第32話 幸せの結晶
勝利は船員を生きて救助できたことに胸をなでおろした。一晩中、海に浸かりながらも生きようと耐えた船長を心から讃えた。
(海の男は強いな……俺はまだまだだ)
空港基地に戻ると待ち構えたいたかのように、職員の出迎えがあった。何故かそこには普段とは違う空気が漂う。
「隊長、先に報告を。あ、私がタイピングしますから口頭でどうぞ」
「あ? ああ」
「横からすみません。ここにサインと印鑑を」
「なんだよ。急かすなよ」
「隊長! えっと、終わったら送りますので」
「待て、何かあったのか」
「今は報告書に集中してください!」
「おいっ」
部下にあれこれと促され、されるがままにサインをし捺印をした。やけに事務所内のチームワークが良すぎる。
「終わりましたね! さっさとロッカー行って着替えてきてください。車、玄関につけておきますから!」
勝利はドンと背中を押されロッカールームに押し込まれた。
「おおっ、と。なんなんだよ気持ちわりいな」
不審に思いながらも手をロッカーにかけたそのとき。至急! と書かれた紙が貼り付けられてあった。その内容に勝利の心臓は激しく疼く。
(は!? 出産……!?)
「産まれるのか!!」
そこからはどうやって着替えを済ませたのか分からない。激しくロッカーが音を鳴らし、バタバタと走る勝利の姿を職員全員が見送った。
「隊長! こっちです!」
「わるい! 急ぎで頼む!」
どんなに過酷で厳しい現場で働いていても、何があっても冷静でいられる勝利も、家族のことになるとそれは違った。
「隊長。顔が怖いですよ! 奥さん驚きますよ。もっと、ほら、緩めて」
「分かってるよ」
ただ、早く側に行ってやりたい。海音の顔を見て手を握り、いちばん近くで励ましてやりたい。それしか考えられなかった。
◇
病院につくと、勝利を見つけた看護師が駆けつけて現状を報告した。
切迫早産であること、薬で抑えられず急遽出産に切り替えたこと。そして、血圧低下で状態があまりよくないこと。次から次へと早口で聞かされ、勝利の頭は整理することで精一杯だった。
「海音は大丈夫なんですよね!」
「先生がついています。ご主人入られますよね? であればこちらで消毒をして着替えてください」
「はい」
「万が一、帝王切開になった場合は承諾書にサインを。分娩室からは退出いただくことになります」
勝利は分娩に立ち会うため、指定された服に着替えて消毒をした。混乱しそうになる自分に何度も落ち着け! と叱咤した。
「勝利さん、間に合ったんやね」
「お義母さんっ」
「海音は大丈夫やけん! そばで応援してやって。ね!」
「はいっ」
海音の母に背中をバンと叩かれて、勝利は分娩室に押し込まれた。
「ご主人はこちらに」
勝利は忙しくする看護師の間を縫って、海音の側に立つ。酸素マスクをつけられて目を瞑る海音を目の当たりにして、勝利の顔はひどく歪んだ。
昨日の朝、見送りをした海音の笑顔を思い出す。あんなに元気だったのに、今はこんなに苦しんでいる。二人分の命を抱えた体が悲鳴をあげている。
(俺はなんて非力なんだ。いつも誰かの命を救っているというのに、いちばん大事な海音に何もしてやれない!)
「ご主人! 声をかけてあげてくたさい! 頑張ろうと、思えるように励まして」
医師から言われて勝利はハッとする。今、海音に必要なのは一人ではないということだと。
「海音、目を開けろ。海音っ! 俺はここにいる。絶対に離れない! だから、俺たちの子供を産むことに集中してくれ」
台風の通過で海音はたくさんの不安を抱えていたに違いない。暴れだすお腹の子を抱きしめながら不安な夜を迎えた。愛する夫は、荒れる海に出ている。お腹の子を守らなければ、夫の無事も祈らなければ。押しつぶされそうになっていたはずだ。
「海音! 海音っ」
「……しょうり、さん」
勝利の呼びかけが届いたのか、海音は薄っすらと目を開けた。そして、マスク越しに勝利の名を確かに呟いた。
「レベル、戻ってきました」
「よし。点滴はそのままキープして。五十嵐さん! 聞こえすよね。頭、赤ちゃんの頭が出てきましたよ。さあ、もう少し。お母さん頑張って!」
その言葉に海音の意識はしっかりと戻る。そうだ、私は分娩台にいるのだと思い出す。それと同時にお腹の痛みも戻ってくる。
「あっ、痛ぁぃ」
海音はたまらずつけていた酸素マスクを外した。
「海音」
勝利は海音の手を強く握った。勝利の大きくて分厚い手のひらが、海音の手を包み込む。
「え、ショウさん? ショウさん、来てくれた、の?」
「すまなかった。急いだんだが、もう中に入ってて……すまん」
「ううん、ありっ、がと」
海音の痛みに歪む表情を見ると、勝利の胸は激しく痛んだ。変わってやりたい。でも、変わることはできない。
「ここからは海音、お前の戦いだ。大丈夫だ、一人じゃない。先生がいる、俺もここに、いる」
「は、いっ……っああっ」
勝利は海音の手を、ただ握り返すことしかできない。
その歯がゆさを噛み締めながら、命の現場の厳しさをまた知らされた。
◇
今季最大と言われた台風は日本海に抜け、勢力を弱めながら北北東へ進んで行った。もうすぐ熱帯低気圧に変わる。
昨晩の嵐が嘘のように今の空は穏やかで、カーテンを捲ると真っ赤に染まった雲が浮かんでいた。
もうすぐ、長かった一日が終わる。
「海音。よく頑張ったな」
「ショウさん。ありがとう。赤ちゃんは?」
「新生児室の小さな箱の中に入ってご機嫌だったぞ。あ、ごめんな。海音より先に抱かせてもらった。小せえのに、力強いんだな。俺の腕を蹴るんだよ」
「ふふ、ショウさんの子やもんね」
「なんだよそれ」
少し早く生まれてしまった我が子は暫く入院となる。でも、早く生まれた以外はなんの問題もないと告げられた。体重も2800グラムを超えており、文句なしだと医者は笑った。
「予定日で産んでたらあの子、何グラムになってたんだろう」
「あー、想像つかねぇな」
「ふふ。私のこと、考えて出てきてくれたのかもしれんね。思いやりのある子に育つよきっと」
「そう願う」
勝利は海音の手を持ち上げてその甲に自分の唇を押し当てた。労いと感謝の意をたくさん込めて。この世に自分の血が流れた人間を、愛する女が産んでくれた。この上ない喜びが溢れ出て止まらない。
「ショウさん?」
「ん?」
「顔、上げて?」
「断る」
「なんでよ。見せてよ」
「ダメなものはダメだ」
「もぅ……」
勝利は海音の手の甲に口付けた後、額を押し付けて顔が見えない様に俯いた。胸の奥が熱くて熱くて仕方がない。焼けて焦げておかしくなりそうだった。そんな勝利の気持ちを察したのか、海音は勝利の短く整えられた黒髪をくしゃくしゃと撫でる。
「後で赤ちゃん、一緒に見に行ってくれる?」
「ああ」
「わたし、ちょっと寝るね。ショウさんも、寝て」
「ああ」
..。o○☆○o。..:*゜*:..。o○☆○o。
二人で生んだ小さな命は
五十嵐海優。
また、海の男が生を受けた。
「ねぇ、ショウさん。昨日は潜ったと?」
「久しぶりに深いところまで潜ったな」
「行方不明の船長さんは……」
「おう。助かったよ。ひっくり返った船の下に空間があってさ。運の強い人だ」
「よかった。さすが元
「そんな元トッキューでも海音には勝てないんだよな」
「え?」
ニカッと白い歯を見せて勝利が幸せそうに笑う。それにつられて海音も笑顔をこぼした。
「ところで、いつから解禁になるんだ」
「解禁? なにが?」
「俺はいつになったら海音を抱けるんだって聞いている」
「はぁ!? もう、バカやない? もう、ショウさんのえっち!」
きっと賑やかな家庭になるのは間違いない。勝利さん、ほどほどに。
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