#19 名前で呼んでくれたから

「……は……ッ、はぁ……ッ」


 耀太郎は屋上に来ていた。そこで凛乃を降ろし、飛び降り防止の為に張り巡らされた鉄柵にもたれかかる。

錆の強い臭いがしたが、それは自分の血の臭いなのかどうかすら、もう分からない。


 ここに来るまでに、出来る限りのことはしてきた。

 恐らく敵は血痕を追うはずだから、耀太郎は適当な場所に血痕を残しまくり、防火用のシャッターがあれば降ろし、外に飛び降りたと思わせる為に銃で定期的に窓ガラスを割った。

 雑な仕込みであるが、これで五分ぐらいは時間を稼げるだろう。


「おい……起きろ、新人……」

「う……ぅ」


 耀太郎が凛乃の頬を足で軽く小突いて気付けする。

 うめき声を上げながら、凛乃はゆっくりと目を開いた。


「いば……さん……?」

「おう……気分は、どうだ……」

「伊庭、さん……!? どうしたんですか、その怪我!?」


 驚いた凛乃が、すぐに飛び起きる。

 耀太郎のワイシャツは真っ赤に染まり、ジャケットも流れ出る血で濡れそぼっている。

 顔色も病的に悪く蒼白で、息も絶え絶えだ。

 だが、耀太郎はそんな凛乃を制し、一言で訊ねた。


「――聞いたのか、全部」

「……それ、は……」

「悪いな……俺と明彦は、全部知ってた……。知った上で、お前には黙ってた……」


 凛乃は耀太郎が、両親の事故について言っているのだと、すぐに察することが出来た。

 耀太郎がそれを知っていたと聞いて、少しだけ驚き、しかし頭を横に振る。


「悪いのは、わたしです……。わたし、両親のことについて、何も知ろうとしませんでした……。知るのが怖くて、でも知りたくなって……だから、あの人達の誘いに乗って、一人で黙ってここに来ました……。でも、そのせいで……伊庭さんが、こ、こんな怪我を……っ」


 涙目になりながら、凛乃が懺悔するように言う。それを聞いた耀太郎は、ずるりと鉄柵に背を預けて座り込む。

 このまま眠れば楽になれそうな気がしたが、何とか意識を踏み止まらせる。


「この怪我は、お前のせいじゃねえよ……。元々、俺一人で、処理する案件だった……お前は、関係ない。単に、俺が油断してた、だけだ……まぁ、勝手に一人で、ウロチョロしたことに関しては……ここを、切り抜けた後に、たっぷり説教してやるけどな……」

「伊庭さん……! し、しっかり、してください……!」


 もし凛乃が居なければ、耀太郎はあの場を何とか切り抜けることが出来ただろう。耀太郎本人もそれはわかっている。

 だが、それを言っても仕方がないので、何も言わなかった。


 それに、精神的な傷を負ったであろう凛乃が自分の感情を後回しにして、耀太郎を献身的に心配していることが妙にいじらしくて、笑いそうになるのだ。

 どうやら、血を流しすぎると感傷に浸りやすくなるらしい。

 詮無きことを考えつつ、耀太郎はポケットからインカムを取り出した。

 ランプが激しく明滅している――こちらからではなく、相手から通信を飛ばしている状態だ。

 震える手でゆっくりとインカムを装着する。その瞬間、明彦の声が耳朶を大きく打った。


『耀太郎っ!! 大丈夫!?』

「お前、寝とけっつったろうが……。パソコン点けて、仕事してんじゃねえよ……」

『違うよ! その、何だか突然悪寒がして……何故だか分からないけど、耀太郎が危ないんじゃないかと思って……』

「それで通信した、ってわけか……。ハッ、安っぽい奇跡だな……。まあ、助かったけど、よ……」


 自嘲するように耀太郎が笑うが、既にその声色だけで、明彦は耀太郎が深刻なダメージを負っていることに気付いた。

 そして気付いた上で、努めて冷静に尋ねる。


『……じょ、状況を……早く説明して』

「今回の案件は、全部罠だ。ハメられた――相手のガキに、人間を操作するヤツがいる……。結果、《鷹の目》全員が、敵に回っちまった……で、撃たれた。しかも、実弾だ……四発喰らったが、多分俺じゃ、なかったら、死んでるだろうな……。身体鍛えてて、良かったと、心から思うぜ……」

『……っ! ぼくの、せいだ……』

「うるっせえな、責任問題なんざ……どうでもいいだろうが……。話は、最後まで聞け……。いいか、今、新人がここに居る……。全部、知ったらしいぜ。で、そのガキ共が、新人の両親を殺した犯人だ……」

『凛乃ちゃんが……!?』


 呼吸をすることに苦しみを感じ出してきた。

 常人よりも遥かにタフな耀太郎だが、ここまで来るのに血を流し過ぎてしまった。本来ならば、一刻も早く病院に駆け込まねばならない状態なのだが、生憎とここは廃病院で、既に医者など一人も居ない。

 更に救急車を呼んだところで、この場所に来るまでに果たして何分掛かるか、分かったものではない。

 そもそも――黒澤達を退けなければ、それをすることすら不可能だ。


 耀太郎の命は、まさに絶体絶命の状況だった。

 凛乃は弱りつつある耀太郎を見守ることしか出来ず、ただ歯噛みして涙を流すことしか出来ない。


「……明彦。恥を、承知で、頼みたいことがある……」

『分かってる。いつでもいけるよ。何も気にしなくていいからね』

「いいや、気にする……だから今度、何でもしてやるよ。……お前が、望むことをな……」

『ほんと? なら……遊びに行こっか。ぼくと、耀太郎と、凛乃ちゃんの三人で』

「お安い、ご用だ……お前の受ける、苦しみに比べたら、そのぐらい……。さて、んじゃ、二分ぐらい時間をくれ……新人に、説明するからよ……」

『……うん。また、二分後に。約束、楽しみにしてるから――』


 通信が途絶える。耀太郎はインカムをポケットにしまいこみ、凛乃の方を見やった。

 既に視界はぼやけており、凛乃の人形みたいに均整の取れた顔が、ブレて三つぐらいに分身している。

 力なく手招きをして、耀太郎は凛乃を自分の近くにしゃがみ込ませた。


「お前に……頼みたい、ことがある」

「はい……! 何でも、やりますっ……!」

「なら、まず、俺のことは心配すんな……。お前にゃ言ってなかったが、ウチには、がある……それを、今から使う……」


 こくりと凛乃は頷く。切り札がどんなものなのかを知る時間すら惜しい。よって、質疑は全て捨て置いた。


「ただし……使うのには、若干時間が掛かる上に……俺の意識は、その間、トンじまう。どのくらい、の、時間が掛かるかは、分からねえ……が、俺らの状態を、考えると、今から五分以上は絶対に掛かる。お前に、頼みたいのは、その間……ここまで追ってきた、クソガキ共を、押さえつけることだ……」

「おさえつける……ですか……?」

「ああ……。万が一、俺に攻撃が飛んだら、俺は避けることすら、出来ねえ……確実に、死ぬ。だから、俺が起きるまで、お前は、あいつらの注意を……引きつけろ……。敵はガキ七人に、《鷹の目》のヤツらが、十人……リーダー格のクソガキは、無能力者を操る……」


 敵が増えていることに凛乃は怖気づく。

 《鷹の目》は、《傷持ち》相手の為に運用される組織だ。それが操られて、自分達に敵対しているとは――


「いいか、まずは、《鷹の目》が持ってる、銃を、破壊しろ――それも、、だ……」

「でも、それは――」


 一度に複数のターゲットを狙うことは、今の凛乃にはまだ出来ない。出力の調整だって、未だ実戦レベルには程遠い。

 しかし、銃を一丁ずつ順繰りに破壊する余裕など無いに決まっている。

 仮に一発でも、凛乃や耀太郎に撃ち込まれればそこまでだ。

 一度に、一撃で、一回だけで、相手の武器を破壊する――それが、凛乃がまず超えねばならない最低条件だった。


「何でも、やるんだろ……? なら、やれ……! やってくれ……!!」

「………………っ」

「お前だけが、頼りだ…………

「……! はいっ!!」


 その力強い返事を聞いて、耀太郎はにやりと笑い、項垂れる。

 眠るように瞳を閉じて、全身からガクンと力が抜けるのがはっきりと分かった。

 さながら事切れたようだったが、うっすらと呼吸だけは続いている。まだ死んではいないようだった。


 色々と思う所がある。悲しみも憎しみもある。心に容量があるとするならば、もうとっくにパンク寸前になっている。

 しかし、伯父に復讐するにしても、耀太郎と明彦に謝るにしても、ここを切り抜けねば何も始まらないのだ。


 凛乃は屋上の入り口を見据える。夜風に混じって、幾名もの人間が階段を踏み締める音が聞こえた。

 今より短くて五分を――たった一人で、保たせなければならない。それが出来なければ、自分も耀太郎も、終わりだ。


 御子柴 凛乃の、最初にして最大の初陣が、幕を開けようとしていた。

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