第18話 あのとき言えなかった、さようなら
「勝利さん」
勝利と海音がホテルのロビーに入ったとき、突然誰かに声をかけられた。勝利はその声にハッと息を呑んだ。声をかけて来たのは勝利の過去に関わりのある女性だったからだ。彼女は振り向いた勝利に無言で頭を下げた。
突然のこと、思ってもいなかった人の登場に勝利は呆然と立ち尽くした。栗色の髪を上品に内側にカールした髪型、大きな瞳と凛とした立ち姿はあの頃と変わらない。彼女を最後に見たのはいつだったか……。
「ねえ、勝利さん?」
海音がぼうっとしたままの勝利の手を揺らした。勝利は海音と一緒だったことを思い出して慌てた。
「ごめん、行こうか」
勝利はその女性を無視してその場から離れようとした。すると、その女性がまた声をかけてきた。
「勝利さん待って」
その呼びかけに海音の方が立ち止まった。
「呼んでる」
「放っておけばいい」
「でも」
「いいんだよ。海音は気にするな、俺がいいと言っているんだから」
勝利がそう言っても海音は動こうとしなかった。その女性もじっと海音を見ている。勝利は動揺しているのか言葉はしどろもどろで、その場から逃げたいという態度が見え隠れしていた。
「私がよくないよ! 知らない女の人がホテルで勝利さんを待っとったとよ。気にするなとか言われても、無理っ」
「っ、海音」
たった今、厳しい任務から帰ってきた男がおろおろしながら海音を見つめていた。どうしたらいいのか判断しかねて混乱している。そんな姿に、海音は苛立った。
「お願い! ちゃんとしてきて! じゃないと私、勝利さんと一緒に帰れない!」
海音は勝利のことを信じていた。だから 冷たく勝利を突き放す。彼女が元妻だということはすぐに分かった。
「前の奥さんでしょ? 行ってきて!」
海音は理由がなんであれ、勝利にここでケジメをつけてもらいたかった。これから先も無かったことには出来ない過去の結婚。まだ動揺するくらい何かが引っかかっているのだから。
「すまん! 俺、ちょっと話してくる。海音は部屋で待っていてくれ」
海音の言葉に勝利はやっと我を取り戻した。ここで逃げても心の中の霧は晴れない。
「うん。待ってる……待ってるから」
海音がぎゅと勝利の小指を握りしめた。絶対に帰ってきてね、貴方が帰る場所は私の所だからと言うように。
勝利は無言で頷いて、海音に背を向けた。
(俺は何をやっているんだ情けない。海音にあんなこと言わせるなんて、こんなだからアイツも……ゆり子のことも中途半端なんだ!)
「すみせん。外で、話しましょう」
勝利は
◇
ホテルを出た勝利と元妻のゆり子は港の見えるカフェに入った。まだ着替えを済ませていない勝利は海上保安庁の黒の制服を着たままだ。
帽子を脱いで二名であることを告げると、奥の窓側の席に案内された。そのまま二人はホットコーヒーを注文する。
「制服のままごめんなさい。でも、もう今日しかチャンスなはなくて……。あ、偉くなったのね」
最初に口を開いたのはゆり子だった。制服の胸章を見て静かな声でそう言った。
「偉くなんかないさ。年齢相応の階級だよ。それで? 何か話があるんだろうが、見ての通り俺にはもう彼女がいる」
だから、察してくれ。そんな気持ちを込めて勝利はできるだけ落ち着いた声を作って言った。
「彼女さんが来ていたのに、押しかけてしまってごめんなさい。今日のことは、あなたのお父様から聞いたの。どうしても伝えておきたいことがあって。そしたら海外派遣で不在にしているって。でも今日、横須賀に帰ってくるとだけ教えてくれて......。迷惑は承知の上で来たわ」
「迷惑をかけるような話なのか?」
「ううん。ただ、私の心を軽くしたくて来たの。結果それがあなたの迷惑になったなら、申し訳ないと思うけど」
ゆり子は自分の心を軽くしたいと言う。それの意味を勝利は掴めない。ただ、よりを戻そうとかそういう話ではないことだけは分かった。
「話して気持ちが楽になるなら話せばいい。俺たちはたぶん、話をしなさすぎたんだ。いつも自分の気持ちばかりが勝っていて、話を聞こうとしなかった」
「そうかも、しれないね」
新婚の初々しかった頃を振り返ると、勝利は成りたての救難士のことで頭がいっぱいだった。選抜されて試験に合格し、実力で勝ち取った特殊救難隊。そんな自分を誇れと何処かで彼女に押し付けていた気がする。人の命を救う仕事をしているからと、傲りが過ぎていたのかもしれない。
「あなたに家庭と仕事をいつも比べさせてたよね。あなたが特殊救難隊に合格したって聞いたとき、喜びより寂しさを感じてしまってた。誇るべきことなのに、また、私は置いていかれるって。やっと結婚してあなたは私のものになったのに、あなたは他人のために力を注いだ」
「それが、俺の仕事だから」
勝利はつい、口を挟んでしまう。取り巻く空間が二人をあの頃に連れ去ったかのようだ。
「分かってるよ。でも、分かりたくなかったの。どうせ子供ができても、あなたは私たちを置いて海に行ってしまう。自分の家族より、ひと様の家族のためにあなたは命をかける」
「だから、拒否し続けていたのか。俺とのセックス」
「だって、子供を作るのが怖かったんだもん。一人で育てるのが心細かった。大事なときに。あなたはいないかもしれないからっ」
「ゆり子……」
勝利はゆり子の本音を、いま初めて知った。ずっと躰の相性が悪かったから、ゆり子がセックスを嫌いだったから。勝利はそう、思っていた。いや、そう思いたかったのかもしれない。
「ごめんね。なのに私、あなたがいない夜は、あなたの知らない男といたのよ。最低だよね。他の男にあなたのいない寂しさを埋めてもらっていたの。それがバレて、逃げるようにあの晩、あなたの部屋から出ていった。そして一方的に離婚届を送りつけたわ。でもちょっとだけ期待していたの。離婚はしないって、あなたが言うのを」
ゆり子は震える声でそう言った。
勝利は膝の上においた両手を強く握りしめる。あの日ゆり子は、全部自分が悪いと罪を背負って出ていった。でも、本当は勝利に引き止めて欲しかったのだ。
そんなタイミングで、注文したコーヒーがテーブルに置かれた。
この店のオリジナルブレンドだと店員は言う。湯気とともに立ち上る香りは、勝利の心を現在に連れ戻してくれた。
「ゆり子、ごめんな」
「……ぇ?」
ゆり子にとって、思いもよらぬ言葉だった。持ち上げたコーヒーカップをそのままに、大きな瞳をより大きく開かせた。
「俺はゆり子の気持ちを分かってやろうとしなかった。俺は自分の仕事に傲りすぎていたんだ。俺について来れないやつはいらない、俺を分かろうとしないやつは荷物だって。そして追い討ちをかけるように、ゆり子が不倫をした。俺は悪くない、俺はひどい嫁に捨てられたんだと傷つくフリをして、心の何処かでホッとしていた。ゆり子が言う通り、他人の命ばかり守って、最愛の家族をなおざりにしていた。バカな男と結婚させてしまって、ゆり子には本当に申し訳ない!」
「勝利さん」
勝利はテーブルに額が付きそうなほど深く頭を下げた。若かったでは許されない、一人の女性の人生を狂わせた責任は大きい。
「私たち、性格が似すぎていたのかもね。負けず嫌いで、自分のことが大好きで。私が好きなことはあなたも好きなはずって思い込みもあった。だから、価値観が違うことが許せなかったの」
「それでも、俺はもっと歩み寄るべきだった」
こんなふうにあの時、話し合うことができたなら、二人は離婚しなかったのか。
「でも、それでもきっと別れていたわ! じゃないと、婚約者に悪いもの」
「そうだな……って!?」
どちらにしてもうまくは行かなかった。でも、だからあの時より自分に似合う素敵な人を見つけたとゆり子が言う。
「ごめんなさい。一番はじめに言うべきだったよね。私、再婚するの。えっと、不倫相手じゃないのよ? 勝利さんとの離婚が成立してから働き始めたの。そこで上司だった人と......彼、バツイチでも構わないって」
「そ、そうか……おめでとう」
「うん。ありがとう。このことを今日は伝えたくて。自分だけ幸せになるのを見せびらかすみたいで迷ったけど、でも、じゃないと前に進めないかなって。お互いにね」
私は幸せを掴んだから、あなたも頑張って。私はあなたより素敵な人を見つけたのよ。私はあなたと別れてよかった。ゆり子が伝えたかったのは、そういうことではなかったのだ。
「分かってるよ。実は俺も結婚を考えている」
「隣にいた可愛らしいお嬢さんね」
「ああ。今回の任務も彼女のお陰で乗り越えられたようなものなんだ。俺の仕事を一生懸命に理解しようとしてくれている。だから、それに応えたい」
「そっか……。おめでとう。でも、ちょっとだけ悔しいな」
複雑な女心は隠せなかった。離婚したとはいえ、もとは愛し合って結ばれたのだ。自分ができなかったことを、見知らぬ女は簡単に乗り越えてしまった。心の片隅でほんの少しだけ、彼女にも同じ苦しみを味わってほしいと思ってしまった。
「だめね。もっときれいな心をもたないと」
「いや」
ゆり子は静かに立ち上がった。
「今日は大切な時間を邪魔してしまってごめんなさい。そして、話を聞いてくれてありがとう。さようなら、五十嵐さん」
ゆり子は吹っ切れたのか、出会った頃を思わせるような美しい笑顔を勝利に向けた。結婚してからは見ることのなかった笑顔だった。
勝利も静かに立ち上がる。
「お幸せに、倉田さん」
もう同じ
そんな気持ちで別れを交わした。
青春をともに駆け抜けた同士のように。
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