#7 初仕事!
《中藤第二創造都市》は第二、とあることから、《創造都市》として誕生したのは二番目にあたる。
そもそも、《創造都市》とは今後の人口の爆発的増加を見据えて、政府主導の元計画的に開発された都市のことであり、山岳地帯の多いこの日本において如何に土地を有効利用するか? という部分に主眼が置かれている。
即ち、建造物の高層化がまず特徴として挙げられ、他の都市と較べて比較的安価で高層マンションに入居することが出来る。しかしその分土地の値段は高く、《創造都市》内部に土地を買い、一軒家を建てることは中々の資産家でないと厳しいと言われている。
また、創造都市開発計画のテーマとして『未来と自然の融和』が掲げられる。
創造都市内部には非常に緑が多く、同時にモノレールや地下鉄などの、地上にあまり面しない交通網が発達している。
オフィス街には積極的に企業を誘致し、特に技術開発などを行っている企業に対しては、《創造都市》に開発拠点を置くだけで政府より補助金が出る。
同時に、今後世界的に迎えるであろう食糧危機に対しても目を向けており、《創造都市》内部で開墾をした農家に対しても補助金が支払われる。
なので周囲に目を向けてみれば、《創造都市》には思った以上に畑や田んぼ、果ては屋内プラントまでが数多く散見される。近郊農業及び地産地消に、真っ向から取り組んだ結果である。
ただし、これらはあくまで表の側面であり、《創造都市》には様々な闇が内包されている――
その中の一つが《開発放棄区画》であり、これは様々な事情により都市開発を断念した――土地の権利譲渡が上手くいかなかった、開発における資金繰りに失敗した等――場所が幾つかある。
政府の方針としては、状況が整い次第再開発を行うとのことだが、現状その気配はまるでない。
《開発放棄区画》には、建てかけのビルや更地、一つもテナントの入っていない建造物等が数多くある。勿論人が住んでいる場所もあるのだが、その大部分が『曰く付き』な人間ばかりだという噂だ。
早い話――《
「そういったトコに、俺らは小型監視カメラを設置してる。電灯にタカる蛾みてえに、悪ぶったバカは人目の付かない場所に集まるからな。高確率でそこに《傷持ち》も居るって寸法だ。で、そいつの情報を調べられるのなら明彦が調べて、俺が捕獲に行く。《探索》ってのはその繰り返しだな。《鷹の目》は事件が起こってからが仕事だし、警察もこの都市全域をパトロール出来てねえから、ある意味では俺らにしか出来ない仕事だ」
「へぇ~……まるで正義の味方ですね!」
助手席で背筋を伸ばし着席している凛乃が、少し誇らしげに言った。そのような業務の一環に携われることが嬉しいようだ。
しかし耀太郎はキッパリと「正義の味方じゃない」と言う。
「お前が何を思って仕事するかはお前の勝手だが、常に自分には正義があると思ってっと、いつか痛い目に遭うぞ。これは『仕事』であって『ボランティア』じゃねえ。割り切れる部分は割り切れ。分かったか?」
「……? 分かり、ました」
完全に分かっていない感じだったが、まあいいかと耀太郎は思い、ハンドルを切る。そしてコインパーキングに社用車を停め、ギアをパーキングに戻してサイドブレーキを引いた。
その後エンジンを停止させ、ふうと一息つきつつキーを引き抜く。
「着いたが、その前にもう一回復習だ。今回のタゲは誰だ?」
「《
「そうだ。つっても、偶然発見しただけだがな。で、この《開発放棄区画》のボロアパートにそいつが住んでる。号室も調べがついてるから、今から突撃訪問すんぞ。お前は俺の後ろでニコニコしとけ」
基本的に、凛乃に何かさせるつもりは耀太郎には一切ない。凛乃もそれを分かっているようで、素直に「はい!」と元気な返事をした。
二人は車を降り、五分程度歩く。すると木造の、朽ちかけたボロアパートが目に飛び込んできた。
敷地内は青々とした雑草が生い茂り、アパートの外周を覆うブロック塀もあちこちがひび割れて崩れている。
「ほ、本当に人が住んでるのでしょうか……?」
「当たり前だろ。壁と屋根があるだけマシだ」
むしろ壁と屋根が無い時点で、それは既に家とは呼べないのではないかと凛乃は思ったが、耀太郎の価値観にツッコミを入れるのはやめておいた。
赤茶色に錆びた鉄階段を上がって二階に行き、更に通路の最奥にある扉の前まで歩く。郵便受けには大量のチラシがお腹いっぱい詰め込まれていて、ボロボロの木製のドアはどこか威圧感さえある。
とても人が住んでいる状態とは思えなかったが、耀太郎は何の躊躇いもなくドアをドンドンと叩いた。
「こんちゃーっす! 飯間さんのお宅ですかー?」
「あの……一応、インターホンがそこにありますけど」
凛乃はおずおずと、扉の脇に備え付けられている小さなインターホンを指差したが、耀太郎の「鳴らねぇだろどうせ」という一言に切り捨てられた。
尚も耀太郎は、借金取りのようにドアをガンガンと叩き続ける。
執拗に在宅か否かを調べているその姿は、どこぞの借金取りと思われても仕方がないのではないかと、凛乃はぼんやり思った。
「……っせぇな。んだよ、セールスか?」
きい、と小さい悲鳴のような音を立ててドアが開く。
その隙間から、家主である飯間がちらと顔を覗かせた。すると耀太郎は、半ば強引にドアノブを引っ張って扉を全開放し、飯間の姿を露出させる。
「うわ!」
「うーっす、飯間くん。今ヒマ? ちょっと喋ろうぜ~」
(警察呼ばれたらどうしましょう……)
飯間は痩せぎすで、背の高い少年だった。
耀太郎よりも更に少しだけ背が高いので、大体百八十センチくらいだろう。短い髪の毛を金色に染め、両耳にはピアスをしており、最近怪我をしたらしく頬には生々しい傷痕がある。
目付きは鋭く、また目の下に隈が出来ている。とても十八歳とは思えない容貌だった。二十五歳くらいと言っても充分に通じるだろう。
「何だあんたら……? セールスならマジ帰れって。必要ないから」
「ちげーよ。別に手間は取らせねえさ。飯間。お前さあ、《傷持ち》だろ?」
「…………ッ!」
飯間の表情が変わる。厄介なセールスマンが来たのではなく、それよりもっと厄介な、何者かが来たのだと警戒した。何より、表札も何も無いのに飯間の名前を知っている時点で、それなりに警戒すべきだろうが。
耀太郎はフランクな感じを崩さない。凛乃の時もそうだったが、これが耀太郎なりの『説得』のスタイルらしい。
と言っても、どこかしら挑発的なのはきっと気のせいではないと、凛乃は思った。
「警察か、てめぇ」
「それもちげーって。セールスマンでも保険屋でも警察でもねえよ、俺は。単純にお前のことを『説得』しに来た、親切なナイスガイだ」
(ないすがい……)
「あぁ!? 意味分かんねぇ……!」
「お前、随分と『能力』使って暴れてるそうだな。今はまだ大丈夫だろうが、その内警察にガチで目ェ付けられんぞ。そうなる前に罪を軽減させてやる。なーに、ちょっと特殊機関に出向くだけでいい。そこで適切な処置を受けて、『能力』を消失、或いは減衰させろ」
耀太郎が保護、或いは捕獲した《傷持ち》はどうなるのかというと、政府主導の施設に入り、そこで保護観察下に置かれる。
同時に軽度の能力者であればカウンセリング――《若年性延長能力覚醒症候群》は心的要因により発症をするからだ――による治療を、中度~重度の能力者は、長期の投薬による強制的な『能力』の消失、もしくは減衰を図る。
いずれも時間が掛かるのが難点だが、しかし現在『能力』をすぐに消す方法は、ほとんど存在していないと言われている。投薬による治療法も、最も速いケースですら一ヶ月は掛かる。
カウンセリングも具体的にどのくらい時間が掛かるのかは、《傷持ち》個々人によるところが大きく、よって現状施設はパンク寸前状態らしい。
が、国としても《傷持ち》を放置するわけにもいかず、そもそもそんな事情耀太郎には関係ないので、耀太郎は今もバシバシ捕らえては送っている。
飯間は警戒を崩さず、じろりと耀太郎を上から下まで眺めた。どの程度『やれる』のか観察していることは明らかだったが、耀太郎は特に気にしない。
「悪ィけど、帰ってくれ。俺はこの力を手放すつもりはない。金でも積めば話は別だけどさ」
「ハハ、積むわけねーだろ! むしろ俺が積んで欲しいぐらいだぜ」
「……じゃあ話すこともない。消えろよ」
飯間がドアノブに手を伸ばす。ドアを無理矢理に閉めようとするが、耀太郎はそれを防ぐかのように、飯間の手首をがしっと掴んだ。
「うわ! 何しやがる!」
「何度もめくれて擦り剥いてるから、皮膚がゴツゴツしてんな。岩肌みてえだ」
「あぁ!?」
耀太郎は、じっと掴んだ飯間の手を見ている。
しかし当然、飯間にとっては不愉快そのものなので、大きく腕を払って耀太郎の手を振り解いた。
「良い手してんな、って褒めてんだよ。ボクサー」
「てめぇ……!」
「ぼ、ぼくさー?」
凛乃が首を傾げる。飯間はボクサーである――という情報など聞いていない。
が、飯間の反応を見る限りその通りらしい。どうやら耀太郎は、凛乃よりも深い事情を知っているようだった。
「《飯間 春》。高校一年次よりインハイ、国体、選抜のボクシング競技三冠を達成。目下、次世代オリンピック選手候補、或いはプロボクサー候補と見られていた。が、二年次――五冠を達成し、高校六冠を目指す前に突如退学。以降、ボクシング界隈より姿を消す。で、今は路上で喧嘩に明け暮れるボンクラの一人にまで成り下がってる、大バカ野郎だ。違いないな?」
「え? え?」
ボクシングのことなど全く分からないが、でもそれはかなり凄い経歴ではないのかと凛乃は思った。
インターハイや国体という単語は凛乃ですら聞いたことがあるし、そこで優勝しているのならば、飯間は相当な実力の持ち主だったのだろう。
「だからどうだってんだよ、オッサン! てめぇマスコミか何かか!?」
「ちげーって言ってんだろ。あとオッサンって言うんじゃねぇよお兄さんだろうがこの野郎」
「そこはどうでもいいのでは……」
「うるせえな黙ってろ新人! で、だ。お前何でボクシング辞めたんだ?」
「……知るか。てめぇには関係ない。マスコミのゴシップでも漁ってろよ」
「おう。で、漁った結果――どうも、お前ドーピング疑惑を吹っ掛けられたらしいな。その強さは有り得ないって理由からよ。しかもそれが事実なのか否か、お前は答えずにリングを去ったから真相は闇の中だ。が、世間的には
ぎり、と飯間が歯噛みする。耀太郎はやはり、目の前の青年についてかなり情報を仕入れた上でやって来ているようだ。
資料を渡され、それを一回読んだだけの凛乃には知り得ないことまで知っており、しかしそれが物凄く飯間の神経を逆撫でしている。
このままでは『説得』が失敗するのでは――と、凛乃は冷や汗が出るのを感じた。
「やってるわけねぇだろ!! 俺は、一生懸命努力して強くなっただけだ! それなのに、誰も……友達も、先生も、校長も、マスコミも、対戦相手も、誰も信じてくれなかった!!」
「だからって何も言わずに学校辞めんなよ。んなことするから勘違いされんだろが」
「うるせぇ! 仕方なかったんだ!」
「何がだ?」
ふと凛乃は気付く。耀太郎は相手の神経を逆撫でているようでいて、そのギリギリのラインで踏み止まらせていることに。
そして、自然と相手の口から情報を引き出していることに。
話を聞く耀太郎の顔付きは、真剣そのものだ。少なくとも、ドアをノックしていた時のような、おちゃらけた感じは一切ない。
それが飯間にも伝わっているのか、飯間は溜まっていた膿を吐き出すように続ける。
「母さんが……倒れたんだよ……! マスコミとか近所のどうでもいいヤツらとか、そんなクズ共に質問攻めにされて! 元々身体が強くなかったのに!」
「お前、こっちに出て来たクチか。故郷にかーちゃんが居るわけだな?」
「そうだ! ウチは父親が居ねぇから、母さんが一人で俺を育ててくれた! 一生懸命働いて、俺がジムに通う金とかも全部出してくれて……! だから俺、将来絶対、ボクシングでオリンピックに出て金メダル取るか、プロになってベルト獲ってやろうと思ってた! んで、テレビ出たりとか本出したりとか自分のジムとか持ったりして、使い切れねぇぐらい金稼いで! 母さんに恩返ししたかったのに! その母さんが…………!!」
凛乃は息を呑む。しかし何か言おうとする前に、耀太郎がはっきりと訊ねた。
「死んだのか」
「……。死んで、ない。けど、もう働くことは出来ない。ずっと寝たきりだ……ずっと」
「ほーう。つまりこういうことか? お前は故郷のかーちゃんを守る為に、ジムも学校もとっとと辞めて故郷に帰った、と。それは別にいい。薬物云々を釈明するよりも、自分の母親を守る方が男としては立派だと思うぜ。が、俺が解せねぇのはこっからだ。じゃあお前、何でまだここに居るんだ?」
本来ならば、飯間はそのまま故郷に残るべきである。
しかし現状飯間は、《中藤第二創造都市》に住んでいる。まだ母親が存命というのならば、故郷にその母親を残して、果たして飯間は何をしに来たのか?
耀太郎が気になるのはそこだった。凛乃も当然気になった。
「……母さんに追い出された。自分のことはいいから、とっととプロになるなり、メダル獲るなりしてこい、って。それまでは絶対に死なないし、夢掴んで、大金稼いで来いって……」
飯間は俯く。この先はきっと、他人に触れられたくない部分なのだろう。凛乃にとっての、伯父との関係のようなものだ。
しかし不思議なのは、この耀太郎という男に対しては、そのような秘密であろうとも何故か話せてしまうことである。
「でも、出来なかった。お前に付き纏う黒い噂のせいで、どこのジムもお前を引き取ってくれねえし、高校にもう一回入ることも出来ねえし、そもそも金に余裕もない。母親が働けない以上、お前自身が稼ぐしかねえもんな。恐らく日銭を稼ぐことに精一杯になったんだろ。母親の治療費も必要だろうに。火の車、ってヤツだな」
「………………」
(お金の……問題)
この飯間という男も、凛乃と同じく金が必要な人間だった。
しかし、飯間は凛乃よりも遥かに重い事情を抱え、そしてそれに潰されてしまった。ある意味では自分もこうなっていたかもしれないと、凛乃は飯間を同情的な目で見る。
「……母さんは治療費とか出さなくていいから、稼いだ金は全部自分に使えって言ってた」
「で、その結果が今か? 毎日生きることだけに必死になり、金は手元に残らず、夢は追えない。故郷に帰ることも出来ない。やがて追い込まれたお前は《発症》し、自堕落に生きるようになった。一体幾らぐらい奪ったんだ? 罪もねえ他人からよ」
「知る、かよ……。もういいだろ、ほっとけよ俺のことなんか! 逮捕したけりゃ、警察でも何でも呼んでこいよ!! 全部ぶっ飛ばしてやっからよ!!」
「悪いが、お前を施設にブチ込むことが俺の仕事なんでな。逮捕云々は知らん。されたきゃ勝手にされてくれや。俺の仕事が終わった後で頼むわ」
「帰れっつってんだろ!!」
飯間が右腕を引き絞り、耀太郎の顔面目掛けて放つ。
感情に任せただけの右ストレートだが、飯間の持っている天性のセンスと合わされば、充分に殺傷能力を有した武器になる。
少なくとも、凛乃には一体何が起こったのか、まるで見えなかった。
「……ッ!?」
拳の先が、肉を叩く感触が無い。飯間はその時点で、目の前の男が単なる政府の回し者ではないことを悟った。
元々只者ではないとは感じていたが、改めて自分自身の拳で確かめたことによって、ぞくりと全身を粟立たせる。
「いいパンチしてんなー。けど、サボってんだろ? 昔見た時の方が明らかにキレがあったぜ」
耀太郎は顔面に当たるギリギリで、飯間の手首を掴んでその拳の勢いを完全に殺していた。並の反射神経で出来る芸当ではない。
また、飯間は自分の腕がまるで動かないことに遅れて気付く。とんでもない力で、手首を掴まれているのだ。
「てめぇは、な、何なんだ……!? 何者なんだ……!?」
「だから言ってんだろうが、ボクサー。俺はお前のことを『説得』しに来た、そこら辺には居ないナイスガイだっつーの。ほら、掴んで悪かったな」
耀太郎は飯間の手首を解放し、そしてすぐに戒めるように言った。
「いいか。お前が拳を振るうのはここじゃねえ。リングの上だろうが」
「それは、出来ることなら俺だってそうしてえよ! でも、今更どうにもなんねぇだろうが! 金もないし、母さんに合わせる顔もないし、そもそも俺はボクシング界から警戒されてる! 悪いコトだってしちまった! どうしろってんだよ、俺に!!」
「知るか、てめえで考えろ、人生に教科書なんざねえわ――と、言ってやりたいところだが、今回は特別に教えてやるよ」
「え? わたしの時は」
べしん、と凛乃の方を振り向きすらせずに、耀太郎は手の甲で彼女の額をはたいた。黙ってろこの野郎と、その背中がありありと語っている。
「そもそも、《傷持ち》が表舞台でスポーツなんざ出来るわけねえだろ。反則甚だしいっての。だからまずそれを消せ。で、自分の行ったことを反省しろ。それらは全部、お前が行く施設で出来る」
「でも、そんなことしたって、その後が……」
「金の問題なら、俺の知り合いのトコを紹介してやる。キツい肉体労働だが、その分報酬は出る。日雇いで日銭稼ぐよりマシだろうよ。でもボクシングに関しては自分で何とかしろ。本当にお前がドーピングも何もやってねえのなら、検査なり何なり受けても問題ねえわけだろ? ならその後はリングの上で分からせてやれ。お前の価値をってヤツをよ」
ぽかんと凛乃と飯間の開いた口が塞がらない、二人は面食らったように耀太郎の方を見た。
凛乃は「わたしの時より遥かに甘くないですか」という抗議の目を、飯間は「なぜ」と言った風な目をしている。
が、耀太郎はガシガシと頭を掻いて一蹴する。
「つまりはてめえのやる気次第ってこった、ボクサー! そこまでしてやんだから、黙って施設に入れっつー俺からの取引だよ! バカみてえに口開けてねえで返事しろ! やんのか、やんねーのか、どっちだ!?」
「あ、あの、その――何で俺なんかにそこまで……? それに、あんたの言ってることが、本当か嘘かだって分からないし……」
確かに飯間の言っていることはもっともである。
突然現れた得体の知れない男が、自分にとって都合の良い取引を持ち掛けてくるのだ。詐欺を疑っても仕方がない。
「単純な話だ。俺、お前のボクシング好きなんだよ」
「え……?」
(初耳ですけど……?)
そう言えば、耀太郎が先程『昔見た時の方が明らかにキレがあった』と言っていたことを、凛乃は思い出す。
耀太郎が凛乃よりも飯間について詳しく知っていたその理由を、聞くまでもなく耀太郎自ら語り始めた。
「ボクシングファンの間じゃ、お前は期待のホープだったんだぜ? お前のして来た努力は分からねえが、少なくともお前の才能は外野から見てても分かる。それを見す見す腐らせるのは、一ボクシングファンとして勿体無いと思ったから、俺はわざわざここまでするんだよ。もっと簡単に言えば、俺はお前に目をかけてた、お前の旧来のファンだったってことだ。これが理由じゃダメか?」
『説得』の妙を凛乃は見た。
飯間のファンであることを耀太郎が公言した瞬間、飯間に残っていた最後の警戒心が解けたのを感じたのだ。
決して丁寧な口調でもないし、その胡散臭さも拭えないが、それでも確実に耀太郎は飯間の抱えている事情を聞き出し、そして道を示した。
そこまでしてやる理由も、とても簡単なものだった。
疑おうと思えば、いくらでも疑うことは出来るだろうが――少なくとも飯間は耀太郎のことを少しは信じたらしい。
「お前が一年の時のインハイの決勝、あれ危なかったよなー。緊張してたのか?」
「あ、はい……結構緊張に弱いんで、俺」
「でもラウンド食えば段々没入するタイプだよな。お前の二発貰おうが、それを上回るだけの重い一発を逆に叩き込むファイトスタイルは好きだぜ。やっぱボクシングはKO取ってナンボだよな! 判定勝ちとか見てて寒いっつーの!」
「だよな! あ、いえ、ですよね! 相手をマットに沈める快感を覚えたら、もうアウトボクサーには戻れないッス!」
「好きなボクサーとかいんのか? 尊敬してるボクサーでもいいけどよ」
「やっぱオスカー・デラホーヤですね! 一人のボクサーとしても、ビジネスの成功者としても、あんな風に俺なりたいッス!」
「お前ありゃ別格だろ! 超有名人じゃねーか!」
(え? え? 何の話してるんですか? というか雰囲気が――)
まるで街中でたまたま遭遇した同校の先輩と後輩のように、急激に二人の雰囲気が柔和になって凛乃は目を丸くした。
少しでも相手の心を開いたら、そこに全力で身体をねじ込む――それが耀太郎なりの『説得』のスタイルなのだが、今の凛乃が知る由もない。
ただ、まるで何かの『能力』でも使ったのではないかと思うぐらいに、飯間は耀太郎と楽しくお喋りを始めてしまった。
「っと、楽しくお喋りするのも良いんだが、俺も仕事でな。で、どうすんだ? 俺のことを信じられないのは分かる。けどよ、絶対に悪いようにはしないことを約束するぜ。もしお前が少しでも違うと思ったなら、俺のことを殺しに来てもいい。後で携帯の番号とか教えてやるからよ」
「いえ、信じます。ボクシングファンに悪いヤツは居ませんから」
それは極論ではないのかと凛乃は思ったが、黙っておいた。もう額を叩かれたくない。
「……割と辛い道になると思うぞ。それでも頑張れるか?」
「…………はい。出来ることならやり直したいって、俺も思ってたんで。でも、その方法も分からないし、頼れる人も居ないしで――」
「そうか。じゃあ最後に一つ条件がある」
「条件……?」
こくりと耀太郎は頷く。そして飯間に「携帯持ってるか?」と訊ねた。
携帯電話はどうやら持っているようで、返事をしつつ飯間はポケットからそれを取り出す。
「今すぐお前のかーちゃんに電話しろ。で、謝れ。んで誓え。『頑張る』って。それが――それだけが条件だ」
「え…………で、でも」
「早くしろ。これはケジメだ」
飯間はこちらに戻って来て以降、殆ど母親と連絡を取っていない。向こうから来る電話は全部無視していたほどだ。
その理由は非常に単純で、努力もせず行き詰まって、悪事に手を染める自分の情けない姿を、他ならぬ母親に知られたくなかったからである。
だが耀太郎は、それらを全て母親へ晒すのが条件だと言う。飯間は渋ったが、やがて意を決し携帯電話を操作し始めた。
数回コールした後、電話先で懐かしい声が響く。
『……もしもし。春かい?』
「…………うん。今、大丈夫?」
『そりゃあね、一日寝てばっかだし、こっちは。アンタこそヒマしてんじゃないだろうね?』
「……その、母さん」
耳に響くその声は、かつて自分を褒めて、叱って、笑い合った母のそれ――とは、程遠かった。着信相手が息子と知って、無理に声を張り上げている。
自分は元気なのだと、必死にアピールして来ている。心配するなよと、言外に伝えようとしている。
しかし、しわがれてやつれ切った身体から出るその無理をした声で、実の息子は誤魔化せない。故郷で最後に会ったその日よりも、もっと……弱っている。
飯間には、それが分かる。分かってしまう。
『何? 送って欲しいモノでもあるの?』
「……違うんだ……」
分かるからこそ、津波のように後悔が押し寄せる。
挫折して絶望して、身勝手な自堕落に身を任せて食い潰した時間を、少しでも母の為に使えていたのならば。
少しでも、自分の夢の実現の為に使えていたのならば。
きっと、こんな迷わずに――もっと胸を張って、母と言葉を交わすことが出来たはずなのに。
『分かった! 彼女が出来て、んでフラれたとか? アンタ昔っから、女の子と付き合うの苦手だったもんねぇ』
「ちっ――違うんだ!」
飯間は絞り出すように声を出した。電話を持つ手が震えている。声すらも震えている。
電話先の母親は何も知らない。一人息子は夢を追って、都会で一人頑張っているのだと、信じて疑わない。
後悔が津波とするのならば、この罪悪感は烈火の如く飯間の身を焦がした。
今すぐ母の目の前で土下座して詫びたいと、そんな都合のいい妄想が頭の片隅に浮かんだ。
「母さん……! おれ……、おれさぁ……」
ただ、一つだけ飯間には分かっていないことがあった。
電話先の母の嘘を、息子がすぐに見破れるとするならば――その逆もまた、然りなのである。
『……はあ。もう何も言わなくていいよ』
「……え……?」
『電話に出ない時点で、何かおかしいと思ってたさ。でも、アンタがそっちで何をしようと――それこそ警察に捕まって新聞に載ろうと、母さんはアンタのことを信じてるよ。アンタがいつかリングに立った姿を見れるってね。その為にこちとら、デカい薄型テレビを買って、観もしない有料スポーツチャンネルと契約したんだから』
「かあさん……」
『だから、アタシに電話して来たってことは、何か踏ん切りがついたとかそんなところだろ? 昔っからアンタ、悪いことしても絶対に母さんに言わないタイプだったし。でも褒めて欲しい時とか、応援して欲しい時は、すっごい遠回しにアピールするしさー。今回はどれか分かんないけど、言いたくないなら言わなくていい。そのうち――アンタがもっと立派になった時、一緒に酒でも飲みながら、こっそり言ってくれればいいから』
「…………でも、かあさん、おれ……は」
『しつこい! 男がメソメソすんな気持ち悪いね!! 親と無駄話してるヒマがあったら、ランニングの一つでもしたらどうだい!』
「かあさん!!」
母には何でもお見通しだった。そのことを、飯間は痛感した。
もう言い訳じみた理由を説明するつもりはない。謝罪するつもりもない。
ただ、一言だけ――伝えたい言葉だけを、飯間は伝えることにした。
「おれ……俺っ! 頑張るから!! 絶対に母さんを楽させてやるから!!」
『ん。期待してるよ。それまで長生きしながら待つことにする』
そう言い残して――電話先でぷつりと電波が切れる音がした。
それを聞き終わるや否や、飯間はその場で崩れ落ちる。
「あ……あああああああああああああああっ! うわあああああああああああああっ!!」
そして、周囲の目も憚らずに大声で泣き叫んだ。過ぎ去った時間への後悔と、不甲斐ない自分への怒りと、あとどれだけ残されているのか分からない母の命と、そしてその母の深い愛情を改めて知った。
知った上で、泣くことしか出来なかった。
飯間 春はとんでもない大馬鹿者であり、親不孝者であると、痛感したからだ。
「……ひぐっ、ううっ」
その飯間の姿に、凛乃も貰い泣きしていた。
今は亡き自分の母親への思いもあったが、それ以上に耳に聞こえて来た飯間の母親の言葉と、その裏に潜む愛に胸を打たれたのだ。
「親不孝が出来るってことは、逆に親孝行も出来るってことだ。それすら出来ねえヤツだってここに居るんだぜ。お前は幸せモンだよ。良いかーちゃん持って良かったじゃねえか」
「はい……はい……っ」
「いいまざぁん……わ、わだしっ……その、ずびっ……かんどーじまじて、えっと、んぐっ、だから、ふぐっが、がんばっずびっでぐだざい……」
「何言ってっか分かんねえぞ」
耀太郎は溜め息を一つ吐いて、ジャケットの内ポケットから取り出したハンカチを、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった凛乃の顔にグリグリと押し当てた。
そしてポケットティッシュを、うずくまって泣いている飯間に放り投げる。
「それで顔拭け、ガキ共! 飯間、これが俺の携帯番号とメールアドレスが書いてある名刺だ。明日にでも施設に行ってもらうから、後で時間出来たら俺に掛けてこい。そこで改めて話をすんぞ。今もう俺から何か言う必要も無さそうだし、ここいらで俺らは立ち去らせてもらうぜ」
耀太郎は踵を返す。ぢぃぃん、と凛乃が耀太郎のハンカチで鼻をかんでその後を追った。カピカピになるだろうが……と、ぼそりと独りごちる。
しかしその去り行く背中を、飯間は呼び止めた。聞いておかねばならないことがある。
「あの! ありがとう……ございました!! 俺、また頑張ります……! 絶対に、もう一度リングの上に立ってみせます!」
「おう。頑張れや。期待してっからよ」
「それと! 是非、あなたのお名前を教えて下さい!」
「フッ……言ったろうが。俺は単なる、ナイスガイさ」
格好をつけて、耀太郎は振り向かずに手だけをひらりと振る。びゅう、と一陣の風が吹き、ジャケットの裾がはためいた。
決まった――完全に決まった。これはどう見ても映画のワンシーンにしか見えない。金取ってもいいレベルだわ、と耀太郎は内心ほくそ笑む……のだが。
「この人は名刺にあるように伊庭 耀太郎さんで、わたしは御子柴 凛乃って言いまーす! 飯間さん、頑張ってくださいねっ! 応援してますからー!」
「はいっ! 伊庭さん、御子柴さん、ありがとうございましたっ!!」
「てンめぇはマジでこの野郎マジでぶっ飛ばすぞマジでテメェこのクソガキがァ……!!」
「え? え? わたし何かしましたっけ……?」
何で最後の最後にコントみてぇなオチになるんだよ! 耀太郎はそう叫んだが、そもそも耀太郎なりの様式美も何も、凛乃にとっては知ったものではないのである。
とりあえず車内で説教だな――そう心に決めて、二人は十月の涼やかな風の中を歩く。
飯間は二人の背中が見えなくなるまで、ずっと一礼していた。
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