#10 ウロボロス② -依る辺-
「ま、しゃーねえわな」
「……そうだね」
いつかは言おうと思っていたが、今言うべきでは無かったか。明彦はそう思ったが、耀太郎は特に気にする様子もない。
そもそも――この二人は凛乃に対して、明かしていない情報がかなりある。
別にひた隠しにしているわけではなく、もっと凛乃がこの事務所に馴染めば段階的に開示していこうと考えているのだが、その度にこうやっていずこかへ旅立たれてしまうのだろうか。
「もうアレも言っちまうか。小出しにして毎度あんな反応されたら面倒臭えから」
「ぼくは別に構わないけど。タイミングは任せるよ」
そう言って、明彦はパソコンのディスプレイに目を落とす。
ちらりと横目で耀太郎はその姿を確認し、何か言いたいことがあるのだとすぐに察した。
二人の付き合いはもう二十年に及ぶ。六歳の時に出会い、そして今まで、何だかんだほとんど一緒に生きて来た。
耀太郎の人生には明彦が、明彦の人生には耀太郎が、それぞれ色濃く映り込んでいる。最早それを無くすことなど、少なくとも明彦には出来なかった。
「…………ねえ」
だからこそ――聞いておきたいことが、一つだけあった。
「あ?」
「本当に、《ウロボロス》の活動は、黒歴史で若気の至りだったって思ってる?」
「…………」
どこか淋しげな様子なのは、きっと気のせいではない。耀太郎はそれを分かりつつも、ぶっきらぼうに答える。
「思ってる。色んな意味で、アレは間違ってたろ」
間違っていたが――何が、とは言わない。或いはその全てが、かもしれない。
しかし、耀太郎はすぐに次の言葉を急いだ。
「けどよ、別に全否定するわけじゃねえぞ。お前がそうなったのも含めて、若気の至りってヤツだ。心配しなくても、あの活動が嫌だったわけじゃない。勿論、お前が嫌ってわけでもない。黒歴史とか若気の至りって言葉で、単に俺は過去を蹴っ飛ばしてるだけだ。イチイチ邪魔臭えからな」
色々と考えるのがよ、と耀太郎は最後に付け加える。
もう嫌というぐらいに、今まで自分の過去と向き合って来たのだ。その折り合いは、とっくに耀太郎にはついている。
普段は激情家で気分屋で精神的に幼い部分がある耀太郎だが、その芯は鋼のように強い。
一方で、理知的で冷静で自分を律することが出来ている明彦は、反面精神的に非常に脆い部分がある。
時折こうやって、いきなりスイッチが入ってしまうのだ。しかし、その原因を耀太郎は知っているから、あえて何も言わない。
ゆらりと、幽鬼のように明彦は立ち上がった。栗色の髪の毛が、所作に合わせて柔らかく揺れる。
そのまま覚束ない足取りで、椅子に座ったままの耀太郎の隣に立つと――甘くてとろけそうな、嗅ぎ慣れた彼女の匂いが、耀太郎の鼻腔に少しずつ広がる。
「………………」
唐突に、明彦は耀太郎に倒れ込んだ。
耀太郎は椅子を引いて立ち上がり受け止めようとするが、全体重をなすがままに任せて倒れる明彦の方が強かった。
キャスター付きの椅子だけが、ころころと遠くへ転がっていき、二人はオフィスの床に倒れ込む。
まるで蛇のごとく、明彦はその腕を絡めるように耀太郎へと回していた。覆い被さるようにして押し倒された耀太郎は、身動きが取れない。
普通逆だろ――と、内心独りごちる。
「あつい。体温高くねえか、お前」
一言、文句を言う。が、耀太郎の胸に顔をうずめる明彦には聞こえていないようだった。
そこに耀太郎が居ることを確かめるように、手放さないように、離れないように、息を荒らげて匂いを嗅いでいる。
犬の方がもうちょっとマシなじゃれ合いをするだろう。これではただの緊縛である。
「……………………」
「いつまで経ってもお前は変わらねえな。もう二十七だっつーのに」
明彦の方が耀太郎よりも一つだけ年上だ。大した差ではないのだが、それにしたって、もう四捨五入すれば三十路である。いい年していると呼ばれる歳だ。
が、耀太郎は抵抗をしなかった。いつ、どこで、何であれ、明彦を受け止めてやるのが耀太郎の在り方なのだ。
ひどく柔らかく凶悪な膨らみとか、甘い匂いとか、耀太郎自身の危ないモノが互いの身体に接触しているが、そこは長年培った慣れで何とか抑え込んでいる。
出家出来んじゃねえの俺、と何となく耀太郎は思った。
「……捨てないでね、ぼくを」
「そりゃこっちのセリフだ。お前が俺を雇ってんだから」
――耀太郎と明彦に、両親はいない。
二人は遺児と捨て子だ。故に、共に同じ施設で育った。
比喩でも何でもなく、本当に二人は仲間であり、同輩であり、親友であり、家族であり――しかし、それ以上の何かではない。
耀太郎の両親は、物心付く前に既に死んでいた。だから、両親の顔すら覚えていない。遺産とか土地とか、せめて両親の写真でもあれば、もうちょっと親に対して執着することが出来たかもしれない。
が、耀太郎に遺されたものといえば、伊庭という苗字と耀太郎という名前だけだ。
そんな『まっさら』な状態だったからこそ、育った施設自体が我が家のようなものだった。
一方で明彦は、七歳の時に施設へとやって来た。両親に捨てられて、引き取られたらしいが、それに至る詳しい事情は耀太郎も知らないし、特に知る気もない。
ただ、だからこそ明彦は『まっさら』ではない。記憶のあちこちに、両親との思い出がヘドロのように染み付いてしまっていた。
明彦が施設に馴染むまでは大変だった。当時から施設の少年少女の中でボス猿のような位置に居た耀太郎とは、幾度と無く衝突を繰り返した。
もっとも今となっては楽しげな思い出だが、たった一つだけ、明彦の心には大きな傷が残った。
誰かから突き放される恐怖、誰かから捨てられる恐怖、誰かが居なくなる恐怖。孤独になるという恐怖。
それらは今もまだ、明彦を蝕んでいる。
きっと、生涯消えることのない傷痕として、これからも残り続ける。
幼少期に負った心の傷というものは、早々簡単に癒えないものらしい。生来、繊細な気質なのも影響しているのだろうが。
こうして明彦が耀太郎を強く求めてしまうのは、明彦にとっての『誰か』が、耀太郎で固定されてしまったからだ。
故に、耀太郎が少しでも突き放したりするだけで、偶発的にスイッチが入る。そうなるともう、獣よりもしつこくこうして密着してくる。
「にしても、年々酷くなってねえか? 中学ん時とかは、同じ部屋にいてやるだけで良かった気がするんだが」
「………………」
端的に言ってしまえば――明彦は耀太郎に強く依存しているのであった。
もし耀太郎が死にでもすれば、一日と保たずに後を追って自殺するだろう。
それはそれでどうなんだと耀太郎も思うが、取り敢えずコイツより長生きしてやろうとだけは心に誓っている。
そんな二人が凛乃を簡単に迎え入れたのは、間違いなく凛乃が両親を失ったから、という部分が大きい。
凛乃の両親がどちらか片方さえ健在ならば、どれだけ凛乃が強く出たところで、絶対に雇わなかっただろう。
さっさと機関に凛乃を渡して、そこでサヨナラしていたはずだ。
詰まるところ――怪しい伯父が居ることも含めて、二人は凛乃に同情的だったのである。
無論、凛乃はそんなこと知る由もないし、二人がそれを表面に出すことはないのだが。
「ったく……あのボンクラが外出てて助かった。こんなザマ見せらんねえぞ」
何とか片腕を動かし、耀太郎は明彦の背中をぽんぽんと叩いた。
それはもう赤子をあやすようですらあったが――再度説明しておくと、二人の体勢は明彦が耀太郎を押し倒している形である。
くぐもった声で、明彦はぼそりと呟いた。
「…………そうかな」
「あ? ……あああああああああああああああああッ!?」
そして今更になって耀太郎は気付く。
熱い視線が自分達に注がれていることに。それがオフィスの入り口からやって来ていることに。
こんな状況でなければ、すぐに反応出来ただろう――
「新人、てめぇッ! 見てやがんな!? あっち行けオラ! 見せモンじゃねえんだぞこの野郎!!」
「み、見てないです! 見てないですよう、はぁはぁ!」
「何を興奮してやがんだクソ未成年が!!」
耀太郎の位置からでは、覗き見ている凛乃の姿は見えない。
が、割と前から二人の姿を見ていたのだろう。今来ました、という反応ではないからである。
どうも、こういう時だけ凛乃は気配を消すのが上手いようだった。
事実、一旦飛び出して外の空気を吸った後、冷静になった凛乃はすぐにオフィスに引き返していた。
すると、内部が何だかしっとりとした雰囲気になっていることに気付き、しかして二人に気付かれぬように、ちょっとだけ――好奇心全開で――覗いてみたのである。
そこで凛乃は目をひん剥いて息を呑んだ。
見れば、何と明彦が耀太郎を押し倒しているではないか。情事じゃあ! と、女子高生の頭の中のおっさん部分が叫んだ。
(これがあだるとなフインキ! お、おふぃすらぶっ!)
「離れろ、明彦……! バカが見てるっつーの……!」
「……やだ……」
コイツもバカなんだった、と耀太郎は歯噛みする。
がっちりと耀太郎をホールドする明彦は、レスリング女子もかくやといったレベルだ。どこにそんな力があるのか、或いは技術によるものなのか。
「いいんですよお二方! 今日はお仕事もお休みじゃないですか! でもお仕事がお休みなら、代わりに愛は出勤日なんです、きっと! さあ続けてください!」
「しょっぱい宗教家みてえなこと言ってんじゃねえよ! んで続けるつもりもねえ! だからとっとと離れろや、明彦!!」
「やだぁぁぁぁぁ! もっと耀太郎の匂い嗅ぎたいぃぃぃぃっ!!」
「だったら後で俺のパンツでも頭から被ってろ!! 洗ってねェのあるからよ!!」
「はぁはぁはぁ!」
「クソガキがぁぁぁぁぁーッ!! 失せろぉぉぉ!!」
――オフィス内にそれぞれの叫びが混ざり合ってこだまして、やがて貴重な休日はゆったりと過ぎていくのであった。
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