#23 蛇の使い



「嘘だ、嘘に決まってる……! それが事実なら、何で最初から使わなかった!?」

「あ? 金が掛かるからだ」

「はぐらかすなよ!」

「……。これがノーリスクで使えるわけねえだろ。コイツはウチの最後の切り札だ。その代償は重い――少なくとも、《ウロボロス》は一週間寝込むだろうし、『手駒』も全身筋肉痛は免れない。そうなったらな、誰がてめえらみてぇなバカを狩るんだ? 俺らはてめえらバカを狩って金稼いでんだよ! わざわざ稼げなくなる真似するわけねえだろ、バァァーカ!」


 子供に対し、子供以上に稚拙な罵倒を披露する。

 稼げなくなるから使いたくない。耀太郎はそう言ったが、一番大きな理由は、明彦への負担である。

 彼女が一週間寝込むのは当然として、更にその代償に何かもっと大切な寿命ものを失っているのではないか――と、考えているのだ。

 耀太郎の、かつての最大の過ちはそこにあった。


「若い頃はな、何だって出来る気がすんだよ。自分のバカさとかショボさに気付けねえし、しかも誰かにそれを言われたら、ムカつくだけで終わる傲慢さを持ってんだ。その結果、調子こいて瀕死の重傷負って、ダチに限界まで『能力』使わせて、命を拾ってもらったヤツがいる」


 まあ俺のことだけどな、と耀太郎は自嘲するように笑った。

 自分のミスで命の危機に瀕して、それを救ってもらった。その結果、親友は反動で昏睡状態に陥り、性別も変わって、記憶すら失った。更に、その後は全盛期とは程遠い『能力』の劣化に見舞われた。


 理想とか復讐とか、そんなものを共に追っていたからこそ、耀太郎は常に誰かが隣に居てくれることの大事さを見落としていた。

 耀太郎はただ、言われたままに動いていただけだ。傷を負い死線を潜る耀太郎の方が偉いと言ってくれたが、決してそんなことはない。

 《接続リンク》の負荷は、『親機』の方が重いに決まっている。


 だが、親友は身体が弱いくせに、何でもないようなフリをしてずっとそれを使い続けてくれた。

 どこかで、気付き立ち止まることが出来たのならば――今でもまだ、後悔している。


 《ウロボロス》の活動をやめた本当の理由は、ただそれだけだ。

 世界を良くする為だとか、巨悪への復讐だとか、そんな大きすぎる夢から醒めたのだ。大切なヤツが傍らにいて、小さい夢を共に追いかけて、いつか叶えられればそれでいい。

 どうしようもない現実に打ちのめされ、これ以上なく矮小化した使は、ふうと溜め息を吐いた。


「お喋りが過ぎたな。ま、つまりは、だ。お前らが《ウロボロス》を超えたいんなら――」


 耀太郎は人差し指を立てて、くいくいっと前後に動かした。


「――まずはを倒してみろ」


「……っ!」


 今の話を、戯言だと切り捨てることは容易い。むしろ黒澤はそうしたかった。

 余りにも荒唐無稽で、余りにも突飛で、余りにも有り得ない。超えるべき《ウロボロス》は未だ健在で、今は《傷持ち》を狩る立場に居る。

 しかも、世界中の誰もが《ウロボロス》だと思っていたのは、その『手駒』でしかなかったというオマケ付きだ。

 嘘であるべき話なのに――耀太郎を前にすると、その言葉が喉から先に出て来ない。


「言っとくが、俺の可愛い……かどうかは分かんねえが、部下を痛め付けた礼はキッチリ返すぜ。ま、それでもハンデをやるのが年長者の振る舞いだろうから、これも教えといてやる。


 今頃になって黒澤達は気付いた。銃弾を喰らい生と死の狭間をふらついていた耀太郎が、今はもうピンピンしていることに。

 べっとりと、シャツに付着した血こそ消えていないものの、既に流血は止まっている。どころか、失血して弱る気配すらない。


「アイツが今回容れたのは、『身体能力超強化』と『低速再生』だ。因みに今の俺らは、同時に三つまで『能力』を容れることが出来る。昔は十いけたんだがな」


 ただし、『能力』を容れれば容れる程、明彦に掛かる負担は重くなる。

 現在、同時に三つ耀太郎に容れることはまずない。余程の強敵が現れでもしない限り、一つないしは二つで充分だ。


 事実、教えるべきではない情報をあえて教えることによって、耀太郎は『低速再生』の時間を稼いだ。

 お陰で銃弾の傷は全て癒えている。単にお喋りなだけ、というわけではなかったのである。


「それと、さっきみてえな、お前らが見えないぐらいの速度で動くのはやめておいてやる。あくまで俺は小走り程度でしか動かねえし、武器の類も一切使わねえ。が、逃げたら別な。全力で追いかけてやんよ。そんじゃ、ま……掛かって来なされ☆」


 耀太郎がこれ以上ないぐらいの笑顔を浮かべた。それはただ単に笑顔なだけで、そこからまるで親しみも優しさも感じない。

 黒澤達は瞬時に、その他人を舐め切った態度の裏に潜む明確な敵意を感じ取り、屋上に四散した。


 九子は黒澤と奈那、菊池という非戦闘向けの能力者を連れて距離を取り、それ以外の戦闘向け能力者達は、一挙に耀太郎を取り囲む。

 やらなければやられる。間違いなくやって来る。

 《ウロボロス》関連の話が真実であろうとなかろうと、そもそも耀太郎は《狩人ハンター》なのだ。


 ――《林田ハヤシダ 伊八イハチ》は、《特権バリア階級フル》と名付けた『能力』を持っている。

 『触れた人物の五感のいずれかを奪う』という、強力な『能力』だ。

 まず個人の戦いにおいて、林田のこの《特権バリア階級フル》が決まれば、勝敗は決したと言っていい。


 林田は、決死の覚悟で耀太郎に一番槍として向かった。

 耀太郎の前方には島田が居て、耀太郎はそちらに気を取られている。背後から近付いて触れるだけで、『能力』は発動する。

 果たして、林田は耀太郎の背中に二度触れることが出来た。


 奪う五感は指定出来ないものの、触れた回数だけ奪うことが可能だ。

 つまりは、五回触れれば相手を完全に無力化出来る。そして五感の何を奪ったのかは、林田にも分かる。


「ビンゴ……! 『視覚』と『聴覚』ッ! 獲ったぞ!!」


 耀太郎から奪ったのはその二つ。取り返すには、発動者である林田の意識を奪うしかない。

 しかし、これは最早、目と耳を潰されたのと同義だ。相手をほぼ半分殺したと言っていい。


 それに、いきなり視覚と聴覚を奪われた人間は、大体の場合はショックで混乱する。消えたテレビの中に、突如として放り込まれたようなものだ。

 後はその混乱を突いて始末すれば、終わりである。


 一方で、突如として世界から光と音が消えた耀太郎は、一転してパニックに――ならなかった。


(何だこりゃ? 何も見えねーし、聴こえねーぞ。今背中を二回触られたが……後ろに居たヤツの『能力』か? 視覚と聴覚を奪う力……? ハハ、こりゃ厄介だわ)


 それでもこの程度の『能力』ならば、仮に《接続リンク》していなくとも対処可能だ。

 耀太郎はたんっと地面を蹴って、ふわりと跳び上がり、着地点付近に思いっ切り足を叩き付けた。

 触覚は残っているので、コンクリートの床が砕けた感触がある。


「ひ、あ……」


 その打点は、林田のすぐ隣だった。

 見えず、聴こえずの耀太郎が、何故一発で自分の居場所をほぼ突き止めたのか、林谷は理解が出来なかった。

 ただ、予想外の反応に全員が固まっている。誰かが声を上げて叫んだ。


「逃げろぉぉぉーッ!!」


 今度は確実に、耀太郎が林田の腕を掴んだ。そして力任せに自分の側へ引っ張り、そこに合わせるようにして膝蹴りを叩き込む。

 膝が入った感触を確認して、次に相手の首元辺りに手刀を叩き込んだと同時に、視覚と聴覚が還って来た。


「うおっと! いきなり見えて聴こえたらビビんな、これ」


 予想通り、この手の『能力』は、能力者本人を倒せば解除される。

 耀太郎は、口から涎を洪水のように垂れ流して倒れる林田の頭を踏み付けて言った。


「くっせぇんだよ、お前。ガキが気取って香水付けんな」


 何てことはない。目が見えず耳が聴こえなくとも、『嗅覚』で耀太郎は敵を追ったのだ。

 因みに、五感全部を奪われたとしても、第六感的な何かで相手を追えるんじゃないかと、耀太郎は密かに思っている。経験がなす思い上がりであった。


「次。コンビネーションで来いよ。個別に来ても構わねえが、絶対負けんぞお前ら」


 林田を空き缶のように蹴っ飛ばして、屋上の端に追いやった耀太郎が、残った面々へ諭すように言う。

 余計なお世話だと言わんばかりに、長身で細身の男が耀太郎に飛び掛かる。


 この男の名前は《岡本オカモト 克郎カツロウ》と言う。持っている『能力』は、《勝馬ダークホース》。

 『自身の身体を硬質化』させるだけの、シンプルな能力だ。

 ただし、その硬度は銃弾程度ならばもろともせず、少なくとも鋼鉄を凌ぐ強度まで硬質化することが可能である。


 岡本は耀太郎に拳を放つ。難なく避けた耀太郎は、お返しとばかりにその顎を打ち抜く。

 が、ベキ、という音がして目を見開いた。


「痛ってぇ! ンの野郎! 拳が砕けたじゃねぇか! 硬いなら最初からそう言え、ボケ!」

「島田……ッ!」

「分かっている」


 最も大柄な男、《島田シマダ 幹平ミキヒラ》は、岡本が作り出した隙に合わせて、その手を耀太郎に翳す。

 《有償ヘヴィランス》の名で通るこの『能力』は、『対象に掛かる重力を増加』させる。

 発動には相手へ手を翳す必要があるが、凛乃の《切るやつ》と同じく、手さえ翳せれば距離は関係なく放つことが可能だ。


 更に、相手に近ければ近いほど強力な加重を与えることが出来るので、相手を束縛したり一方的な撃破もこなせるという、万能な『能力』である。

 みし、と耀太郎の足元のコンクリートに亀裂が走る。

 上空から見えない巨大な手が、自分を押さえつけている気がした。


「お、重ぇな……! ヒャハハ! 動けねー」

「《ウロボロス》の使いっ走りであることは嘘ではないようだな……。軽トラ程度ならば、軽くペシャンコになる威力だというのに」

「おいおい、軽トラ潰す程度で俺を潰せると思ってんじゃ――ぐっ」


 岡本の拳が、動けない耀太郎の腹部を打ち据える。

 鉄バットか鉄パイプを、そのまま腹にフルスイングされたかのような感覚だった。『身体能力超強化』といえども、肝心の防御力自体はさほど上がっていない。あくまで筋力や反応速度が異様に上昇しているだけなのだ。


 二発、三発、四発と岡本が耀太郎を殴る。

 加重により、耀太郎は立っているだけでやっとな状況だ。避けることも防ぐことも出来ない。

 が、耀太郎はそれでもイヒヒと笑っている。


「気でも狂ってんのか、テメェ……!」


 耀太郎の鼻っ柱に、岡本の鋼鉄の拳が放たれる。

 しかし、そこに額を合わせるようにして耀太郎は受け止め――そう呼ぶには余りにもダメージが大きいが――右手を思いっ切り動かして、岡本の手首を引っ掴む。


「あー、デコの骨砕けたんじゃねーの、これ。まあいいや……。おう、よく聞けお前ら! 俺さぁ、自分より年上で背が低くて頭が良くて、適度に俺にツッコミをさせてくれる巨乳の女が好みなんだよ! ガキん頃は初期のブルマが出て来る度にドキドキしてたわ! まあブルマはどっちかっつーとツッコミ寄りだけどな!」

「岡本ッ! 黙らせろ!」


 島田が吼える。本当に狂っているのか、この男は。

 凛乃すら、耀太郎の意味の分からない告白に、飛びそうな意識がそのまま持っていかれそうだった。

 岡本は残った手で耀太郎を殴ろうとするが、それも耀太郎は掴んだ。

 島田が《有償ヘヴィランス》の出力を更に高める。耀太郎の足首までが、ずぶりとコンクリートに沈む。


「でさぁ! 何の因果か、ダチがそんな俺の好みド真ん中みてえな女になっちまったんだよ! しかも俺のことを覚えてないと来た! 当時思春期真っ盛りの俺は、そこで何したと思う!?」

「何なんだコイツは……!?  手が、動かねぇ……!」

「膝か何かで蹴っ飛ばせ、岡本ッ!」

「やってる!! 腹筋砕いて内臓潰してるはずだ! でも効いてねぇ!!」


 岡本の抵抗を無視し、口元からどろりと血を流しながら、耀太郎は意に介さず高々と叫んだ。


「答えは! 色々あってそいつとのさ!! 性欲という名のバケモノに負けた俺は、とんでもねぇヤツに童貞を捧げると同時に、その処女を奪ったってワケだ!! 以上、俺の脱童貞エピソード終了ッ!!」


 言い切るや否や、耀太郎は――既に人間がメンコにでもなるような威力の加重が掛かっているにも関わらず――ぴょんと飛び跳ね、駒のように身体を回転させ、岡本の脳天に踵を叩き落とした。

 その瞬間、ひび割れていた屋上の床が一部崩落し、何よりも率先して岡本が階下まで吹っ飛ぶようにして落下した。

 否、階下どころではない。廃病院の一階まで、床という床をぶち破り、岡本は落下した。


 ぼやける頭で凛乃は思考する。

 耀太郎が言っていることは多分、物凄くアレな事実だろう。

 明彦と耀太郎の間に、ナニがあったのかはこの際置いといて、意味無く耀太郎がこのようなことを言うとは思えない。そこには絶対に意味がある。

 そう。これは、間違いなく――『』だ。


 ――究極的に言えば、これは『自己暗示』なんだから何だっていい。


 耀太郎の教えを、凛乃はまたも思い出す。

 凛乃がカッターナイフで《切るやつ》の出力を調整するように、耀太郎は知られたくない過去を、一方的に相手に聞かせることで、『能力』の出力を強引に上げたのだ。そんなのアリかよ、と凛乃は素直に思ってしまった。

 一方、一瞬で岡本を叩き落とした耀太郎は、逆しまな笑みを全開にし、島田の方を見た。


「もし俺が俺と戦うんならよぉ、まずはその舌を引っこ抜くぜ」


 そして、ぺろりと舌を出して見せた。

 自身が使っている二種の異能の出力を上げたことにより、既に岡本から喰らった傷は全て癒えている。

 《ウロボロス》の正体に始まり、耀太郎の絶対に知られてはならない脱童貞エピソードを聞かせたのだ。

 本来の出力の十倍は出ているのではないかと、耀太郎は思う。


「意味が、分からない……。なんなの……あれ……」


 黒澤は脱力する。いきなり不愉快な話をしたかと思ったら、何でもないように岡本を倒した。

 そして今は、一歩また一歩、島田に向かってゆっくりと歩いている。

 近付けば近付くほど、その威力が上がるというのに、まるでものともしていない。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 全身の骨が軋むぐらいに、《有償ヘヴィランス》を放つ。

 が、耀太郎はこきっと首を鳴らすだけでまるで効いていない。地面を軋ませ、罅割りながら、確実に距離を詰める。

 掛ける加重よりも、遥かに強い力で反発している――そんな当たり前の、しかし恐ろしい事実に気付いて、島田は遂に耀太郎に肉薄された。


「いやー、いいマッサージだった。サンクス」


 耀太郎の上段回し蹴りが直撃し、島田の脳味噌が揺れた。側頭が陥没し、鼻から血なのか何なのかよく分からない液体が飛び出た。

 更に、耀太郎はその島田を掴み、遠くに見える冴えない少年に放り投げる。


 少年の名前は《菊池キクチ ダイ》。

 《超過プライベート親心アイ》と名付けた、『平面上にフルネームで指名した人物のリアルタイム映像を映し出す』力を持っている。

 この『能力』に、島田の《有償ヘヴィランス》を組み合わせると、遠方の者であろうと効果を発揮することが出来る。


 黒澤の指示により、彼らはかつて《御子柴 凛介》の名前を出し、そして運転中のその足に加重を与えて、アクセルから足を離せないようにしたのだ。

 だが、そんな菊池は吹っ飛んできた島田に押し潰されるようにして、鉄柵に叩き付けられた。

 あくまで《超過プライベート親心アイ》は対象の情報を盗み取る為の力であり、戦闘能力は一切無いのである。


「あと三」


 耀太郎は呟きつつ、拳をわざとらしく鳴らす。

 九子が黒澤達を護るようにして飛び出し、今まで溜めていたその力を解き放った。


 ――《片山カタヤマ 九子キュウコ》は『風を操る』力を持っている。

 《何処ダー》と呼ぶその力を用いて、風に乗って高速移動したり、風そのものを発生させることが可能だ。

 また、発動に時間がかかるものの、風を溜め込み、練り上げ、刃のように飛ばすことも出来る。


 その際の威力は、硬質化が出来る岡本すらも「これは防げない」と言うレベルであり、恐らく何だって斬れるはずだ。

 人体など、それこそ豆腐に刃を入れるようなものである。


 故に、完全に殺すつもりで、九子は風の刃を放った。

 『風』である以上、その存在は視認不可能。刃が近付けば髪の毛などが揺れるだろうが、それに気付いた時点で、既に胴と足はお別れしているはずである。


「うーっす」


 居酒屋のを潜るような真似をして、耀太郎は風の刃を弾き、掻き消した。

 実際は、超高速で動かした拳が生み出す拳風圧で相殺したのだが、そこまで見切ることが出来た者は、この場に耀太郎本人以外存在していない。

 そもそも、九子にすら放てば見えない風の刃を耀太郎が捉えていた時点で、勝敗は決していた。


「し……ね、よぉぉぉぉおおおッッ!! ああああああああああああああああああっ!」


 連続で風の刃を飛ばす。目標は耀太郎の首と胴体の二点のみ。

 当たれば即死する急所だけを狙って放つ。しかし――


「うーっすうーっすこんちゃーっす」


 のれんを潜る真似三連続で、全て掻き消された。

 明らかに耀太郎はバカにしているのだが、それ以上にそんなわけの分からない動作で攻撃が無力化されたことに、九子は混乱した。

 また何よりも、九子には耀太郎の眼が恐ろしく映る。


 あの時睨まれた、蛇そのもののような眼。《ウロボロス》の唯一にして最強の『手駒』として、数々の修羅場を抜けて来た結果、身に付けた眼力。

 耀太郎がその眼を見せるのは、本気で怒った時と、コンビニで風俗店情報誌を選び悩んでいる時だけである。


「うわあああああああああああああああああっ!」


 風を全身に纏い、九子はその場から急速離脱する。風を操れば、屋上から飛び降りても難なく着地出来るし、追い風を使えば誰よりも速く走ることが出来る。

 九子は一息で屋上の鉄柵を飛び越えた――つもりだった。


「――逃さねえっつったろうが。特にテメェだけはな」

「は、はな、離してぇぇぇえええっ!!」


 動く前に、耀太郎が九子の首根っこを掴んでいた。

 一瞬でその距離を詰めて捕縛したのだ。耀太郎が先程まで立っていた地点のコンクリートは、蹴った勢いで抉れ返っていた。


「情けねえな。多分だが、アイツはそんな声を出さなかったはずだ。でもテメェは、そんなアイツを殴って、痛め付けて、あまつさえ髪の毛すら切り取りやがった。許すか許さねェかって言うとよぉー」

「たす、たすけ、暁留ちゃ」

「あ……あぁあ……!」


 救いを求める声を出し終わる前に、耀太郎は九子を振り向かせ、その頬を思いっ切り引っ叩いた。右頬が真っ赤に腫れる前に、左頬も同じように引っ叩いた。

 ただのビンタならば、頬が痛むだけだろう。

 だが今の耀太郎のそれは、尋常ならざる威力だ。その圧だけで、九子の鼓膜は裂かれた布のように破れた。


「―――――――――」

「まあ、超許せねえわな。俺はジェントルメンだから、テメェが女でも平等にキッチリとブン殴ってやる。女だから手加減されるだなんて甘い考えは捨てて――歯ァ食い縛れやぁッ!!」


 裂帛の掛け声と共に、耀太郎は九子がガチガチ震えながらもその歯を食い縛るのを確認し、思いっ切り右頬から殴り抜ける右ストレートをぶち込んだ。

 鼓膜が破れているはずなのに、何を言っているのかが伝わったのは、恐らく本能的な恐怖によるものだろう。

 投げられた白球のように九子は勢い良く吹っ飛び、ざりざりとコンクリートを滑って、鉄柵に激突してぐったりと倒れる。


「やったらやり返される。小学生でも知ってる理屈だ。髪の毛に手出ししなかっただけマシだと思え。さて……」


 耀太郎は残る二人に向き直り、思いっ切り足を振り上げて、その場で踏み鳴らした。

 軽い地響きが廃病院に巻き起こる。先程崩落させた屋上の穴が、より一層広がった。


「まず、そこの女。今すぐ俺の部下を治療しろ。そういう力なんだろ、テメェは」

「……ぁ……」


 こくり、と頷く。この少女の名前は《久蔵ヒサクラ 奈那ナナ》と言い、治癒能力の名前は《針無ファントム注射器ペイン》としている。

 対象の傷の治りを爆発的に高める一方で、その代償として強い掻痒に襲わせるという、両極端な『能力』だ。

 しかし、怪我であればどんなものであれ治せる可能性を秘めているので、彼ら《ヨルムンガルド》が無茶をしても平気な理由となっている。


「俺の部下を治したら、テメェの仲間を治せ。別に殺してねえから」

「…………!」


 すぐに奈那は立ち上がり、凛乃の元へ走って行く。

 元々、戦闘行為がこの中で最も苦手であり、誰かを殴ったことすらないような少女だ。耀太郎も相手の反応でそれが分かったので、特に手を出さなかった。

 ――これで、残るは一人。


「しばらく見ねェ間に、随分としおらしくなったなぁ、クソガキ」

「……う、うあ……」


「んじゃまぁ――――しようや」


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