#21 ウロボロス③ -円環-
目を覚ました耀太郎は、見慣れた場所に居た。
薄暗い夜の森。その中にひっそりと佇む小さな湖。
湖の中央には誰かが立っていて、その誰かの周囲には、蛍の光みたいな淡い燐光が漂っている。耀太郎が居るのは、湖の湖岸付近だった。
耀太郎は湖岸から一歩踏み出す。湖面を踏めばそのまま沈むのが道理だが、不思議と耀太郎の足は沈まずに、水面に小さな波紋を立てるのみだった。
水の上を歩くという忍者じみた真似をしつつ、耀太郎はぽりぽりと頭を掻きながら、中央に向かう。
――精神世界。
それが、今耀太郎の居る場所だ。現実とは違う、どこでもないどこか。
ここに居るのはたった二人、耀太郎と――
「耀太郎! 無事なの!?」
――当然、明彦である。
ただし、長かった髪の毛は肩先ぐらいまで短くなり、顔全体にあどけなさが戻っている。身長も心なしか低い。
現実の彼女に比べ、明らかに若返っていると言えるだろう。
「無事、ではねえな。まあ今ここでお前と会話出来るってことは、少なくとも死んではないだろ。いや、死んでも会話出来んのか? 分かんねえわ」
言いながら、耀太郎は視線を横に逸らす。在りし日の姿になっている明彦には、少々アレな思い出があるのだ。
しかも、ここは精神世界だからか、端的に言うとお互い何も衣類を纏っていない。湖面の上には全裸の男女が立っているという、絵的にアレな図だった。
恐らくは、何もかもが剥き出しであるという意味なのだろうが、もうちょっと気の利いたことは出来なかったのだろうか。
「なら、ここでお喋りしてる暇はないね。すぐに容れるよ」
「どれをだ?」
「いつもの」
短く答えた明彦は、何の躊躇いもなく耀太郎に真正面から抱きついた。
暑さも寒さも感じていなかったのに、肉体――厳密に言うと精神構造体なのだが――が触れ合うだけで、溶けるような熱を感じる。
ここは精神世界なのに、何故肉の柔らかさを感じられ、また相手から官能的なニオイがするのか謎だった。慣れていなければ、それこそ劣情を催しても仕方がないだろう。やはり、気が利いていないと耀太郎は思う。
……これは、《四ツ葉綜合解決事務所》が保有する切り札だ。
だからこそ、耀太郎はなるべくこのカードを切りたくないと考えている。その理由はたった一つで、この切り札は使えば使う程に明彦の身体を蝕む。
しかし使わざるを得ない状況に持ち込んでしまったのは、ひとえに耀太郎が未熟だからだ。
「……余計なこと考えてない?」
「考えてる」
「でも――」
「分かってるっつーの。今更取り消しなんざ出来ねえ。これをするからには、あのクソガキ共を徹底的にボコボコにするだけだ」
「……。うん、なら何も言わないでおく」
抱きつかれているので明彦の表情は分からないが、少なくとも楽しげではなさそうだ。
一度耀太郎は明彦を引き離し、彼女の唇に己の右手親指をあてがった。
「やっぱこっちでやろうぜ。そもそも疑問だったんだが、何で抱き合うんだよ」
「そうじゃないと容れづらいの」
「いや、起きてたら別に抱き合わずとも、こっちで容れられるだろうが」
「仕方ないなあ。じゃあ折衷案で、どっちでもやろう」
結局のところ、耀太郎は全てを受け身の形で享受するのみだ。あまり文句を言うべきではないとは思っていたのだが、つい癖でこぼしてしまった。
耀太郎と同じように、明彦も手を伸ばして、自身の親指を口元へと運ぶ。
そして、お互いに相手の親指を、耀太郎はやや雑に、明彦は優しく、口に含んだ。
――円環の形成。身喰らう蛇、《ウロボロス》としての、儀式的行為。
これが何を意味するのか、耀太郎はよく知っている。言ってしまえば、互いにスイッチを入れるようなものだ。
合図か何かがあるわけではないが、二人は同時に相手の指を離した。少し糸引いた銀糸を振り払いつつ、「妙にリアルだよな……」と耀太郎が呟く。
「耀太郎。……頑張ってね」
「ああ。言われなくても頑張ってやるよ。だからお前もすぐに休め。やることはもうやったろ」
「あ、それ無理」
「……はあ!?」
「ぼくも今そっちに向かってるから。人間を操るっていうその『能力』は、野放しに出来ない。ぼくの力が必要なはずだよ」
「だからって、お前……これ以上……!」
「平気だよ。その分たっぷり請求するしね~」
取り繕うようにして、明彦は再び耀太郎に抱き着く。
耀太郎は溜め息を大きく吐いて、そして自身の中に漲っている力を確認した。特に問題無く、容れ終わったようだ。
すっ、と明彦が耀太郎から離れる。耀太郎はその両肩に手を置いて、じっと目を見た。
「明彦」
「な、なに?」
「いつもありがとな。行ってくる」
「……うん。行ってらっしゃい」
お互い笑い合って、見送り合う。
その瞬間――ざぷん、と耀太郎は湖中に引き込まれた。
底の見えない深い闇が、水音と共に耀太郎を包んでいく。目を開けているのか開けていないのか分からないくらいに視界が真っ暗になって、それはさながら眠りに落ちる心地だった。
ともすれば溺死を想起させるような感覚だったが、耀太郎の心に恐怖や惑いは一片足りとも存在していない。
――さあ、全部終わらせてやるか。
その言の葉は、闇の中で薄っすらと光る泡となり、静かに立ち昇っていく――
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