第31話 命をつなげ!

 海音は慣れない点滴で気を失うように眠っていた。目覚めた時はもう外は真っ暗で、サイドテーブルには起きたらナースコールしてくださいとメモが残されていた。

 海音は枕元のナースコールを押す。カーテンをめくると、激しい雨と風が窓を叩きつけ、唸るような音まで聞こえた。


「五十嵐さん。お食事、運んできました。大丈夫ですか? ここに置きますね」

「ありがとうございます」

「外、酷いわね。停電にだけはならないで欲しいわ」

「停電……」

「ごめんなさい不安になるわよね。病院は大丈夫なのよ? 自家発電に切り替えられるから。ただ、家で過ごす妊婦さんたちは不安だろうなって。暇だったらテレビも自由だから、リモコン置いておきますね。お食事終わったら、また呼んでください」

「はい。お食事、頂きます」


 海音は、友人が個人病院の食事は美味しのよと言っていたのを思い出す。それは確かで、母親が作る料理を食べているのと変わらなかった。ご飯にお味噌汁、おかずは2品もあるしデザートまで付いている。質素どころかお店で食べるような贅沢さがあった。

 海音はひと口食べて少し休憩し、またひと口とゆっくり食べた。お腹の張りを抑えるウテメリンという点滴は海音の体にまだ馴染んでいない。気怠い、息苦しい、全身が火照って少し頭がぼんやりする。なんの音もないのも寂しくて、海音はテレビをつけた。あまり考えなくてもいいような番組はないかとチャンネルを送る。でも、どこも台風情報でもちきりだった。


「あ」


『転覆した船から乗員1名が救出されましたが、依然、行方不明となっている船長の手がかりはつかめていません。引き続き海上保安庁の捜査がーー』


 高波でザブザブ浸かる港の映像が流れ、台風の強さを物語っていた。画面の端でレポートするアナウンサーのレインコートは役にたっていない。あの荒れた海で、乗組員の捜査を勝利たちは行っているのだろうか。そう思うと心臓はドクドクと大きく跳ね始めた。


「ショウさん」


 海音は持っていた箸をそっと置く。祈る事しかできないもどかしさと、夫は大丈夫なのかという不安が襲いかかった。するとぎゅーっとまた、お腹が張った。血管が詰まるような、締め付けられるような感覚だ。痛みはないけれど、一定の間隔でくる張りはなかなか治まらない。


「っ、ごめん。ごめんね。心配しないで、貴方は私が護るから。パパも頑張ってる、貴方も頑張って。ね?」


 その晩、定期的に訪れるお腹の張りに、医師は点滴の量を倍に増やす決断をした。個人病院で投与できるギリギリの量だという。これで治まらなければ、総合病院への転送か、場合によってはそのまま出産になるかもしれない。海音はスマホを胸の上で握りしめながら目を閉じた。


(大丈夫、勝利さんも、この子も乗り越えられる。絶対に……)


 夜明けがこれほど待ち遠しいと思ったのは、海音の人生で今日が初めてだったかもしれない。





「海音。もう一度、勝利さんに」

「ダメ。さっきメッセージ残したけん、それ以上はせんで」

「でも……」

「大丈夫。覚悟しとったことやし、本当は立ち会って欲しくなかったと。だって、じゃまやん? イキんでる時に頑張れって」

「まあ、それもそうね。でも、勝利さん張り切っとったけんね」

「ふふ。悔しがる顔、見るのも楽しみ」


 結局、一晩たっても点滴の効果は見られなかった。早朝の診断で子宮口が広がっていることが分かり、分娩することが決まった。

 陣痛促進剤を投与してしばらくすると、効き目が現れ始めた。それは海音が予想していた痛みとまったく違った。重くて、怠くて、苦しくて、とにかく痛い。大きな痛みの波をやり過ごしてひと息ついて、そしてまた痛みがやってくる。それを乗り越える度に痛みは強くなり、とうとう我慢ができなくなった。


「はっ、ああ。痛ったぁ……っ」

「もうちょっとやけんね、しっかり」

「お母さん、い、痛いね」

「そりゃ痛いわよ。でもね、産んだら忘れるんよ。だからしっかりその痛みを味わいなさい」


 休める間隔がだんだんなくなってきた。もう、お腹の子は出たくて仕方がないようだ。いま生まれると早産になってしまう。けれど海音には、この子は元気に生まれてくるという自信があった。


「五十嵐さん、そろそろ行きましょうか」

「っ……は、い」


 海音はもう一度スマホを見た。まだ、勝利がメッセージを読んだ形跡はい。ふっ、ふっと痛みを逃してスマホのスクリーンを暗転させた。


(ショウさん……)


 勝利不在のまま海音は分娩室へ移動する。


「ご主人、連絡つかない?」

「テレビで、行方不明者が出てるって。だからきっと捜索に……っ、はぁ、痛い」

「そう。大変なお仕事ね。頑張るご主人の為にも元気な赤ちゃん産みましょう」

「はい」


 分娩室の扉を開けて自分の足で分娩台に向う。ほんの数歩の距離も、痛みが襲えば立ち止まるしかなかった。立ち合いを希望した夫はおそらく海の上だ。皆、それぞれの場所で戦っている。救助を待つ人も、無事を願うその家族も、助けたいと挑む救難士たちも。


 だから、海音はここでを上げるわけにはいかないかった。


(私も、頑張るよ……ショウさんも頑張って)


 命をこの世に出そうと痛みに耐える海音と、消えそうな命を救おうと奮闘する勝利。いま二人はその儚くも、なによりも重い命と向き合っている。


「五十嵐さん、あと少しです。頑張りましょう」

「お願い、します」

「では、宜しく」


 

 海音に、今はまさち海の苦しみが押し寄せていた。

 辛くて苦しくて目を瞑ると、助産師が目を開けろと言う。早く出してあげたいと力を籠めると、まだ早いと言われる。海音は目尻から流れるものが涙なのか汗なのか、それとも別の何かなのか分からなくなっていた。


「五十嵐さん! 大丈夫ですか? 息を吸って、ちゃんと吸って」


 急に周りの声が遠くなり始める。目を開けているはずなのに靄がかかってよく見えない。息を吸う、吸っているはずなのに苦しいのはなぜなのか。海音の意識が遠くなり始める。


「バイタルは」

「血圧低下しています」

「酸素マスクつけて、急いで! あと、点滴!」

「はい!」


 分娩室が慌ただしくなり、看護師が廊下に出て走り出す。海音にはその音も聞こえなくなっていた。このまま意識を失えば、緊急手術に切り替えるしかない。


「まずいな……」


 医師の低い声がフロアを這った。



◇◇◇



 あの後、勝利たちは転覆した船に捕まりながら波に耐える船員を救助した。待機していた救急車に引き渡すと再び船長の捜索へと飛び立った。しかし、既に台風の暴風域に突入、日没のため空からの捜査は中止せざる得なかった。勝利たちは潜水士と港に待機して、捜索再開を待つことにした。


「この状況はなかなか厳しいですね」

「厳しいな。さっき見た感じでは周辺に人らしき影はなかった。まさか、船の中に取り残されてるなんてないよな」

「もしそうだとしても水温が、どうなんでしょう。それに、小型漁船に空間は残っていますかね」

「どうだろうな……」


 勝利たちも、もどかしい夜を過ごしていた。いつでも潜れるようにダイビングスーツを着て、夜明け前の空を見上げた。

 ラジオから一部の地域の停電や、土砂災害警戒情報が流れている。海上保安庁だけでなく消防署や警察も、今ごろは現場で警戒に追われているだろう。


「五十嵐隊長! 間もなく再開だそうです」

「分かった。お前ら、行くぞ!」

「はい!」


 本部から捜索再開の指示が来た。転覆した船の周辺を集中して捜査せよとのことだ。必ず見つけ出してやる、できれば生きたまま家族のもとへ返してやりたいという想いを胸に。


 巡視艇に潜水資格のある者が乗り込んだ。当然、勝利もその一人だ。現場につくとバディと共に現場周辺を捜索した。転覆した小型漁船は船底を海面に出したまま浮いていた。


「隊長! 船の下に空間があるそうです!」

「本当か! 俺が先に行く。離れるなよ!」

「はい!」


 勝利は酸素ボンベを背負い、巡視艇からバディと海に入った。ハンドサインをいくつか交わし、転覆した漁船の後方から潜水を開始した。空間があるとしたら操縦室しか考えられない。船体を手で触りながら慎重に進んだ。


 台風は過ぎたといっても、油断はできない。波は押し寄せては引き込むように、勝利の体をもてあそんだ。


(あそこか……ん? 足が見える!)


 波に揺られて人の足らしきものが見え隠れしていた。勝利はバディである部下に指をさして知らせた。


ーー あそこにいるかもしれない

ーー 了解です。気をつけて

ーー 何かあったらロープを引く

ーー 了解


(頼む、生きていてくれ!)


 勝利はそう祈りながら近づいた。単に挟まっているだけなのか、自らの力で捕まっているのか判断がつかない。ただ、そこが操縦室であろうということは予測がついた。


 シューッ、コッ、シュー……


 酸素マスクの音が耳に響く。


(いた! 生きているのか!!)


 想像していたよりも中は狭そうだ。しかし、見えていた足らしきものは、バタバタと明らかに人の意思で動いている。


(生きている!)


 勝利は一気に内部に潜入した。不明者らしき人物の足元から腰、胸、肩と確認して上昇した。

 頭を海面から出すと、そこには頭ひとつ分の幅の空間があった。勝利は自分がつけているマスクを外し、声を出した。


「海上保安庁です! 助けに来ました!」


 首から上をかろうじて出している男性が、目だけを勝利に向ける。


「ああ……助かった」


 安心したのか男性はそう言い終わると、顔を海水に沈めてしまう。勝利は男性の腰を片手で支え、入り口であろうドアの端を掴んで男性の顔を上に押し上げた。

 本来は床であった場所を天井として見上げている状態だ。


「この船の船長さんで間違いありませんか!」


 勝利が大きな声でそう聞くと、男性は口を開けたままうんうんと頷いた。


「よかった! よく耐えてくださいました! 今からここを出ます。大丈夫です。酸素マスクをつけますからね」


 勝利は自分がつけてきた酸素マスクを男性に装着した。外れないように片手押さえてやる。これくらいの深さと距離なら、自分は酸素がなくても問題ない。そう、判断したのだ。


「少し潜ります。マスクを押さえられますか? 取れないように固定します。大丈夫なら親指を立ててください」


 勝利がしっかりと男性にマスクをつけてやると、男性は安心したのか親指を立てる動作をした。


「よし、行きます!」


 勝利は男性を脇に挟むように抱え込むと、腰についた紐を引いてバディに合図をした。


 こうして、行方不明だった船長も救出。約7時間ぶりに男性は救出された。

 船長として、最後まで舵を取り船を立て直そうとした結果が、今回の空間を作ったのかもしれない。この漁船の乗務員は二名。二名全員が無事に家族のもとに帰った。

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