オレンジ色にさようなら

第33話 決断の時

 勝利に息子が生まれてから、もう三年が経とうとしていた。勝利は変わらず空港基地に勤務している。

 いつの間にか階級も一つ上がり、それに合わせて給料も上がった。すると部下との関わりも以前とは変わり、書類に追われる時間が増えた。若い機動救難士も育ち、今では彼らがメインで飛んでいく。そんな彼らが、安全に任務遂行できるよう体制を整えるのが、勝利の仕事となった。「行ってきます!」と精悍な顔で言われ、「行ってこい」と送り出す姿は、客観的に見ても現場から一線を引いた、老いたベテラン救難士だった。


 五十嵐勝利、間もなくアラフォーという域を抜ける夏を迎える。



「隊長。この訓練計画、どう思いますか」

「ん? どれ……」


 日々の訓練とは別に組まれたもの。季節や天候を見ながら行われるものだ。機動救難士も近ごろは海だけでなく、山間部へも出動する。予測のつかない天候の変化に、救難に関わる全員は、どんな環境にも対応できるようにと達しがあった。川で起きた事故、大雨による洪水、土砂崩れで残された人を救う。警視庁、消防庁、防衛省、そして海上保安庁は管轄を超えてそれらに対処する。

 もはや、海上保安庁は海だけではなくなっているのだ。


「悪くはないな。しかし、ここにもう少し人員をあてた方がいいんじゃないか。例えば、情報をとりまとめて本庁へ報告する人間と、避難者に状況を説明する人間」

「ああ、なるほど」

「あと、男女比率も見てくれ。救難チームはこれでいいと思う」

「ありがとうございます」


 ベテランの勘頼りではダメだ。理論と経験を活かしながら、記録に残せるよう計画しなければならない。全ては後輩たちのために。

 こうして若い彼らの働きと活躍を見ていると、勝利も改めて考えなければならないと思い始める。

 現場からの引退を。




「ただいま」

「おかえりなさい」

「パパーっ!」


 長男の海優かいゆうは勝利に似てか、体重は同じ三歳児の平均値を上回る大きな子供だった。顔つきは母親の海音に似て、優しく性格もおっとりしていた。


「カイ、いい子にしていたか?」


 いつもにこにこ笑顔で勝利を迎える。これが勝利にとって、何よりもの癒しだった。


「あげてー。パパあげてー」

「もうカイったら。パパ疲れてるよ?」

「いいさ。お利口にしていたカイに、ご褒美だ。そらっ」

「うわーい」


 おっとりしているのに、スリルがある事が好き。勝利は海優の両脇に手を入れて、天井に向かって投げてやる。ちょっとハイレベルの高い高いだ。


「わー、カイよかったね」


 キャッキャ、キャッキャとはしゃぐ海優の口元は興奮でヨダレがいっぱいだ。純粋な喜びに浸る我が子を見て、勝利の心は和んだ。


「はー、重たくなったな。さすが男の子だ。大人になったら、人のためになるような事をするんだぞ」

「カイたん、パパになる」

「はあ? なんだよ夢がねえなぁ」


 そんな男の会話に、海音が割って入る。


「違うのよ。カイはショウさんみたいな、強くてかっこいい救難士になるって言ってると」

「本当か?」

「うん。本当だよ?」

「そうか。カイもトッキューになりたいのか。そうか……」


 自分がもっと若ければ、せめて息子が小学生くらいだったなら、今の自分の活躍を記憶に残してやれるのに。そんなことを思っしまう。それには最低でもあと三、四年は現役でいる必要があった。


(さすがに、無理だな……)


「ショウさん?」

「ん?」

「難しい顔しとるけど、なにかあった? 仕事のこと?」

「いや。息子こいつを、どうやってトッキューに仕立てるかって、考えていた」

「え? もう、気が早すぎ」

「わはは」


 まだ、海音に言うまでの考えは、まとまっていなかった。







 海上保安庁は戦後間もなくの1948 年(昭和23年)に、アメリカの沿岸警備隊をモデルにして設立された。まだ、海上自衛隊が発足する前だ。長きに渡り日本の海を守ってきたことになる。


「え、俺がやるんですか!?」

「うん。五十嵐くんが適任だろうって、全会一致だ」

「いやしかし、こういうのは若い奴らにさせた方が」

「五十嵐くん。君、そろそろ現場引退を考えているんだろう? だったら、七管の星としてド派手にやろうじゃないか」

「部長……知っていたのですか」

「一応は私も海の男なんでね。椅子に根が生えたような毎日を過ごしているが、君の気持ちは分かっているつもりだ」


 海上保安庁が発足して大きな節目となる今年は、あちらこちらの管区で記念行事や展示訓練が行われていた。先日、七管区所属の大型巡視船やしまも、観閲式に参加し総理大臣を乗せた。ここ七管区でも、それらにちなんだ記念行事を予定していた。


「しかし……」

「息子に見せてやりなさい。父親の雄姿を。子供には、ボロボロになって最後を迎えるより、キレイで立派な姿を見せてあげた方がいい」


 勝利は心の何処かで、ボロボロになって使い物にならないと納得してから引退しようと思っていた。そうでなければ諦めがつかないと思っていたからだ。そんな自分の姿を見ても、海音なら分かってくれる。しかし、子供はどうだろうか。そんな父親を見て、いだいた夢は壊されないだろうか。子供は純粋で見たままを受け入れる。ましてやまだ三歳だ。父親の本当の気持ちなど、分かるはずはない。


(強くてかっこいい救難士か……)


「分かりました。それを現役最後に、しようと思います。ご配慮、感謝いたします」


 勝利は深く頭を下げた。最近はあまり、現場に出ていない。それは、そういうことなのだと言い聞かせる。居るだけで安心するからと言われて居座った隊長という地位に、そろそろ別れのときが来たのだと。

 静かにフェイドアウトしていく同期たちに比べたら、自分はなんて恵まれているのだろうとも思う。


(決めた。これが、最後だ)


 決心をして保安部を出た。そして駐車場の車に乗り込む。


「あーくそ! 年齢としには勝てないんだな。仕方ないって、分かってるんだ。もう無理だろって、自分がいちばん分かってるよ。分かってるさ……」


 ひとり、愚痴った。ここで、吐くだけ吐いたら本当に終わりにしよう。


「一生現役だなんて、何様だ! 諦めろ! 迷惑をかける前に脱ぐんだ」


 海音が好きだといったオレンジ色のつなぎは、若者に譲れ。


 みっともない姿は見せられない。でも、何処かで吐き出しておきたかった。車内に響く自分の情けない嘆きを、昇華させなければならない。それが、部長が与えたくれた公開型の訓練展示デモンストレーションだった。


 現役ラストを飾る場を与えられた。それだけで、十分すぎるだろうと心を鎮める。


「よし! 帰るか」


 今の自分には愛する家族がいる。もう、一人ではない。だから、その家族のために残された人生を全うしよう。高速道路を走りながら、勝利は流れゆく景色に自分を重ねた。脇芽もふらず走り抜けた過去。身内よりも他人の救命に力を注いだ経歴。これからは速度を落として、まだ幼き息子と、若き愛おしい妻と並んで歩いていこう。


 ようやく、そう思えるようになった。





 現場から一線を引く決心をした勝利は、その最後に恥じぬよういっそう訓練に励んだ。管理業務の合間を縫って、若手救難士たちとトレーニングを重ねた。


「隊長、早いですってえー!」

「お前らが遅いんだろ。腕の筋肉をもっとつけろ。片手で支えなきゃなんねぇだろうが」

「隊長が異常なんですって」

「うるせー! ごちゃごちゃ言ってないで、あと二回往復して来い!」

「うぃーす!」


 訓練をしている限りでは、まだまだいける。若い奴らには負けてない。そう思えるし、見ている隊員たちもそう口々に言う。しかし、それでも何かが違うと、勝利自身感じていた。


 今、勝利が最も欲しいものは三十代の頃の自分自身だった。経験、判断力、体力、機転、全てにおいて自分の理想に叶っていた。しかし、徐々に衰えていくものをカバーするのは、経験と体力だけになった。それもその片方が、だんだんとカバーできなくなっている。残された経験は若い隊員たちに知識として残してやらなければならない。今の勝利は、そんな位置に立たされていた。


 守るものが増えた今、怖いもの知らずの海猿はもう居ない。


「よーし、上がれ。休憩だ」


 世代交代は嫌でもやって来る。


「隊長、基地見学の方々がいらっしゃいました」

「すぐに行く」


 広報的な仕事も増える。


(悪いことじゃない。いつまでも俺が、現場にいなければならない方が、よっぽど問題だ。そうだろ?)


 勝利は、自分の心と体にそう言い聞かせた。




 その日、勝利は記念行事の招待状を受け取る。特別にもらった家族向けの招待状だ。しかし、未だ海音には言えていない。


 今回、勝利は自分の両親を呼ぶつもりでいた。いつも両親は勝利に、年寄りが九州まで出ていくのは迷惑だからと遠慮していた。しかし、勝利がこれが現役最後だと伝えると、久しぶりに旅行もいいなと言い始める。


「ホテルはこっちで準備するから」

『ああ、頼んだよ。あちらのご両親には何を持っていこうか。母さんと相談しよう』

「うん。悪いね」

『母さんもきっと、これで安心して夜が眠れるっていうぞ。ずいぶんと長かったな、ご苦労さん』

「いや。こっちこそ、長いこと心配させて申し訳なかったと思ってる。母さんにも、そう言っておいて」


 めったに故郷くにを出ない父親が、九州までやってくると言う。この仕事を選んだときも、前回の結婚も離婚も、海外派遣も、口を出さずに見守ってくれていた。きっと、ずっと誰よりも心配していたに違いない。そんな両親を思うと、やはり今回が最後にするのが正解だったと、勝利は思う。


「じゃあ、宜しくな」

『ああ』


 自分の想いだけでは、続けられる仕事ではない。家族の支えがあってこその、救難任務だったのだ。これからは年老いた両親のために、そして、愛おしい我が家族のために、平穏に生きるべきだと静かに悟った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る