第19話 過去があって、今がある
ゆり子と別れた勝利は、カフェをでてからは急ぎ足でホテルに戻った。歩きながら部屋で一人、自分を待つ海音を想う。
ゆり子を見たときの海音の顔はひどく動揺していた。そんな中で彼女は勝利にケジメをつけてこいと背中を押したのだ。
勝利はもし海音の立場が自分だったらどうしていただろうかと考える。
(俺も行くって、ついて行っただろうな。下手すれば手が出る案件だぞ。海音は俺のこと、ちゃんと信じてくれているんだな……。もう、頭はあがらねぇな)
立場や職務など抜きにして、海音は渡さないと暴れたかもしれない。それくらい勝利も海音に本気だ。
ホテルのロビーに戻って来た勝利は、部屋番号を聞いていなかったことに気がつく。すぐに海音に電話をかけると、思ったよりも普通の声で部屋番号を告げられた。
(平静を装ってそうだな……。俺はどんな顔をしたらいい)
エレベーターが妙に遅く感じる。早く海音を抱きしめてやりたい。俺はお前だけだと伝えて安心させてやりたい。それしか他に考えつかなかった。
勝利はロビーでもらったカードキーでロックを解除して部屋に入った。物音ひとつとしない部屋に不安をいだきながら進む。すると部屋の奥にスマホを握りしめたまま、ポツンと立つ海音がいた。
その姿があまりにも小さくて、震えているようにも見える。勝利はそんな海音を見ると胸がひどく痛んだ。
「海音」
勝利は真っ直ぐに歩み寄り、そのまま海音を抱きしめた。気の利いたセリフも言えないまま抱きしめる勝利に、されるがままの海音はなんの言葉も発しない。もっと強く抱きしめたいのに、痛めた肩は安静続きのせいでうまく力が入らない。
「海音、ありがとう」
「えっ」
「いつも俺のことを支えてくれて」
勝利は思いのまま、海音に感謝の言葉を述べ始めた。自分から話さなければ、海音は困るだろうと思ったから。しかし、海音は何か勘違いをしたように取り乱し始めた。
「嫌よ、いやいやぁ。ずっとそばに置いてくれるって、言ったじゃない!」
「海音? 違う、待て」
勝利は海音が勘違いをしてると思い焦った。いつも穏やかに、冷静に人の話を聞く彼女が自分の話を聞こうとしない。
「別れたくないよ! 嫌よ! イヤ!」
イヤだイヤだと言いながら、海音が勝利の胸を叩いた。女の意地らしい抵抗に倒れる勝利では無い。しかし、今回は違った。
「か、かのんっ……ぐっ、イッてぇ」
勝利は我慢ができずに、とうとう胸を押さえて
その姿を見て海音が我に返る。
「え! 勝利さんっ!? まって、どうしたの? 勝利さん。きゅ、救急車!」
スマホを探す海音を見て、勝利は片手でそれを抑えた。
「待て! 少し、待ってくれ」
蹲ったまま呼吸を整えた勝利はなんとか顔を上げた。海音はすでにボロボロと涙を流している。
(ああ、また泣かせてしまった)
勝利は海音の顔を見て、少しだけ笑いながら親指で海音の涙を掬ってやった。どんな時でも海音には、ありったけの優しい表情を見せたい。
(俺が苦しむと、海音はそれ以上に苦しいんだ。俺が笑えば、きっと少しは楽になる)
「勝利、さん。もしかして怪我、しとる?」
不安そうに海音が問いかける。
「ん? ちょっとだけな。大したことない。船の上で躓いて転けたんだよ、おっさんだからな。ひと様の船の突起物にやられちまったって言ったら、笑うか?」
「もうっ、早く言ってよ。死んじゃうかと思った。勝利さん、もうどこにも行かんで。お願い」
「もう、離れたりしないからな。ずっと、海音の側にいる。約束する」
海音は勝利の力強い言葉を聞いて、泣きながらも笑って頷いてみせた。
ずっと側にいる、その一言だけで海音の心の中にあった黒いものが流れていく。大丈夫だからと勝利は何度も海音の頬をなでた。海音はそんな勝利の柔らかや表情に、魅入られたように見つめていた。
「海音?」
「勝利さんの笑顔は私のもの、勝利さんは私の特別。どこの海の上にいても忘れないで」
「ああ、忘れない」
「ねぇ。その肩の怪我を見せてくれない?」
「分かった」
勝利は海音に怪我を見せるためにシャツのボタンを外した。左肩には白いサポーターが巻いてある。そのサポーターを外し、タンクトップをゆっくり脱いだ。
動かしようによってはまだ痛む。
「これ、湿布? わ、うそ……」
「酷いだろ。と言うわけだ。暫くは痛むけど、時間が過ぎるのを待つしかない。久しぶりにやっちゃったなぁ」
勝利が湿布をめくって見せると、そこは赤黒く変色して腫れていた。機密上、経緯は話せないのであんな嘘をついた。
「そんな顔をするんじゃない。俺の女ならバカだなって笑うんだ。ほら、笑え」
「笑えないよ。ねぇ、このこと前の奥さんにも話したの?」
「言うわけねーだろ。海音、心配させてすまないと。親父が教えたみたいなんだ。俺が帰還するってことを。それで、来たらしい」
「やっぱり、まだ勝利さんのこと……」
「再婚、するんだってさ。それを知らせに来たらしい。俺の所から飛び出して自分だけ幸せになるのが悪いって思ったんじゃないかな。あの頃はお互い、自分の気持ちばかり押し付けて解り合おうとしなかった。俺は彼女のせいにして、なすりつけて逃げていたんだ。自分は命懸けで働いているんだ、それくらい分かれよってな。酷い男だろ?」
勝利は海音に若かった頃の自分の振る舞いを全部話すつもりでいた。海音には隠し事はしたくないと思ったからだ。
「夜中に荷物を纏めているのを知っていたし、出ていく姿も見ていたのに追いかけなかった。暫くして離婚届が送られてきた。ショックよりも、肩の荷物がひとつ降りた気がして妙にホッとしたのを覚えている。若かったんだ、では済まされないよな。一人の女性の人生に、大きな傷をつけてしまったんだから」
いつからかできてしまった綻びを、修正できないまま離婚という方法で無理やりかき消した。
「ねぇ、勝利さん」
「ん?」
「勝利さんの事、ショウさんて呼んでもよか?」
「あ、ああ。どうした?」
「私だけの呼び方で、あなたを呼びたいの」
そう言いながら海音は、勝利の唇に触れるだけのキスをした。勝利は一瞬のことに驚いて目をパチパチさせるだけだ。
人は過去の失敗から、相手を想うことを学ぶ。過去に出会った元パートナーに、感謝をしてもいいのではないだろうか。
「ショウさん、お腹空いちゃった」
「そうだな、俺も腹が減った。旨いものを食おう。心配させたお詫びに好きな物を好きなだけご馳走するよ」
「やった!」
二人にキラキラした笑顔が戻った。きっとこれからも、色んな事が起きるに違いない。でも、その度に立ち止まって考えて、一緒に乗り越えればいい。
「あー、残念だなぁ」
「何が?」
「海音を思い切り抱くはずだったんだよ。この傷じゃ自分の躰すら支えられねぇ。くそぉーー!」
「もうっ、ショウさんは……」
「なんだよぉ。これを楽しみに陸に上がったっていうのによー」
「はいはい、残念。それよりご飯、ご飯っ」
海音はわざと呆れてみせる。
勝利はそんなやり取りができることが、幸せなんだと噛み締めた。
◇
勝利が帰国してからたった数時間の間に、二人はいろいろな感情を味わった。こうしてまた二人でいられる。そう思うと緩んだ頬はなかなか元には戻らない。夕飯を食べ終わって部屋に戻っても、お互いそれは抑えられなかった。
「海音、にやにやしすぎじゃないか?」
「ふふっ。だって、嬉しいもん。ショウさんだって、ずーっとニヤけとったやん」
「仕方がないだろ? まぁ、なんだ。色々と不甲斐なかったと思っている。海音には頭が上がらない」
「なんでよ。怪我は名誉の勲章でしょ? それに、元奥さんの件は過ぎたことだし、私にだって似たような過去があるもの。相手の気持ちも知らずに、一方的に捨てられた! て、被害者ぶってたし」
「海音が、捨てられた……」
思わぬ告白に勝利は一瞬、怒りに近いものが湧いた。もちろん、顔の知らないけしからん元カレという存在にだ。
「そんな顔せんと。そうだ、頑張ったショウさんを私が癒してあげる。先ずはお風呂やね。動かしたらい痛いんよね? 背中とか手が届かないだろうから、洗ってあげる」
「えっ(マジかっ)」
澱みかけた勝利の心も、もう一人のショウリもグイーンと元気になったのは内緒だ。
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