#20 月下鏡刃



「やあ。随分と待たせて――ん?」


 間もなくして、黒澤が朗らかに手を振って現れる。そして、柵にもたれて意識消失している耀太郎を見て、その首を傾げた。


「失血死したのかな? 奈那さん、分かる?」

「えと、見たところ呼吸は続いています。まだ、生きてます」

「そう。で、それを守るようにキミが立っているわけか」


 ぞろぞろと、大勢が屋上に入り込んでくる。武装した集団が横一列になって立ち塞がり、その合間から黒澤の姿が見えた。

 この武装集団――《鷹の目》達が持っている、鈍く黒いその武器を見て、凛乃の身は図らずとも竦み上がる。


 ――大体の『能力』より、銃の方が強い。


 あの日、初めて耀太郎と会った時に言われた言葉が、花火のように脳裏へ浮かんだ。

 そして改めて実感する。その通りだ、と。


 あれだけ強いと思っていた耀太郎がここまで傷を負ったのは、銃弾をその身に喰らったからだ。

 無論、『能力』を持っている凛乃だって、銃を喰らえば恐らく死ぬだろう。そのくらいに容易く、あの武器は人の命を奪う。

 暴力を煮詰めて形にしたモノが銃なのだと、凛乃は思い知った。


(でも、やらなくちゃ……ダメなんですよね、伊庭さん……!)


 撃たれれば終わりだ。故に、撃てなくする他ない。単純な話だった。

 凛乃はポケットからカッターナイフを取り出し、スライダーを一番上までスライドさせる。銀の刃を全部露出させ、それを構えて叫んだ。


「こ、ここ、来ないでくださいっ!!」


 声が震えた。と言うよりも全身が震えていた。

 恐怖と緊張に、肉体が負けているのだ。


「あっははは! 今更カッター取り出してどうしたの? ご自慢の『能力』に頼りなよ」


 黒澤の侮蔑するような声がする。一歩、凛乃は下がる。気圧されている、怯えている、自棄になっている――


 ――実戦でいきなりカッター構えたら、相手に戦闘の意思があるってモロバレすんだろ。


 そう言っていた耀太郎の教えを思い出す。だが、カッター無しに能力の調節など、凛乃には到底出来ない。

 故に、のだ。


 また、『考える』ということに対して、耀太郎はいつも念を押していた。だから、凛乃は一生懸命その頭を働かせる。

 まず、今の黒澤の反応を見るに、黒澤は『暗示』のことを知らない。今の凛乃の状態こそ、凛乃が全力で《切るやつ》を撃てる時なのだということに気付けない。

 更に、凛乃はまた一歩下がる。追い詰められているフリをして、視界全部に十人の《鷹の目》達を捉えた。十挺の拳銃がこちらを向いているが、それを睨み返すつもりで見た。


 黒澤は油断している。だが、少しでも攻撃する素振りを見せれば、即交戦することになる。

 だから今の凛乃の弱者のフリが、どれだけ無様でも、愚かに見えても、構わない。時間を稼げるのならばそれでいいと、凛乃は判断した。

 しかし同時に、いつでも攻撃出来るように、心の中の照準だけは常に働かせる。


「こ、ここ、こっちに、来たら……切りますよ……!」

「へえ。それは怖いなぁ。どうすればそのカッターを収めてくれるのやら」

「収めるつもりは、ないです……!」


 いい感じだった。黒澤は嗜虐的な性格をしているが故に、怯える凛乃を見ることを楽しんでいるのだ。

 このまま意味のない問答を少しでも続けられれば、耀太郎が目覚めるまでの時間を大幅に稼ぐことが出来る。


「…………。暁留ちゃん。ちょっといい?」

「ん? どうしたの、九子さん?」


 金髪の女――九子が凛乃の方を睨む。その視線と、凛乃の目線が交錯した。

 それだけで、九子は凛乃の瞳の奥に潜む、強い意志に勘付く。


「暁留ちゃん、あの女怯えてなんて無いよ! だ!」

「演技……!?」


 こういう時、耀太郎ならば舌打ちをするだろう。だが凛乃にそこまでの余裕はなく、気持ちの悪い汗がぶわりと背中に広がっていくのを感じた。

 こちらの意図を読まれたわけではないものの、意図があるということを悟られた時点でまずい。

 問答は中止し、すかさず攻撃へと移らねばならない。


 深く息を吸い込んで、凛乃は思考する。今、カッターの刃を全て露出した状態は『100』だ。

 かつてその状態で、空き缶を切った時を思い出す。あの時、空き缶は細切れになり、同時に

 複数のモノを、


 だから、全く出来ないわけではない。考え方を、変えればいいのだ。

 今までは、この『100』の力を全て、対象物一つにぶつけるから失敗したのだ。そうではなく、さながらケーキを切り分けるように、果物を切り分けるように、『100』の力を物理的に切り取るイメージを持つ。


 十ある銃に対して、その一つ一つにぶつける力は『10』だ。

 一番右の男が持つ銃に照準を合わせて、ロックする。それを維持したまま、隣の男の銃もロックする。それを、ひたすらに繰り返す。

 全部の銃をロックして、送る力はそれぞれ『10』だと、頭の中で幾度となく反復・反響させる。


 ぎち、と眼の奥から変な音がした。眼球に負荷がかかっている――直感でそれが分かった。

 だが、警戒された以上、この演技を続けることに意味はない。

 黒澤が何かやろうとする前に、凛乃は切り分け、溜め込んでいた力全部を、一度に解放する――


「は――あぁぁあっ!!」


 掛け声と共に、凛乃は《切るやつ》を発動した。

 すると――粘土細工で出来たのかと見紛うぐらいに容易く、一様に銃が裂ける。

 衝撃で、銃身が一度に十個空中を舞い上がった。カァン、という落下音がした時にはもう、《鷹の目》達の銃はその機能を完全に殺されていた。


「な……っ!? 彼女は『能力』を上手くコントロール出来ないはずだろ……!!」

「土壇場でやりやがったってことだろ、暁留ちゃん!」


 驚く黒澤の尻を叩くようにして九子が叫ぶ。すぐに黒澤は気を取り直し、手駒に指示を出す。

 銃が無くなろうとも、凛乃一人を取り押さえて無力化することなど容易い。身体能力自体は、そこいらの女子高生と何ら変わりがないのだから。


 ――だが、凛乃はその黒澤の考えの一歩上を行った。

 初めて複数の対象物を、意図的に同時攻撃することが出来た。この感覚でやれば、もう一度同じことを行うことなど容易だ。

 銃を破壊したからと言って、そこで戦闘が終わるわけではない。耀太郎が居れば「油断すんな」と叱られるはずだろう。


 凛乃はカッターの刃を半分戻す。『50』の出力に調整し、そしてすぐに、《鷹の目》達の片足一本ずつに『5』の力を分配した。

 強すぎると足を切断してしまい、弱すぎると軽い切り傷にしかならない。だから、その中間――行動不能になるぐらいのダメージをピンポイントで与える。


 《鷹の目》達が、一斉にこちらへ向かって来る。銃の時と違い、足は忙しなく動く。動体を攻撃することも、凛乃は今まで出来なかった。飛んできた空き缶を切れなかったことが、その証左だ。

 けれど、今ならば分かる。心の照準を合わせたら、それを対象物にべったりと貼り付けるイメージを持てばいいのだ。

 そのイメージで、再度凛乃は、《切るやつ》を放つ。


「ごめん、なさいっ!!」


 鮮血が吹き荒れた。男達の足首は一様に切り裂かれ、そこから吹き出た血が屋上の朽ちかけたコンクリートを染めていく。

 出力が強ければ、足首から下を分断していただろう。だが、調整が上手い具合に嵌り込み、深く相手の腱を切るに留められた。


 よって、歩くことすら叶わず、十人全員がその場に這うようにして倒れ込んだ。

 伯父以来だった。自らの意志で、ちゃんと人間を切ったのは。


 ――しかし、それでも一瞬の内に、凛乃は十人の手練を打倒してしまった。

 黒澤の能力下にある以上、彼らは単調な動きしか出来ないという側面もあるが、それを差し引いても初陣の戦果としては異常である。


「…………う、あッ!」


 もっとも、高揚感に浸っている暇は無かった。

 眼球の裏側に、虫でも入り込んだかのような激痛が凛乃を襲う。

 複数のターゲットに対して、能力を連続使用した経験など今まで無かったが故に、その反動がどれほどのものなのか分からなかった。


 目を開けていられない程の痛み――それが、代償。

 しかし凛乃は、無理矢理に目を開く。ここで目を閉じることなど、自殺行為に他ならない。

 黒澤達を視界に収めて、いつでも攻撃出来る準備をする。


「調子こいてんじゃねぇぞ、クソアマ」


 びゅん、と軽い突風が凛乃の真正面から吹いた。

 屋上であるから、風が吹くこと自体は何も不思議ではない。が、その風に乗って、九子が一瞬で凛乃に肉薄したことは、凛乃にとって全くの計算外であった。


 ――いいか、基本的にお前が攻める時になっても、絶対に敵に近付くなよ。


 またも、耀太郎の言葉を思い出した。言葉、というよりかは忠告だろうか。

 それを忠実に護り、凛乃は敵には近付かなかった。近付かせなかった。しかし、近付かれた。

 九子の膝が、凛乃のガラ空きの腹に杭の如く打ち込まれる。

 スーツとシャツの防御力が無ければ、あっさりと臓器が潰されていただろう。

 風に乗った勢いのまま放たれた膝蹴りは、同年代の同性とは思えないぐらいの威力だった。


「う、か、ぉえ……」

「暁留くんの手駒をさァ、下手に傷モンにすんじゃねーよ」


 反射的に両手でお腹を押さえる。痛みがそうさせた。それ故に、今度は顔面がガラ空きになった。

 九子は凛乃の白磁のような頬を、叩き割る勢いで殴り付ける。


 ――喧嘩をしたことなど、凛乃の人生においてただの一つも無い。

 誰かを本気で殴ったことも無いし、誰かに本気で殴られたことも無い。

 だから、この痛みは未知の領域だった。身体中の細胞が、痙攣を起こしたかのように跳ね回り、胃がひっくり返されたかのように暴れている。

 歯と内頬がぐちゅりとぶつかり合い、肉が抉れて血が噴き出る。口内はたちまち、血の味で満たされた。


 これが、誰かと本気で戦うということ。

 戦闘技術の無い凛乃にとって、敵に近付かれるということは、そのまま蹂躙されることに等しい。

 耀太郎は、そこを警戒するように言っていたのだ。口は悪いが、それでもこの男は、凛乃がいずれ陥るであろう窮地を最初から見抜いていたに違いない。


「九子さん! 彼女の視界に入らない方がいいよ! 多分、目で見て能力を使うタイプだ!」

「りょーかい」


 何の躊躇いもなく、九子は凛乃の右目を拳で打ち据えた。

 凛乃の視界いっぱいに火花がバチバチっと弾けて、月明かりが七色に変色する。が、すぐに七色は赤色に変わった。


 同性だからこそ、感じ入る部分がある。九子と言う名の少女は、凛乃を一目見た瞬間から、生理的に嫌悪していた。

 容姿が、佇まいが、その存在が、自分をバカにしているような気がしたのだ。恐らくは、生来の育ちの差がそう思わせたのだろう。

 だから、その凛乃を醜く歪めるこの暴力を、至上の悦楽のように感じられる。


「……ぁ、……」


 凛乃が何か言う前に、足払いを掛けて転ばせる。うつ伏せに倒れた凛乃の背中を、ピンヒールで思いっ切り踏み付けると、さながら尻尾を踏まれた猫のような声で啼いた。


 そのまま九子は、凛乃の左腕を持ち上げる。倒れた倒木を起こし上げるようにして、せーのという掛け声と同時に、凛乃の腕を関節の可動域の外側まで引っ張った。

 ぐきゅ、という音が響く。凛乃の左肩の関節が外れた音だ。或いは、ぽっきりと折れたのかもしれない。


「ああああああああああああああああああああああああっっ!!」


 今度こそ大声で、凛乃が叫んだ。未体験の痛みは思考を消し飛ばし、涙腺を破壊した。

 両目からは止めどなく涙が流れ出て、口元からは涎と血が混じった、薄く赤い液体がしとどに垂れる。


「汚いなぁ」


 遠目に見る黒澤がそう呟く。殺しはしないが、五体満足で済ますという約束もない。多少の罰を与えることなど、契約上何の問題もない。


「さーて、次は右を」


 九子の視線が、凛乃の右腕に移る。

 凛乃の手には、未だカッターナイフがぎゅっと握られていた。

 うつ伏せに倒れている以上、凛乃は自分の背中を踏み付けている九子を、直接その目で見ることが出来ない。

 そもそも、右目の視界は完全に潰されている。だが、まだ左目が残っていた。


 痛い。辛い。怖い。苦しい。やめて欲しい。許して欲しい。解放して欲しい。

 そんな感情が、頭の中で暴れ回っている。大声でごめんなさいと言えば、果たしてこの暴力を止めてもらえるだろうか。


 ……ゆっくりと、凛乃はカッターの刃を傾ける。


 恥も外聞もかなぐり捨てて平身低頭すれば、痛いことをされないだろうか。


 ……今日は月が綺麗だ。屋上も月光に照らされて明るい。


 或いは靴を舐めれば、裸になれば、言うことを聞けば、彼らは喜んでくれるのだろうか。


 ……このカッターは新品だ。ただの一度も、何かを切ったことがない。


 でも、そんな自分の姿を、他ならぬ凛乃自身は見たくない。耀太郎の前なら、尚更だ。


 ……だから、その刃の表面は月明かりを受けて、


 何よりも――両親を殺した彼らに媚びへつらうことなど、絶対に嫌だ。


「……見え…………た」

「あ? あ――ぎゃあああああああああああああああああああああッッ」


 凛乃の《切るやつ》は、視力に依存する『能力』だ。

 なので、その眼で見たものを大体は切ることが出来る。しかしてそれは、肉眼で直接見たものだけとは限らない。

 望遠鏡で覗いた先の空き缶を切ることが出来たのと同様に、鏡に写ったモノであっても、凛乃は切ることが出来たのだ。


 カッターの刃に薄ぼんやりと映った、ともすれば誰なのか分からない像であっても、それが九子なのだと凛乃の脳は判断した。

 その本能的な判断こそが、《切るやつ》の対象決定のトリガーとなり、九子の顔を真一文字に切り裂く。


「九子さんッ! 奈那さん、治療を!」

「は、はい!」

「あ、が、うううううう、こ、の、クソ女ぁぁぁあああああああッ!!」


 してやった、という気持ちだった。

 諦めて折れかけた心を、凛乃は必死に奮い立てた。その原動力となったのは、彼ら《ヨルムンガルド》に対する憎しみと、彼ら全員を捕縛した時に得られる『報酬』のことを考えて、である。

 どうも薄汚い部分まで、凛乃は耀太郎から学び取っているらしい。


 ――さて、結構な時間を、稼ぐことが出来た。

 一方で凛乃は、最早倒れた状態から動くことすら出来ない。

 激昂した九子が、思いっ切り自分の手を踏み付けた。ピンヒールが手の甲を貫通し、骨が粉々になった感触があった。

 それでも今度は声一つ漏らさないように、既に血でまみれている自身の唇を、食い千切らんばかりの力で噛んだ。

 このまま注意が自分に向くのならば、それが一番良い。


 ……だって、後ろの方で、何かが立ち上がる気配がするのだから――

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