも、実際今年も澪ちゃんで決まりでしょ?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるでしょー。去年、ぶっちぎりだったじゃん」
「まぁ、今日あるかわかんないじゃん」
そうこぼし、今日行われる予定だった二学期に行われる体育祭のリレー代表を決める百メートル走が中止されることを願った。
「そうだけど。みんな澪ちゃんで決まりって言ってたよ?」
「そうなの?」
去年はちょうど私の余命があと一年ほどだって、両親から聞かされたばかりの時期にそれが行われ、その事実から目を背けるように全力で走った。息が切れることもなく、今までで一番じゃないかって走りができた。そのときは、本当にみんな驚いて、陸上部からのスカウトがきたくらいだった。
「うん。先生たちも期待してるって」
美羽ちゃんは笑顔でそう言うと、同時に信号が青に変わる。
「そんなことないよ」
私だってできれば走って、一位になって代表になって体育祭で走りたい。
でも、たぶん……無理だ。
文化祭の出し物を決めるとき、中筋くんから逃げた時それほど大した距離を走っていないのにバテて、息が上がっていた。それに、二学期って言えば私はもうこの世にいないかもしれない。
「澪ちゃんって本当に謙虚だよね。またそれがうざくないからすごいよねー」
何度か頷きながら感心したように言い、美羽ちゃんは私を見た。
「どうしたの? 何かあった?」
そしてそう訊いた。
「えっ……、べ、別に。何にもないよ?」
「そう? なんか元気ないように見えたから」
何かを感じたのか、美羽ちゃんはやわらかい笑顔を見せてそう言い、「何かあったら言ってね」と加えた。
学校に着いたのは、いつもより数分早い時間だった。
「もうちょっと早く着いてもよかったのにね」
傘をばさばさと振りながら、付いた水滴を弾きながら美羽ちゃんは言う。
「そうだね。雨降ってると、時間かかっちゃうね」
美羽ちゃんと同様に傘をばさばさと振りながらそう答える。
「あれ? いま来たの?」
金色の光沢を放つ楽器を抱えた黒縁メガネの男子生徒が声をかけてくる。
「そうだよ。岡本くんは朝練今終わり?」
「そうそう。いまから相棒のホルンちゃんを片付けるところ」
「そういうのマジできもいから」
岡本くんの発言を聞いた雨粒が大量に付いた傘を閉じながら、今来たばかり感満載のみこっちゃんが冷たい一言を放つ。
「朝から小言が聞こえるわ」
岡本くんはみこっちゃんの言葉を一蹴し、音楽室のほうへと歩を進めた。
「みこっちゃん、おはよう。今来たの?」
「そうそう。来たと同時にあんなきもい台詞が聞けるとは思わなかったけど」
げんなりした様子でそう吐き、みこっちゃんも傘に残った水滴を落とすように傘を振る。
「藤生さんは今日のリレーの代表決めるやつあると思う?」
「あるらしいわよ。聞いた話だけど、体育館でやるらしいよ」
みこっちゃんはちらりと私に視線をくれながら言う。
「なによ?」
「別に。どうせ、私たちのクラスは澪で決まりだろうからやる意味ないなって思うだけ」
「藤生さんもそう思う?」
「思うわよ。去年のあれ見てたらね」
「だよねー」
「二人してやめてよ」
そう言った私の声にいつものような張りも、強さもなく未来への不安が滲んだ弱弱しいものになった。
教室に入る、やはりいつもよりクラスメイトの集まりは悪かった。あと五分もしないうちにSHR開始のチャイムが鳴るというのにまだ空席がちらほらと残っている。
雨のせいか朝から気持ちが晴れない。私は自席から外を眺める。窓を打つ雨。雫となって雨は窓を伝い、桟へと入っていく。遠くに写る山には白い雲がかかり霞んで見える。
幻想的というにはありふれていて、日常的というには頻度が少ないそれに胸が締め付けられる。
今にも零れだしてしまいそうな思いに、私はそっと唇をかむ。
「ほんとに何もないの?」
席に座ったまま、藤生さんは訊いた。
あるよ、私もう死んじゃうの。
そう言ってしまえば私は楽になるのかな……。
「うん、大丈夫」
そんな思いを隠し、できる限りきれいな笑顔を浮かべて答える。同時にチャイムが鳴り、武中先生が教卓の前に立つ。
「この調子だと今日はないかな。まぁ、昨日のホークス戦の反省をしっかりして欲しいな。特に藤波。四回まではしびれたけど、五回の三者連続フォアボールはやめて欲しい。糸原のスーパーダブルプレイで無失点だったが、見ていてほんとにひやひやした! 打線はもうちょっと頑張りが欲しいな。ということで、今日のリレー代表決めるのは体育館でやることになったから」
いつも通り、大事なことをついでで報告する武中先生の話を聞き終えたところで皆の視線が私に集まった。
「今年もすっごい走り見せてくれるんでしょ?」
「今年も御影さんで決まりだね」
あちらこちらから湧く期待の声。それが私の心を苛む。苦しくて、つらくて、押し潰されそうで、全部がいやになる。
私が何をしたの? 何で全部私に押し付けるの? もう私に関わらないでよ……。
今まで感じたことのない自分の負の感情に吐き気がする。人が嫌いだ。自分を棚に上げて私を担ぎ上げる。私なら何でもできる? そんなわけないでしょ、ふざけないで。私はもう、何もできないんだから……。
そんな思いが巡る中、体育の時間はやってきた。
同じ時間に体育の授業を受ける三クラスでの代表を決める。そして、今日選ばれた代表が明日のお昼休みに体育の時間が違う残りの二人の代表者と顔合わせをする。そこで走る順番を決めたりするのだ。
嫌だな。
そう思っても、準備体操は終わる。そしてすぐに百メートル走は始まる。
「えっと、まず男子は寺田と清水と森と三田。女子は藤生と青井と松原と飯田」
体育を担当する教師が名簿に目を走らせながら、順番に名前を呼ぶ。名前を呼ばれた者は体育館の端に並び、走る準備を整える。
「がんばれー」
その声があちらこちらから沸く。それに答える者、無視する者。人の性格ってのがわかる。
「みこっちゃん」
「わかってる、まじめに走るよ」
私が名前を呼ぶと、みこっちゃんは小さく微笑みそう答える。
「うわぁ、藤生さんが笑ったよ。こわいよな」
隣からそんな声がする。私はそれをかき消すようにみこっちゃんに応援を飛ばした。
「よーい、スタート」
先生の声と同時にキュッと体育館シューズと床が擦れる音がし、皆が走り出す。その中でも一番早いのは男子の寺田くんだ。サッカー部のエースらしく、整った顔できれいに走っている。そしてその後を追うのがみこっちゃんだ。黒髪を揺らしながら走る様子は様になっており、ぐんぐんとゴールに向かって走っている。
すごいな。
その思いと同時に羨ましいな、という感情が生まれるのに私は気づかない振りをした。
それからしばらくして、ついに私の番になった。
ギャラリーのボルテージはマックスにまであがっており、指笛を鳴らす者までいる。
「やっぱり去年のリレーの影響もあって人気者だな」
先生は茶化すように言う。
「あはは」
乾いた笑みで交わし、スタート地点に並ぶ。
走れるかな? 負けたほうがいいのかな? でも、本気で走ったほうがいいのかな?
「よーい――」
溢れ出る思いに思考は追いつかないまま、先生の腕は天井に向かって掲げられる。
それが振り下ろされると同時にスタートなんだ。どう走ればいいの?
「御影さん!! がんばれ!!」
どんな走りで魅せてくれるのだろう、そういった類の声ばかりのなか、その声は私の耳に鮮明に届いた。
「どん」
腕が振り下ろされる。先ほどまでのごちゃごちゃした思考が嘘であったかのように、走ることだけに振り切られた思考に従い走る。
振り切った風が少し後になってから体に触れる。湿った空気が纏わりつくように体を舐めるも、瞬間で置き去りにしてゴールへと向かう。
どんな走りをしていたのだろうか。
沸いていた生徒たちは静まり返っている。腹部にふれるゴールテープだけが私が百メートルを走りきった事実を教えてくれている。
「はぁー、はぁー、どうだった?」
スタート寸前で応援を飛ばしてくれた人の下へ歩み寄り、そう訊いた。
「うん、すごくかっこよかった」
「ほんと? ありがとう。でも、女の子に対してかっこよかったってのは失礼じゃない?」
「だって、本当にかっこよかったんだもん。やっぱり御影さんはすごいよ」
「そんなことないよ。中筋くんの応援がなかったら私走れてなかったと思う」
中筋くんはわかりやすく頬を赤らめ、視線をはずす。
「そ、そんなことないよ」
「そんなことあるんだって」
「中筋、早く来い」
そんな話をしていると、中筋くんは先生に呼ばれた。どうやら次が中筋くんの番だったらしい。
「澪ちゃんはやっぱりすごいね」
「そんなことないって。美羽ちゃんはまだ走ってないよね?」
「もうちょっとしたら呼ばれると思う」
呼ばれたくないなが前面に出た表情で、美羽ちゃんはため息をつく。
「そんな顔しないのー」
「いや、普通はするでしょ。走るの苦手だし」
いやいや、そう言おうとした瞬間、視界がぐるぐると回り始めた。
なに?
不安が、恐怖が、私を蝕み、その場に立っていることすらままならなくなる。ちかちかと回転が襲いそれらから吐き気が誘発される。
「どうしたの!?」
体には美羽ちゃんの手の感覚がある。にも関わらず、声は体育館の端からかけられているような気になるほど遠い。
「すごい汗」
わずかに聞こえた声がそう告げた。私はその声を最後に記憶がとんだ。
* * * *
ここは……?
開けた視界は焦点がしっかり定まっており、ぐるぐると回転している気配はない。
白い天井が目に入ることより、仰向けに寝転がっていることがわかる。
そして背中に感じる暖かい感触、これはおそらくベッドだ。
ぎしぎしと音を立てながら体を起こす。
「あら、起きたの? 大丈夫?」
見たことのある顔が私に話しかける。
「はい。たぶん熱中症ね」
簡易的な白衣を羽織った齢五十の保健室の先生が体温計を手渡しながら言う。
「そうですか」
「みんな心配してたわよ」
わきの下に体温計を挟みながら思う。これは多分熱中症ではないと。
「代表、誰になったかな」
「寺田くんと藤生さんがやるっていってたわよ。でも、本人の希望で御影さんに代わりたいって」
「藤生さんが適任だと思います」
その言葉と同時に体温計がぴぴっと鳴る。
「うん、三十六度五分。大丈夫だね。いまは四時間目だから、教室での授業だと思うけど戻れる?」
「はい。ありがとうございました」
そう告げてからベッドを降り、床に足を着く。瞬間、全身に電撃が走ったかのような痛みが走る。
「うっ」
「どうかした?」
「い、いえ」
どうにか誤魔化し、スリッパを履いてから保健室を出た。
どうして……。
手すりにつかまりながら、ゆっくり階段をあがる。しびれがあるのは右足だ。まるで切り落とされたかのように、感覚がない。
痛みもかゆみも、何もない。
それがこんなに怖いことだったなんて。
「なんなの」
ポツリとそうはき捨てる。手すりをつかむ手には力が入り、目じりからは涙が零れだしそうになっている。
「もう嫌だ」
生きてるのがこんなにつらいだなんて思わなかった。こんなこと思うんなら、学校なんて行かなきゃ良かった。わざわざ勉強して、高校受験して、合格して、高校なんて通うんじゃなかった。受験なんてせずに、ただただ自由に遊んでおけば良かった。
ポツリ。涙が頬を伝い階段に落ち、誰もいない廊下に響く。
「私……もうダメだ」
負の連鎖、とでも言うのだろうか。
負の思考が次から次へと溢れ出し、その重圧に押しつぶされそうになる。
「お願い、誰か私を助けて」
「何ブツブツ言ってんだ?」
そう呟いた瞬間、頭上から声が降ってきた。
「だ、誰?」
「誰って、失礼だな」
溢れた涙で視界は歪み、頭上に居るはずの人物もはっきりと見えない。でも、この声って。手の甲で涙を拭い去ってから、再度顔を見る。
「中筋……くん」
言葉ともにどうして、という感情が生まれる。それが顔に出ていたのだろうか、中筋くんはバツが悪そうに頬を掻きながら視線を逸らし、
「同じ委員長として帰ってこなかったから困るから」
と言い訳じみたことを言う。
「そっか。心配かけたね」
「ほ、ほんとにな」
照れたように視線を泳がせる中筋くん。
中筋くんが私を心配してくれていた。そんな単純なことが嬉してく、ただそれだけで心が温まるようなそんな気がした。
「もう大丈夫なのか?」
そう訊かれる。私は心中の嬉しさを隠すように、視線を外し小さく頷くことで答える。足の痺れはまだ残っている。でも、先ほどよりは少しはマシになったように感じる。
中筋くんにした返事を嘘にしないために、私は痺れる脚に鞭を打ち、階段を上がる。
「無理すんなよ」
「うん」
大丈夫、バレてない。
そう思いながら、私は隣で心配そうな表情を浮かべている中筋くんに微笑んだ。
大丈夫……。まだ大丈夫なはず。
自分にそう言い聞かせるようにし、教室へと戻った。
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